縄文時代遺構から破壊土器片が出土する意味を一つの共通思考で明らかにできることがわかりましたのでその概要を忘れないうちに、粗々の全体像としてメモしておきます。
1 縄文時代炉穴、竪穴住居、土坑、ミナトなどの生活必須施設の廃絶場所から破壊された土器片が出土する
1-1 炉穴
炉穴を廃絶する時廃絶祭祀を行い、その祭祀行為の一環として手持ち土器片を投げ込み破壊したことが観察できます。(土器片を踏みつける、棒でたたくなどで壊す。)
大膳野南貝塚 早期 3号炉穴の出土土器 大膳野南貝塚発掘調査報告書から引用
1-2 竪穴住居
竪穴住居を廃絶する時廃絶祭祀を行い、その祭祀行為の一環として手持ち土器片を投げ込み破壊したことが観察されます。(土器片を強く地面に打ち付ける、壊してばら撒くなど)
大膳野南貝塚 前期 J56号竪穴住居の出土土器 大膳野南貝塚発掘調査報告書から引用
1-3 土坑
土坑を廃絶する時廃絶祭祀を行い、その祭祀行為の一環として手持ち土器片を投げ込み破壊したことが観察されます。(壊して投げ込んだ)
大膳野南貝塚 後期 189号土坑出土土器 大膳野南貝塚発掘調査報告書から引用
1-4 ミナト
ミナトを廃絶する時廃絶祭祀を行い、その祭祀行為の一環として廃用巨大土器を破壊したことが観察されます。
西根遺跡 加曽利B式期 破壊された土器集積 西根遺跡発掘調査報告書から引用
2 生活施設廃絶に土器破壊が伴う意味
2-1 土器片破壊は犠牲と同じ意味を持つ
生活施設(炉穴、竪穴住居、土坑、ミナト)を廃絶するときに廃絶祭祀(施設の送り)が行われます。その廃絶祭祀(施設送り)を視覚的に表現するためには何らかの象徴的活動が必要です。その象徴的活動が廃絶施設内における手持ち土器破片の送り(破壊)であったと考えます。
「王が死んだとき臣下が一緒に死ぬことにより王が本当に送られる(天国に行ける)という思考」つまり殉死(犠牲)という概念が古代にあります。この殉死という古代思考と類似の思考が縄文人の生活施設廃絶思考(送り思考)に組み込まれていたと考えます。
縄文人は施設を廃絶するために、つまり施設を送るためにはそれなりの犠牲が必要であり、その犠牲を手持ち土器片の破壊という形式で行ったのだと考えます。
土器片は経済の状況によって多寡はあるとしても誰でもいつでも所持できている財産です。土器片は現実に皿や容器等と同じ機能を備えた道具として利用されていたと考えることができます。この各人が持てる財産としての土器片を廃絶施設内に持ち込み、その場で破壊する活動により施設を送ることができると考えられていたと想像します。
縄文社会では土器片入手は誰でも容易であると考えられますから、施設送りのアイテムの一つして土器片を使うことは社会運営を円滑に進めるという点で合理的なことであったと考えられます。
2-2 土器片破壊の背景に利用可能完形土器の確保がある
縄文人は、生活施設(炉穴、竪穴住居、土坑、ミナト)廃絶を表現するために土器片あるいは廃用土器をその施設内で破壊しました。この「施設廃絶-土器破壊」活動の背景には新施設が既に完成し、その新施設に関わる新品完形土器が既に確保されていることがあると考えます。
崩れて使えなくなった炉穴を廃絶しそこで土器片を破壊するときには、既に新しい炉穴が作られていてそこで煮炊きする完形土器は確保していると考えます。
住居の主人家族が没した竪穴住居の廃絶祭祀で土器片を破壊するとき、集落住人の誰もが竪穴住居を確保していて、その竪穴住居には煮炊きできる完形土器が確保されていたと考えます。
湿気やカビなどで使えなくなった土坑で廃絶祭祀を行い土器片を破壊して投げ込む時、既に新しい土坑が作られ、手元には完形土器が必要な分だけそろっていたと考えます。
海退現象でミナトが使えなくなり、ミナトの廃絶祭祀が行われ、その場で廃用巨大土器が破壊されるとき、既に下流に新ミナトが作られ、母集落には新品完形巨大土器が多数そろっていたと考えます。
このように考えると施設廃絶祭祀=「施設廃絶-土器破壊」活動は裏返せば、施設確保祭祀=「必要施設確保確認-必要土器確保確認」活動です。つまり施設廃絶祭祀は極限すれば施設や土器がそろって生活が順調であり安寧である状況を寿ぐ祭に通じます。
2-3 施設廃絶祭祀の多義性
施設廃絶祭祀は極限すれば施設や土器がそろって生活が順調であり安寧である状況を寿ぐ祭に通じると考えると、土器片破壊を伴う施設廃絶祭祀は現実には「施設を送る」だけでなく多義的な活動であったと考えます。
むしろ「施設を送る」という基礎の上に多様な意味あいの祭祀が乗っていたと考えます。
秋の収穫祭も全て施設廃絶祭祀の一環として行われたと考えます。
