大膳野南貝塚後期集落 土坑の再検討 33
大型貯蔵土坑を中心に土坑の二次利用について検討します。
1大型貯蔵土坑の二次利用
これまでの検討図に二次利用の様子を書き込んでみました。
概算容量2㎥以上の土坑
概算容量1㎥以上2㎥未満(タンブラー状)の土坑
概算容量1㎥以上2㎥未満(鍋状)の土坑
貝層・獣骨・焼土・石器などが出土する土坑とそれらの出土がない土坑の区別が明瞭であることからそれらが出土する貯蔵土坑の二次利用は送り場であると特定しました。
人骨が出土する土坑は廃土坑墓と考えました。
大型土坑の二次利用は廃土坑墓と送り場以外は見つかりませんでした。
概算容量2㎥以上貯蔵土坑6基のうち廃土坑墓・送り場1基、送り場3基、二次利用なし2基となりました。
382号土坑は廃土坑墓としてまた送り場として二次利用されたと考えました。2018.03.27記事「フラスコ形土坑からヒト骨が出土した意義」参照
概算容量1㎥以上2㎥未満の土坑のうちタンブラー状土坑には二次利用の跡が見られるものがありません。恐らく開口部が狭くかつ底が深いので、大型貯蔵土坑に対応する住民人数(2家族以上?)の送り場とするには不適切な形状であったのだと想像します。2家族以上の人々が開口部を囲んでモノ(お供えモノ、送るモノ)を投げ込む儀式をするにしては手狭であったのだと想像します。
同じ概算容量の鍋状土坑は11基のうち6基が送り場として二次利用されています。鍋状の土坑は平面積が広く円周が長いので、2家族以上の人々が集まるには好都合の空間が出来ていて、また投げ込むモノも良く見えて祭祀のしがいがあったのだと考えます。
貯蔵土坑は利用しているうちに湿気で貯蔵食物が腐ったり、カビが生えたりして不衛生となり、それに対して緩衝材の入れ替えや内部焼却等のリニューアル策を何度も構じたのだと想像しますが、結局それ以上使えない衛生上の限界があり最後は廃絶したのだと考えます。
廃絶した貯蔵土坑のうち廃土坑墓や送り場として二次利用する条件のあるものはそれらの利用をしたと考えます。
竪穴住居が廃絶すると廃屋墓や送り場として二次利用される様子と貯蔵土坑の二次利用はよく似ている事象であると考えます。
2 全貯蔵土坑63基の二次利用
大型貯蔵土坑を含む全貯蔵土坑の二次利用は次のようになります。
全貯蔵土坑の二次利用
二次利用あるものは24基で全体の38%になります。内訳は廃土坑墓・送り場1基、送り場22基、巨大柱穴1基となります。
巨大柱穴は次の397号土坑で南貝層近くにあります。
397号土坑断面
トーテムポールのような柱を立てたものだと空想したくなります。直径30~40cm程度の柱に対応する土層になっていて、基部が固くなっています。
2018年4月30日月曜日
2018年3月5日月曜日
土坑(体積類型)の時期別分布 大膳野南貝塚後期集落
大膳野南貝塚後期集落 土坑の再検討 2
1 土坑再検討の検討項目
発掘調査報告書に掲載されている土坑一覧表に基づくデータを電子化してQGISで分布図化できるので、最初にその項目を全て時期別に漆喰貝層有無別竪穴住居と関連付けて検討します。
大膳野南貝塚発掘調査報告書掲載土坑一覧表(一部)
既に電子化してある項目
●土坑体積
●土坑平面形状
●フラスコ型土坑
●円筒型土坑
●貝層土坑
●漆喰土坑
●周辺小ピット付土坑
●土坑墓可能性土坑
これらの検討の後、再度発掘調査報告書土坑記述を精読して検討項目を補足して検討する予定です。
この記事では以下土坑体積に関する検討に着手します。
2 土坑体積による類型区分と時期別土坑数
発掘調査報告書に掲載されている土坑平面規模と土坑深さのデータから土坑体積を計算しました。土坑体積はそれに要する労力の大きさと収納空間の大きさに比例します。従って土坑体積の大小は、土坑用途の違いは有るにもかかわらず、縄文集落にとっての重要性に比例する基本指標になると考えます。
土坑体積は次のように4段階に区分してその時期変化を考察することにします。
土坑体積の累計区分
なお、土坑体積の全平均は0.48㎥になります。
時期別土坑数
3 時期別体積区分別土坑分布
3-1 体積区分別土坑分布の解釈の前提
以下に示す時期別土坑・竪穴住居分布図は、その図に示されるもの以外に、その時期に含まれる別の土坑及び竪穴住居が存在していた可能性は十分にあります。
また、図示される土坑・竪穴住居がすべて同一時点で存在していた保証はありません。
しかし、限定された遺構とは言え、ほぼ同時期(50年間くらいのタイムスパンか?)の土坑と竪穴住居分布が判ったことは貴重なデータが得られたと考えられます。そこで、あえて図示した全ての遺構のみが同時に存在したかのように仮定して情報を取り出します。
なお、その用途を類推できる情報が存在しない場合、特大土坑、大土坑の主な用途は貯蔵、中土坑は多用途、小土坑の主な用途は送り場であるとイメージして検討することにします。
