2018年9月5日水曜日

事例学習 神門遺跡

村田川河口低地付近縄文集落の消長分析 8

1 神門遺跡の概要
都市小河川改修事業と都市計画道路建設事業に関わる区域の発掘が1987年~1988年に実施された。
調査は,地表から1.0~1.3mの厚さで堆積する水田耕作土などのかく乱層の除去から始まった。その後に調査区西側で南に延びる砂堆を検出するとともに,調査区中央から東寄りにかけて,本遺跡の中心的部分を占める縄文早・前期の貝塚と,早期から中世戦国期までのピート質・シルト質・ 砂質などからなる33枚の遺物包含層を検出した。このうち貝塚形成期以降, 中世戦国期までの堆積は10枚の層が認められており,西側砂堆上には古墳時代以降の溝と奈良時代以降の畦畔が検出された。

神門遺跡の位置

2 貝塚
貝塚は,調査区西側に検出された砂堆の内側に広がる後背湿地に,貝が堆積して形成されたものであり,上部貝層と下部貝層の2つのブロック層に分けられるもので, 12枚に大別できる層から構成され,これらはさらに185層に分層することができた。
貝層の形成時期は上部貝層11枚の大別層のうち,上位の4層までが前期中葉期, 5層以下11層までが前期初頭期に位置づけられ,下部貝層の12層が早期後半茅山式期に属するものである。
貝類の組成は,いずれの層でも中型・大型のハマグリが主体を占め,小型・中型のハイガイやマガキをともない,稀にオキシジミがまじっている。

遺構分布状況 「千葉県の歴史 資料編 考古1(旧石器・縄文時代)」から引用

貝層の断面 「千葉県の歴史 資料編 考古1(旧石器・縄文時代)」から引用

3 集石跡
集石跡は,貝塚の西側で確認した南に延びる砂堆上をはじめ,貝塚の東南側に広がる砂質シルト層面,貝層ないし間層のシルト層中に形成されている。2度の調査で計50基が検出されている。形成時期は,すべての集石跡から土器などの遺物が出土するわけではないので確定できないが,集積跡の検出面の相違などから判断して,早期後半から前期末葉の6つの時期に形成されたものと考えられる。内訳は早期後半茅山式期6基,前期初頭花積下層式期22基,前期前半関山式期7基,前期中葉黒浜式期9基,前期後半浮島式期1基で, このほかに前期末に属する1基,不明4基がある。検出数が最も多い前期初頭花積下層式期の集石跡は,貝層面のほか貝塚西側の砂堆面, 貝塚西南側のシルト層面に貝層を取り囲むように展開し,本貝塚と深くかかわりながら形成されたものと考えられる。
浅い掘り込みを有する集石跡のなかには,焼けた石にまじって焼土・灰・炭化物などが含まれるものがあり, 火の使用とかかわりをもつ施設であった可能性が高く,隣接する貝塚との関係などから類推すると, 生活を支えるために用いられた共同の調理用施設のような遺構と考えられる。

集積跡の分布 「千葉県の歴史 資料編 考古1(旧石器・縄文時代)」から引用

4 イルカの解体跡と魚骨集積
調究区東寄りの上部貝層中から、 イルカの解体跡と魚骨の集積が検出されている。イルカの解体跡は,貝層の11層下部の緑灰色シルト質細粒砂層上面から検出されたもので,層位的には花積下層式期で,南西から北東方向に傾斜する堆積層の上面に長さ約11m, 幅約2mの範囲に分布している。標高は2.7~3.2mである。
カマイルカの頭骨嘴部分には,解体痕とみられる切痕も認められ,出土状態から考えて, この場所は解体などの場所として使用されていたことを示しているものと考えられる
魚骨の集積は、…魚種はクロダイ属が全体の約9割を占めて最も多く,マダイ・コチ類がこれにつぎ,わずかにサメ類・エイ目・ボラ科, 淡水のコイ科などが認められた。貝塚を残した人々は, タイ科の魚類を好んで捕獲していたことがうかがわれ, 食生活の一端を示す興味ある資料といえる。

イルカ解体跡 魚骨集積状況 「千葉県の歴史 資料編 考古1(旧石器・縄文時代)」から引用

5 感想
早期後半から前期末頃まで続き、前期初頭を最盛期とする漁業拠点遺跡です。この遺跡は砂堆の背後で直接海面に接している天然の港であったと考えられます。イルカ、クロダイなど比較的沖合まで出て漁をして持ち帰った獲物を解体したり、保存食品に加工したりする産業遺跡であると考えることができます。
集石跡を「石焼鯨」製造装置であると考えると、イルカ解体跡出土と結びつき、この遺跡の特徴を浮き彫りにすることができると考えます。
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●石焼鯨 Wikipedia 鯨のジャーキー による
いしやきくじら。熱した石の上でクジラの切り身を炙(あぶ)り、脂を取ったあとのクジラ肉を干したものとされる。とても硬い干し肉で、熱い灰で温めたり、水で戻して食すると伝わる。北海道・利尻島のアイヌの伝統食でもあり、内地との交易品であった。
1696年に泰山(利尻山)に漂着した朝鮮人が残した『漂舟録』には、鯨の干し肉が大量に積まれていたことが記されており、当時の松前名産の石焼鯨だったと考えられている。この時、朝鮮人を世話したアイヌは、飯(米や穀物)ではなく「魚汁一腕と鯨の干肉何切れか」を朝鮮人へ食事として与えたと伝わる。
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この「漁港」を利用する人々の母集落が直近台地上にあるのか興味が湧きます。
この貝塚からイボキサゴの出土がなく、同じ時期にイボキサゴが採貝されていたのかどうか調べることにします。

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