西根遺跡ミナト廃絶祭祀もその形式面の上部には堅果類収穫の広域秋祭りの風景が存在していたと考えます。
2-4 その他
●陥し穴
陥し穴からはほとんど土器片出土はありません。縄文人にとって陥し穴は廃絶祭祀をおこなうような生活施設でなかったと考えます。
●奈良時代遺構
鳴神山遺跡など奈良時代集落竪穴住居からも多量の破壊土器片が出土し、縄文時代と経済状況が格段に違うだけで、その場が祭祀の場であったことは同じように捉えられると考えます。下総では縄文人の風習がほとんどそのまま奈良時代まで伝わってきていると捉えられます。
……………………………………………………………………
ギリシャ壺投げ映像をみて、それが自分の思考において触媒の働きをしてこのメモが生まれました。
2018.04.11記事「ギリシャ壺投げと印西市西根遺跡土器破壊」参照
2018年4月13日金曜日
2017年9月18日月曜日
西根遺跡 焼骨と破壊土器が混ざって出土する理由
西根遺跡縄文時代の土器集中地点と焼骨分布が重なります。
さらに、土器のかけらの間に焼骨(とそれを焼いた木の燃えカス)が見られます。
破壊した土器のかけらと焼骨が混然一体となって出土する意味がおぼろげながら判ってきたような思考が生れています。
そのおぼろげな思考を忘れないうちに、今後の学習の参考とするために、下にメモしておきます。
1 トチの実アク抜きによる主食づくりの道具としての土器(加曽利B式土器 粗製土器)が壊れて使用に耐えなくなる。
2 それに代わる新しい土器をつくり、古い土器は廃用とする。
3 土器を更新することにより、道具(設備)の面から主食づくりの継続性が集落で担保できる。(食物調達に関する持続可能性)
4 堅果類による主食づくりのメドがついた秋~冬に収穫祭を行う。
5 収穫祭で廃用土器を送り、土器に感謝する。(土器送り…土器破壊)
6 狩猟民である縄文人は主食である堅果類の収穫祭を狩猟の祭(イノシシ、シカの共食と骨焼き行為)の中で(の一環として)行った。
[恐らく狩猟の祭(イノシシ祭などと呼ばれる縄文社会普遍の狩猟祭)に後から堅果類収穫祭が加わった。]
7 縄文時代後期の印旛浦周辺地域は下総地域における主要な狩場では決してないのでイノシシやシカの入手は困難であり、祭祀用の幼獣を特別に入手したり、飼育していたと想像する。
8 縄文社会の伝統である狩猟祭(イノシシ祭)の一環として堅果類収穫祭が位置づけられ、廃用土器の破壊(送り)が行われた。
9 飼育幼獣などを利用してイオマンテ類似行為により獣を共食し骨を焼きそれを散布する行為は縄文社会を営むために必須の祭であった。狩猟行為の実態が存在しない、あるいは虚弱な集落であっても、狩猟祭は必須であった。その必須狩猟祭の一環として(新たに主食化が成功した)堅果類の収穫祭を行った。
土器破片と焼骨が一体となって出土する意味とは、狩猟民としての精神性を示す狩猟祭(イノシシ祭)を冠として、主食である堅果類の収穫祭が行われたことを示していると考えます。
狩猟祭(イノシシ祭)では頭部を体部と切り離して祭壇に飾ったと考えます。
狩猟祭(イノシシ祭)について、今後学習を深めます。
体部の骨を焼く行為の意味については、送り行為の一環(火葬)であると想像しますが、今後学習を深めます。
狩猟祭としての焼骨行為は精神性(象徴性)が強いと考えますので、焼骨散布による修景機能(祭壇付近を白く染める)や土木機能(祭壇付近の地面を固める)は結果として生まれるサブ機能であったと考えます。
参考 西根遺跡出土焼骨
発掘調査報告書から引用
さらに、土器のかけらの間に焼骨(とそれを焼いた木の燃えカス)が見られます。
破壊した土器のかけらと焼骨が混然一体となって出土する意味がおぼろげながら判ってきたような思考が生れています。
そのおぼろげな思考を忘れないうちに、今後の学習の参考とするために、下にメモしておきます。
1 トチの実アク抜きによる主食づくりの道具としての土器(加曽利B式土器 粗製土器)が壊れて使用に耐えなくなる。
2 それに代わる新しい土器をつくり、古い土器は廃用とする。
3 土器を更新することにより、道具(設備)の面から主食づくりの継続性が集落で担保できる。(食物調達に関する持続可能性)
4 堅果類による主食づくりのメドがついた秋~冬に収穫祭を行う。
5 収穫祭で廃用土器を送り、土器に感謝する。(土器送り…土器破壊)
6 狩猟民である縄文人は主食である堅果類の収穫祭を狩猟の祭(イノシシ、シカの共食と骨焼き行為)の中で(の一環として)行った。
[恐らく狩猟の祭(イノシシ祭などと呼ばれる縄文社会普遍の狩猟祭)に後から堅果類収穫祭が加わった。]