3-2 加曽利E4~称名寺古式期の土坑と竪穴住居
加曽利E4~称名寺古式期の土坑と竪穴住居
●検討
竪穴住居から離れた場所(15-6m)に大土坑が3つ、小土坑が1つ、竪穴住居のすぐ近くに小土坑が1つ分布します。
竪穴住居からはなれた大土坑は貯蔵用でありその場所が遺跡北側という特異な場所であることに着目します。
小土坑は送り場であると想定し、竪穴住居直近のものと離れたものがあり、同じ送り場でも具体的な様子は異なっていたと着目します。
3-3 称名寺~堀之内1古式期の土坑と竪穴住居
称名寺~堀之内1古式期の土坑と竪穴住居
●検討1
遺跡南西部に大土坑と中土坑が集中し、この場所がこの期の貯蔵庫ゾーンであったと推定できます。
竪穴住居から離れた場所にある小土坑は日常的でない送り場(例 土坑墓なども含まれるかもしれない)の可能性を疑います。
竪穴住居直近の中土坑と小土坑は日常的な送り場(現代風に考えればゴミ捨て場)であると推測します。
●検討2
貯蔵庫ゾーンの場所が前期集落における貯蔵庫ゾーンの場所と略一致するのでメモしておきます
参考 前期集落の貯蔵庫ゾーン(土坑集中域)
参考 前期集落貯蔵庫ゾーンからのオニグルミ核出土状況
後期集落の称名寺~堀之内1古式期における貯蔵庫ゾーンと前期集落の貯蔵庫ゾーンの場所が略一致する理由はその場所が竪穴住居から離れていて衛生面で有利であることと、西側の深い谷津に面していて地下水位が深く水はけがよいことなどが挙げられます。
●検討3
加曽利E4~称名寺古式期の貯蔵庫ゾーンと称名寺~堀之内1古式期の貯蔵庫ゾーンの場所が全く異なる理由は加曽利E4~称名寺古式期の住民は漆喰貝層無竪穴住居の住民であり非漁民であり、称名寺~堀之内1古式期の住民は漆喰貝層有竪穴住居の住民であり、つまり漁民であり、その生業と出自が異なる異集団であることに由来すると考えます。
加曽利E4~称名寺古式期の集落は遺跡区域北側の外に広がっていて、遺跡区域内に存在する竪穴住居はその時期集落の南端に位置していたのかもしれません。
……………………………………………………………………
●メモ
なお発掘調査報告書では加曽利E4~称名寺古式期と称名寺~堀之内1古式期の土器型式の違いに時間的な前後関係を想定していますが、このブログでは異なる集団による文化受容スピードの違いである可能性を想定しています。
加曽利E4~称名寺古式期土器利用集団(漆喰貝層無竪穴住居住民)と称名寺~堀之内1古式期土器利用集団(漆喰貝層有竪穴住居住民)は時間的に共伴していた(共存していた)と考えています。
参考
参考
……………………………………………………………………
つづく
1 土坑再検討の検討項目
発掘調査報告書に掲載されている土坑一覧表に基づくデータを電子化してQGISで分布図化できるので、最初にその項目を全て時期別に漆喰貝層有無別竪穴住居と関連付けて検討します。
既に電子化してある項目
●土坑体積
●土坑平面形状
●フラスコ型土坑
●円筒型土坑
●貝層土坑
●漆喰土坑
●周辺小ピット付土坑
●土坑墓可能性土坑
これらの検討の後、再度発掘調査報告書土坑記述を精読して検討項目を補足して検討する予定です。
この記事では以下土坑体積に関する検討に着手します。
2 土坑体積による類型区分と時期別土坑数
発掘調査報告書に掲載されている土坑平面規模と土坑深さのデータから土坑体積を計算しました。土坑体積はそれに要する労力の大きさと収納空間の大きさに比例します。従って土坑体積の大小は、土坑用途の違いは有るにもかかわらず、縄文集落にとっての重要性に比例する基本指標になると考えます。
土坑体積は次のように4段階に区分してその時期変化を考察することにします。
土坑体積の累計区分
なお、土坑体積の全平均は0.48㎥になります。
時期別土坑数
3 時期別体積区分別土坑分布
3-1 体積区分別土坑分布の解釈の前提
以下に示す時期別土坑・竪穴住居分布図は、その図に示されるもの以外に、その時期に含まれる別の土坑及び竪穴住居が存在していた可能性は十分にあります。
また、図示される土坑・竪穴住居がすべて同一時点で存在していた保証はありません。
しかし、限定された遺構とは言え、ほぼ同時期(50年間くらいのタイムスパンか?)の土坑と竪穴住居分布が判ったことは貴重なデータが得られたと考えられます。そこで、あえて図示した全ての遺構のみが同時に存在したかのように仮定して情報を取り出します。
なお、その用途を類推できる情報が存在しない場合、特大土坑、大土坑の主な用途は貯蔵、中土坑は多用途、小土坑の主な用途は送り場であるとイメージして検討することにします。
3-2 加曽利E4~称名寺古式期の土坑と竪穴住居
加曽利E4~称名寺古式期の土坑と竪穴住居
●検討
竪穴住居から離れた場所(15-6m)に大土坑が3つ、小土坑が1つ、竪穴住居のすぐ近くに小土坑が1つ分布します。