7 縄文時代後期の印旛浦周辺地域は下総地域における主要な狩場では決してないのでイノシシやシカの入手は困難であり、祭祀用の幼獣を特別に入手したり、飼育していたと想像する。
8 縄文社会の伝統である狩猟祭(イノシシ祭)の一環として堅果類収穫祭が位置づけられ、廃用土器の破壊(送り)が行われた。
9 飼育幼獣などを利用してイオマンテ類似行為により獣を共食し骨を焼きそれを散布する行為は縄文社会を営むために必須の祭であった。狩猟行為の実態が存在しない、あるいは虚弱な集落であっても、狩猟祭は必須であった。その必須狩猟祭の一環として(新たに主食化が成功した)堅果類の収穫祭を行った。
土器破片と焼骨が一体となって出土する意味とは、狩猟民としての精神性を示す狩猟祭(イノシシ祭)を冠として、主食である堅果類の収穫祭が行われたことを示していると考えます。
狩猟祭(イノシシ祭)では頭部を体部と切り離して祭壇に飾ったと考えます。
狩猟祭(イノシシ祭)について、今後学習を深めます。
体部の骨を焼く行為の意味については、送り行為の一環(火葬)であると想像しますが、今後学習を深めます。
狩猟祭としての焼骨行為は精神性(象徴性)が強いと考えますので、焼骨散布による修景機能(祭壇付近を白く染める)や土木機能(祭壇付近の地面を固める)は結果として生まれるサブ機能であったと考えます。
参考 西根遺跡出土焼骨
発掘調査報告書から引用
2017年8月28日月曜日
集落外縁帯に1集落1カ所立地する土器塚の意味 土器塚学習7
図書「千葉県の歴史 資料編 考古4 (遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)の「土器塚」の項の学習の一環として文献「阿部芳郎(2012):縄文後期の集落と土器塚-「遠部台型土器塚」の形成と加曽利B式期の地域社会-、人類史と時間情報~「過去」の形成過程と先史考古学~(雄山閣)」を学習しました。
人類史と時間情報~「過去」の形成過程と先史考古学~(雄山閣) 箱
土器塚と西根遺跡の出自を考える上で多くの知識とヒントを得ることができましたのでメモしておきます。
1 集落外縁帯に1集落1カ所立地する土器塚
この文献では1新貝塚と「米沢村の土器塚」、2佐倉市遠部台遺跡の土器塚、3江原台遺跡(曲輪ノ内貝塚)の土器塚、4吉見台遺跡の土器塚、5井野長割遺跡の土器塚について事例を検討しています。
印旛沼南岸の後晩期集落
「阿部芳郎(2012):縄文後期の集落と土器塚-「遠部台型土器塚」の形成と加曽利B式期の地域社会-、人類史と時間情報~「過去」の形成過程と先史考古学~(雄山閣)」から引用
そして、次のような興味ある分析を行っています。
「土器塚が谷奥型環状遺丘集落を構成する単位と目されるマウンドに付随して形成された井野長割遺跡を代表例として、遠部台型土器塚のすべてが環状構造の外縁帯に付随するようにして、1集落に1ヵ所のみが形成されるという規範は、土器塚を遺跡形成との関わりで考える際に見事に一致している重要な事実である。筆者はこれらのマウンドは、継続的な居住活動の累積の結果に形成された居住集団の単位的な生活痕跡の累積と考えている(阿部ほか2004)。したがって、土器塚の形成は集落構成員のなかでも、とくに限定された居住集団によって維持管理されていたものと考えたい。甲野勇がかつて想定した「土器作りのムラ」とも関係するが、土器という容器製作を統制する特定集団の存在を、土器塚に近接した遺丘を形成した集団が担った可能性を指摘したいのである。」
「阿部芳郎(2012):縄文後期の集落と土器塚-「遠部台型土器塚」の形成と加曽利B式期の地域社会-、人類史と時間情報~「過去」の形成過程と先史考古学~(雄山閣)」から引用
1集落1カ所の土器塚分布から、土器塚を維持管理したのが土器づくりに関わる集落内特定集団であると考察しています。
私は集落リーダー家族(集団)がアク抜き技術ソフトとそれに使う土器づくりハードを担っていたと学習してきましたから、上記考察は学習結果とよく整合します。
2017.08.27記事「土器破壊の意味…収穫祭 土器塚学習6」参照
さて、この図書では何故土器塚が作られたのか、土器塚とはそもそも何者であるのか、一切説明がありません。
考古論文・資料を読んでいていつもぶつかる不思議にこの図書でもぶつかりました。
著者にそのイメージが無いはずはありませんが、不確かなことを書くことは科学ではないということだと思います。
私は上記記事で、土器破壊は主食確保を祝う収穫祭における丁寧な道具送りであると考えました。
土器塚が収穫祭の跡を示す遺構であるとすれば、それが集落1カ所に限定されその主催者が集落リーダー家族であることは当然です。
さて、私が次に興味を持つのは集落外延帯に土器塚が立地するという特性ですので、交通との関係から次項で検討します。
2 集落外縁帯立地と交通との関係
土器塚がどこでも集落外縁帯に立地している意味はこの図書では記述されていません。
また、土器塚が道路と深いつながりがあることも述べられていません。
しかし、大きな意味がその位置と道路存在に隠されていると考えます。
2-1 遠部台遺跡土器塚の集落立地位置と道路
以前の記事で遠部台遺跡土器塚が交通と深いかかわりがることを考察しました。
「図10 遠部台遺跡地形測量図(阿部他2000b)」書き込み図
原図は「阿部芳郎(2002):縄文土器の集中保有化現象と遺跡形成に関する研究、明治大学人文科学研究所紀要 第50冊1-34」から引用
2017.08.24記事「印旛沼舟運と土器塚 土器塚学習4」参照
さらに、「千葉県の歴史 資料編 考古4 (遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)の「土器塚」の項(執筆者 阿部芳郎)には、この遠部台遺跡土器塚の下部から道路遺構(東西方向)が出土した旨記述があります。この土器塚が印旛沼へ抜ける道路を含む交通の要衝(交差点?)に存在していたことは確実です。そしてその位置が集落外縁帯です。
2-2 井野長割遺跡土器塚の集落立地位置と道路
井野長割遺跡土器塚も集落外縁帯に立地し、道路(交差点?)に面しています。
井野長割遺跡の立地と土器塚の位置
「阿部芳郎(2012):縄文後期の集落と土器塚-「遠部台型土器塚」の形成と加曽利B式期の地域社会-、人類史と時間情報~「過去」の形成過程と先史考古学~(雄山閣)」から引用
交差点から西へ向かう道路は他の資料をみると近くのより規模の大きな谷津方面へ向かっていて、印旛沼と結んでいる可能性があります。
2-3 土器塚が集落外縁帯の道路(交差点?)に立地する意味
土器塚とはそもそも土器を使った主食確保を祝う収穫祭における廃用土器の丁寧な道具送り跡であると考えます。
この考えから次のような意味を仮説します。
ア 集落外縁帯立地の意味
集落集団、あるいは近隣分家集落を含めた集団だけの収穫祭ならば、その場所を集落の外縁にもってくことは考えづらいことです。マウンドや竪穴住居のあるゾーンの内側に存在することが合理的です。
大膳野南貝塚の学習では集落の共同作業場などは竪穴住居ゾーンの内側にありました。
生業作業は内側で行うけれども、収穫祭の場所を竪穴住居ゾーンの外側に持っていくことの理由は、その祭祀が集落集団だけのものではないからだと思います。
家族の健康を祈願するような祭祀は竪穴住居でおこなわれたと考えますが、収穫祭は集団だけのものではなかったと考えます。
イ 道路(交差点?)立地の意味
道路(交差点?)立地の意味は集落外縁帯立地よりもより直接に、収穫祭祭祀が集団以外の外者と深く関係していることを物語っていると考えます。
ウ 収穫祭が贈与関係に基づく祭祀であるとする仮説
次のように仮説します。
縄文時代収穫祭は集落集団(近隣分家集団も含めて)だけでそれを祝うことはあまりにも利己的であり到底許されなかったのだと思います。
近隣や遠方からさまざまな贈与を集落は得て存立していたと考えます。東京湾の貝、村田川流域付近で獲れる獣肉、…翡翠、…。
そうした贈与関係のなかで行う収穫祭では近隣や遠方から多くの人を招いて、いわば公開された祭祀を行ったのだと仮説します。
堅果類主食が1年分賄えるお祝いを近隣・遠方の贈与関係者を招いて行い、宴会を行い、イオマンテを行い、帰りには沢山のお土産を招待者にもたせたと想像します。
そのお祭りの一環として廃用土器を壊して土器送りしたと考えます。
このように仮説すると、祭祀会場は集落内部ではなく集落近くの広い会場で、交通の便のよいところになります。
人類史と時間情報~「過去」の形成過程と先史考古学~(雄山閣) 箱
土器塚と西根遺跡の出自を考える上で多くの知識とヒントを得ることができましたのでメモしておきます。
1 集落外縁帯に1集落1カ所立地する土器塚
この文献では1新貝塚と「米沢村の土器塚」、2佐倉市遠部台遺跡の土器塚、3江原台遺跡(曲輪ノ内貝塚)の土器塚、4吉見台遺跡の土器塚、5井野長割遺跡の土器塚について事例を検討しています。
印旛沼南岸の後晩期集落
「阿部芳郎(2012):縄文後期の集落と土器塚-「遠部台型土器塚」の形成と加曽利B式期の地域社会-、人類史と時間情報~「過去」の形成過程と先史考古学~(雄山閣)」から引用
そして、次のような興味ある分析を行っています。
「土器塚が谷奥型環状遺丘集落を構成する単位と目されるマウンドに付随して形成された井野長割遺跡を代表例として、遠部台型土器塚のすべてが環状構造の外縁帯に付随するようにして、1集落に1ヵ所のみが形成されるという規範は、土器塚を遺跡形成との関わりで考える際に見事に一致している重要な事実である。筆者はこれらのマウンドは、継続的な居住活動の累積の結果に形成された居住集団の単位的な生活痕跡の累積と考えている(阿部ほか2004)。したがって、土器塚の形成は集落構成員のなかでも、とくに限定された居住集団によって維持管理されていたものと考えたい。甲野勇がかつて想定した「土器作りのムラ」とも関係するが、土器という容器製作を統制する特定集団の存在を、土器塚に近接した遺丘を形成した集団が担った可能性を指摘したいのである。」
「阿部芳郎(2012):縄文後期の集落と土器塚-「遠部台型土器塚」の形成と加曽利B式期の地域社会-、人類史と時間情報~「過去」の形成過程と先史考古学~(雄山閣)」から引用
1集落1カ所の土器塚分布から、土器塚を維持管理したのが土器づくりに関わる集落内特定集団であると考察しています。
私は集落リーダー家族(集団)がアク抜き技術ソフトとそれに使う土器づくりハードを担っていたと学習してきましたから、上記考察は学習結果とよく整合します。
2017.08.27記事「土器破壊の意味…収穫祭 土器塚学習6」参照
さて、この図書では何故土器塚が作られたのか、土器塚とはそもそも何者であるのか、一切説明がありません。
考古論文・資料を読んでいていつもぶつかる不思議にこの図書でもぶつかりました。
著者にそのイメージが無いはずはありませんが、不確かなことを書くことは科学ではないということだと思います。
私は上記記事で、土器破壊は主食確保を祝う収穫祭における丁寧な道具送りであると考えました。
土器塚が収穫祭の跡を示す遺構であるとすれば、それが集落1カ所に限定されその主催者が集落リーダー家族であることは当然です。
さて、私が次に興味を持つのは集落外延帯に土器塚が立地するという特性ですので、交通との関係から次項で検討します。
2 集落外縁帯立地と交通との関係
土器塚がどこでも集落外縁帯に立地している意味はこの図書では記述されていません。
また、土器塚が道路と深いつながりがあることも述べられていません。
しかし、大きな意味がその位置と道路存在に隠されていると考えます。
2-1 遠部台遺跡土器塚の集落立地位置と道路
以前の記事で遠部台遺跡土器塚が交通と深いかかわりがることを考察しました。
「図10 遠部台遺跡地形測量図(阿部他2000b)」書き込み図
原図は「阿部芳郎(2002):縄文土器の集中保有化現象と遺跡形成に関する研究、明治大学人文科学研究所紀要 第50冊1-34」から引用
2017.08.24記事「印旛沼舟運と土器塚 土器塚学習4」参照
さらに、「千葉県の歴史 資料編 考古4 (遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)の「土器塚」の項(執筆者 阿部芳郎)には、この遠部台遺跡土器塚の下部から道路遺構(東西方向)が出土した旨記述があります。この土器塚が印旛沼へ抜ける道路を含む交通の要衝(交差点?)に存在していたことは確実です。そしてその位置が集落外縁帯です。
2-2 井野長割遺跡土器塚の集落立地位置と道路
井野長割遺跡土器塚も集落外縁帯に立地し、道路(交差点?)に面しています。
井野長割遺跡の立地と土器塚の位置
「阿部芳郎(2012):縄文後期の集落と土器塚-「遠部台型土器塚」の形成と加曽利B式期の地域社会-、人類史と時間情報~「過去」の形成過程と先史考古学~(雄山閣)」から引用
交差点から西へ向かう道路は他の資料をみると近くのより規模の大きな谷津方面へ向かっていて、印旛沼と結んでいる可能性があります。
2-3 土器塚が集落外縁帯の道路(交差点?)に立地する意味
土器塚とはそもそも土器を使った主食確保を祝う収穫祭における廃用土器の丁寧な道具送り跡であると考えます。
この考えから次のような意味を仮説します。
ア 集落外縁帯立地の意味
集落集団、あるいは近隣分家集落を含めた集団だけの収穫祭ならば、その場所を集落の外縁にもってくことは考えづらいことです。マウンドや竪穴住居のあるゾーンの内側に存在することが合理的です。
大膳野南貝塚の学習では集落の共同作業場などは竪穴住居ゾーンの内側にありました。
生業作業は内側で行うけれども、収穫祭の場所を竪穴住居ゾーンの外側に持っていくことの理由は、その祭祀が集落集団だけのものではないからだと思います。
家族の健康を祈願するような祭祀は竪穴住居でおこなわれたと考えますが、収穫祭は集団だけのものではなかったと考えます。
イ 道路(交差点?)立地の意味
道路(交差点?)立地の意味は集落外縁帯立地よりもより直接に、収穫祭祭祀が集団以外の外者と深く関係していることを物語っていると考えます。
ウ 収穫祭が贈与関係に基づく祭祀であるとする仮説
次のように仮説します。
縄文時代収穫祭は集落集団(近隣分家集団も含めて)だけでそれを祝うことはあまりにも利己的であり到底許されなかったのだと思います。
近隣や遠方からさまざまな贈与を集落は得て存立していたと考えます。東京湾の貝、村田川流域付近で獲れる獣肉、…翡翠、…。
そうした贈与関係のなかで行う収穫祭では近隣や遠方から多くの人を招いて、いわば公開された祭祀を行ったのだと仮説します。
堅果類主食が1年分賄えるお祝いを近隣・遠方の贈与関係者を招いて行い、宴会を行い、イオマンテを行い、帰りには沢山のお土産を招待者にもたせたと想像します。
そのお祭りの一環として廃用土器を壊して土器送りしたと考えます。
このように仮説すると、祭祀会場は集落内部ではなく集落近くの広い会場で、交通の便のよいところになります。
2017年8月27日日曜日
土器破壊の意味…収穫祭 土器塚学習6
図書「千葉県の歴史 資料編 考古4 (遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)の「土器塚」の項の学習の一環として文献「阿部芳郎(2002):遺跡群と生業活動からみた縄文後期の地域社会、縄文社会を探る(学生社)」を学習しました。
1 粗製土器はアク抜きなどの食料加工道具
その中で粗製土器は食料加工の道具であることを学びました。
2017.08.25記事「低地水場の堅果類加工場 土器塚学習5」参照
これまで粗製土器で煮炊きをしていたことは漠然と知っていましたが、この図書で粗製土器が「下ごしらえ用」の土器であることに意識が向き、著者が編集している図書「考古学の挑戦」(岩波ジュニア新書)や「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県)などの関連する部分を読んでみました。
考古学の挑戦(岩波ジュニア新書)
これらの図書を読んで加曽利B式土器が集落人口を養う主食を賄うための堅果類アク抜き装置であることを知りました。
トチの実をはじめ各種ドングリをそれぞれの方法でアクを抜くときの重要なステップにおける煮沸用容器が加曽利B式土器です。
「秋に一斉に実を落とす堅果類を一度に加工して、大量にアク抜きなどの下ごしらえを行なうという集約的な食料加工」(阿部芳郎、縄文社会を探る)で使われたのが加曽利B式土器で、そのうちおおきなものは70リットルにもなります。
西根遺跡出土大型粗製加曽利B式土器(容量69.7リットル)千葉県教育委員会所蔵
・第4集中地点
・壺A3
・口径35.7㎝、底径8.8㎝、器高74.1㎝、重量12.2㎏、容量69.7l
・残存度90%
・被熱、底面外面下端が摩滅
2 粗製土器破壊の意味…収穫祭
1の学習をしていて、突然自分の思考が変化しました。得た各種知識を自分なりに統合した瞬間があったということです。
思考の変化は一挙に全体的に生まれたのですが、それを文章にすると長くなるでしょうから、箇条書きにして記録します。
・粗製土器を使ってトチの実など堅果類をアク抜きして食料をつくることは、それで主食を生み出すのだから、縄文人が生きてゆきさらに繁栄するためには最重要活動であった。
・トチの実などの収穫はやさしいことであったが、アク抜き技術は当時のハイテク技術であり、専門的活動であった。
・アク抜き技術というハイテク技術(ソフト技術)は粗製土器づくり(ハード技術)と結びついた専門的な技術であった。
・収穫した多量のトチの実などのアク抜きによる食糧化は労働集約的であり、一族郎党が集団で取り組んだ。(狭い意味での集落を越えて広域的な労働作業だった。)
・アク抜き技術(ソフトと土器づくり)と一時的労働集約活動を担ったのは一族郎党のリーダー(頭領)であった。主要集落のリーダーがそれに該当する。
・夏から秋にかけて多量のトチの実などを収穫し、粗製土器をつかって新実によるおいしい食糧を食べられるようになった段階で、縄文人は収穫祭を行った。
・収穫祭では壊れた粗製土器にそれまでの効用を感謝してそれを破壊し土器の精霊を解放した(土器を送った)。
・破壊した土器は祭場近くに積み上げた。(土器塚)
・収穫祭ではご馳走の獣肉などもふるまわれた。(獣骨出土…西根遺跡)
・収穫祭会場や土器塚には祭壇(イナウ)が設けられていた。(イナウ出土…西根遺跡)
・収穫祭は一族郎党リーダーが取り仕切り、一族郎党が参加した。(主要集落で収穫祭が行われ、周辺集落からも参加した)
このように考えると土器塚や西根遺跡の土器集中の意味を自分なりに合理的に捉えることができます。
土器塚や西根遺跡土器集中は収穫祭の跡であったという思考です。
粗製土器が食糧増産ハイテク技術の一環であることから特別視され、壊れたものは丁寧に破壊された(送られた)という思考です。
土器塚や西根遺跡土器集中における破壊された土器片現物の背後には、それに代わる既に稼働している新品粗製土器の存在を見る(透視する)ことができます。新品粗製土器で多量のトチの実などをアク抜きして食料増産している集落の姿も見る(透視する)ことができます。
破壊された土器片の大量出土が主食確保収穫祭の跡であると考えると、土器塚の解釈は土器塚が集落にあるのでそれで出来そうです。
一方、西根遺跡では集落から離れているのでその解釈は単純ではありません。
西根遺跡ではこれまでミナト廃絶祭祀、翡翠入手と関連付けて考えてきていますが、土器破壊が収穫祭-ミナト廃絶-翡翠入手というストーリーになるか、じっくり検討します。
土器塚はローカルな収穫祭跡、西根遺跡は印旛浦広域の収穫祭跡という収穫祭の階層性も検討視野に入ります。
1 粗製土器はアク抜きなどの食料加工道具
その中で粗製土器は食料加工の道具であることを学びました。
2017.08.25記事「低地水場の堅果類加工場 土器塚学習5」参照
これまで粗製土器で煮炊きをしていたことは漠然と知っていましたが、この図書で粗製土器が「下ごしらえ用」の土器であることに意識が向き、著者が編集している図書「考古学の挑戦」(岩波ジュニア新書)や「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県)などの関連する部分を読んでみました。
考古学の挑戦(岩波ジュニア新書)
これらの図書を読んで加曽利B式土器が集落人口を養う主食を賄うための堅果類アク抜き装置であることを知りました。
トチの実をはじめ各種ドングリをそれぞれの方法でアクを抜くときの重要なステップにおける煮沸用容器が加曽利B式土器です。
「秋に一斉に実を落とす堅果類を一度に加工して、大量にアク抜きなどの下ごしらえを行なうという集約的な食料加工」(阿部芳郎、縄文社会を探る)で使われたのが加曽利B式土器で、そのうちおおきなものは70リットルにもなります。
西根遺跡出土大型粗製加曽利B式土器(容量69.7リットル)千葉県教育委員会所蔵
・第4集中地点
・壺A3
・口径35.7㎝、底径8.8㎝、器高74.1㎝、重量12.2㎏、容量69.7l
・残存度90%
・被熱、底面外面下端が摩滅
2 粗製土器破壊の意味…収穫祭
1の学習をしていて、突然自分の思考が変化しました。得た各種知識を自分なりに統合した瞬間があったということです。
思考の変化は一挙に全体的に生まれたのですが、それを文章にすると長くなるでしょうから、箇条書きにして記録します。
・粗製土器を使ってトチの実など堅果類をアク抜きして食料をつくることは、それで主食を生み出すのだから、縄文人が生きてゆきさらに繁栄するためには最重要活動であった。
・トチの実などの収穫はやさしいことであったが、アク抜き技術は当時のハイテク技術であり、専門的活動であった。
・アク抜き技術というハイテク技術(ソフト技術)は粗製土器づくり(ハード技術)と結びついた専門的な技術であった。
・収穫した多量のトチの実などのアク抜きによる食糧化は労働集約的であり、一族郎党が集団で取り組んだ。(狭い意味での集落を越えて広域的な労働作業だった。)
・アク抜き技術(ソフトと土器づくり)と一時的労働集約活動を担ったのは一族郎党のリーダー(頭領)であった。主要集落のリーダーがそれに該当する。
・夏から秋にかけて多量のトチの実などを収穫し、粗製土器をつかって新実によるおいしい食糧を食べられるようになった段階で、縄文人は収穫祭を行った。
・収穫祭では壊れた粗製土器にそれまでの効用を感謝してそれを破壊し土器の精霊を解放した(土器を送った)。
・破壊した土器は祭場近くに積み上げた。(土器塚)
・収穫祭ではご馳走の獣肉などもふるまわれた。(獣骨出土…西根遺跡)
・収穫祭会場や土器塚には祭壇(イナウ)が設けられていた。(イナウ出土…西根遺跡)
・収穫祭は一族郎党リーダーが取り仕切り、一族郎党が参加した。(主要集落で収穫祭が行われ、周辺集落からも参加した)
このように考えると土器塚や西根遺跡の土器集中の意味を自分なりに合理的に捉えることができます。
土器塚や西根遺跡土器集中は収穫祭の跡であったという思考です。
粗製土器が食糧増産ハイテク技術の一環であることから特別視され、壊れたものは丁寧に破壊された(送られた)という思考です。
土器塚や西根遺跡土器集中における破壊された土器片現物の背後には、それに代わる既に稼働している新品粗製土器の存在を見る(透視する)ことができます。新品粗製土器で多量のトチの実などをアク抜きして食料増産している集落の姿も見る(透視する)ことができます。
破壊された土器片の大量出土が主食確保収穫祭の跡であると考えると、土器塚の解釈は土器塚が集落にあるのでそれで出来そうです。
一方、西根遺跡では集落から離れているのでその解釈は単純ではありません。
西根遺跡ではこれまでミナト廃絶祭祀、翡翠入手と関連付けて考えてきていますが、土器破壊が収穫祭-ミナト廃絶-翡翠入手というストーリーになるか、じっくり検討します。
土器塚はローカルな収穫祭跡、西根遺跡は印旛浦広域の収穫祭跡という収穫祭の階層性も検討視野に入ります。
2016年12月19日月曜日
上谷遺跡 土坑出土燈明皿と摩滅土器
1 燈明皿と摩滅土器の閲覧
上谷遺跡 D268土坑出土転用燈明皿と摩滅土器を八千代市教育委員会で閲覧しました。
摩滅土器は「破換面」が摩滅しているという記述であり、燈明皿ではないかと想定してきました。
今回燈明皿と摩滅土器現物を閲覧して、このような想定が合理的であることを確認できました。
摩滅土器の全てが転用燈明皿状の形状であり、中には縁にススと思われる黒色が付いているものもあるからです。
以下閲覧した資料の写真を掲載します。
燈明皿 №01
燈明皿 №01
底から縁に向かって放射状の溝が4本掘ってあります。
火を燃やす芯(穂)をこの溝に這わして、底の油を吸いやすくするための工夫であると推察します。
燈明皿 №04
燈明皿 №07
上谷遺跡 D268土坑出土転用燈明皿と摩滅土器を八千代市教育委員会で閲覧しました。
摩滅土器は「破換面」が摩滅しているという記述であり、燈明皿ではないかと想定してきました。
今回燈明皿と摩滅土器現物を閲覧して、このような想定が合理的であることを確認できました。
摩滅土器の全てが転用燈明皿状の形状であり、中には縁にススと思われる黒色が付いているものもあるからです。
以下閲覧した資料の写真を掲載します。
燈明皿 №01
燈明皿 №01
底から縁に向かって放射状の溝が4本掘ってあります。
火を燃やす芯(穂)をこの溝に這わして、底の油を吸いやすくするための工夫であると推察します。
燈明皿 №04
燈明皿 №07
摩滅土器 №08
割れた面が確かに摩滅していて、この形状で使い込まれたことを示しています。
形状は燈明皿そのものです。
摩滅土器 №09
摩滅土器 №19
縁にススによってついたと考えられる黒色が残っています。
2 燈明皿多出の意味
D268土坑出土遺物は次の通りであり、覆土上層の燈明皿、摩滅土器が集中しています。
D268土坑出土遺物
参考 上谷遺跡 D268土坑の位置
この状況を次のように解釈します。
D268土坑は台地縁南向き斜面に作られた冬季の寒冷から収穫農作物を守って保存する貯蔵庫であると考えます。
2016.12.18記事「上谷遺跡 土坑底面に敷き詰められていたカヤ束画像確認」参照
この貯蔵庫はその規模の大きさから大きな集団が利用していたものと考えます。
集団が例えば秋に里芋を収穫し、この土坑の縁で収穫祭をして、里芋をカヤ束を敷いた土坑に収納し、冬季の飢えに備えたと空想しても、その空想は十分合理的であると考えます。
さらに、土坑の縁でおこなわれる収穫祭が夜間に燈明皿の明りのもとでおこなわれたと考えても合理性を欠くことにはなりません。
そのように使われていたD268土坑が埋まってきて、最後に廃絶するとき、つまり最後の収穫祭で燈明皿を土坑に奉納して、投げ込んだのではないかと想像します。
あるいは、土坑機能廃絶後、その場所が燈明皿を奉納して(投げ込んで)豊作を祈願する場所になったのかもしれません。
D268土坑は実用的には冬季の寒冷から収穫物を守る貯蔵庫であり、同時に心理面では、その空間に対して人々が特別の感情を持っていたと考えます。
冬季の飢えを予防するという切実さと結びついて、聖域視のような感情を持ってD268土坑空間をみていたのではないかと考えます。
現代人は祈願場所とする神社や寺院の敷地空間を聖域視します。
同じように、古代上谷遺跡住人は集団の飢え防止したいという願いを実現する施設としての収穫物貯蔵庫を聖域視していたと想像します。
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