竪穴住居からはなれた大土坑は貯蔵用でありその場所が遺跡北側という特異な場所であることに着目します。
小土坑は送り場であると想定し、竪穴住居直近のものと離れたものがあり、同じ送り場でも具体的な様子は異なっていたと着目します。
3-3 称名寺~堀之内1古式期の土坑と竪穴住居
称名寺~堀之内1古式期の土坑と竪穴住居
●検討1
遺跡南西部に大土坑と中土坑が集中し、この場所がこの期の貯蔵庫ゾーンであったと推定できます。
竪穴住居から離れた場所にある小土坑は日常的でない送り場(例 土坑墓なども含まれるかもしれない)の可能性を疑います。
竪穴住居直近の中土坑と小土坑は日常的な送り場(現代風に考えればゴミ捨て場)であると推測します。
●検討2
貯蔵庫ゾーンの場所が前期集落における貯蔵庫ゾーンの場所と略一致するのでメモしておきます
参考 前期集落の貯蔵庫ゾーン(土坑集中域)
参考 前期集落貯蔵庫ゾーンからのオニグルミ核出土状況
後期集落の称名寺~堀之内1古式期における貯蔵庫ゾーンと前期集落の貯蔵庫ゾーンの場所が略一致する理由はその場所が竪穴住居から離れていて衛生面で有利であることと、西側の深い谷津に面していて地下水位が深く水はけがよいことなどが挙げられます。
●検討3
加曽利E4~称名寺古式期の貯蔵庫ゾーンと称名寺~堀之内1古式期の貯蔵庫ゾーンの場所が全く異なる理由は加曽利E4~称名寺古式期の住民は漆喰貝層無竪穴住居の住民であり非漁民であり、称名寺~堀之内1古式期の住民は漆喰貝層有竪穴住居の住民であり、つまり漁民であり、その生業と出自が異なる異集団であることに由来すると考えます。
加曽利E4~称名寺古式期の集落は遺跡区域北側の外に広がっていて、遺跡区域内に存在する竪穴住居はその時期集落の南端に位置していたのかもしれません。
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●メモ
なお発掘調査報告書では加曽利E4~称名寺古式期と称名寺~堀之内1古式期の土器型式の違いに時間的な前後関係を想定していますが、このブログでは異なる集団による文化受容スピードの違いである可能性を想定しています。
加曽利E4~称名寺古式期土器利用集団(漆喰貝層無竪穴住居住民)と称名寺~堀之内1古式期土器利用集団(漆喰貝層有竪穴住居住民)は時間的に共伴していた(共存していた)と考えています。
参考
参考
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つづく
2017年7月22日土曜日
竪穴住居の送り場利用は建物廃滅後
大膳野南貝塚縄文時代後期集落の竪穴住居柱穴分析を行っています。
柱穴深度逆立体グラフをつくれるようになりましたので、試行データを作成したJ67号住居について、予察的に検討します。
柱穴深度逆立体グラフは柱穴の深さを誇張して地上に表現したものですが、柱穴深度が多きればそれだけ高い柱、太い柱が立っていた可能性があることから、建物存在をイメージする手立ての一つになります。
発掘調査報告書に掲載されているJ67号住居写真と似た角度で柱穴深度逆立体グラフを作成して、並べて、写真の柱穴と柱穴種類(壁柱穴、張出部柱穴、意義記載なし(用途不明)柱穴)を対照させてみました。
このような作業をすると、竪穴住居の送り場としての様子が次から次へと推測できます。
与えられた情報は同じですが、平面図や一覧表情報を見るのと、立体的にその情報をみるのでは推測力(発想力)とその自信の程度が全く異なります。
検討の深さが全く異なることを体験しています。
次のような検討結果を得ることができました。
J67号住居 柱穴深度逆立体グラフからみた送り場の様子推測
人骨近くの用途不明3柱穴は祭壇(ヌササン)の柱穴であると推測することができます。
この場合、祭壇が張出部構造柱の影となる位置関係から、祭壇は建物廃滅後に設置されたと考えることができます。
このように考えると壁柱穴の外に位置する用途不明柱穴も祭壇を構成する柱であると捉えることができます。
また人骨と祭壇の位置関係から送り場に表側、裏手側が存在していたことがわかります。
さらに祭壇は略北側を意識してつくられていたと考えることができます。
前期集落でも祭壇は北側を意識していましたので、房総縄文人が北極星を信仰していたことが推測できます。
J67号住居は建物廃滅後、祭壇が設置された送り場として利用されたと推測することができますから、遺体を置いた時はすでに建物は無かったのです。
獣骨も出土しているので、遺体を置いて送るという祭祀の中で、あるいはそれとは別の祭祀でこの場で獣肉食が行われたと考えられます。
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参考
この記事検討で使ったGoogle earth pro画面
柱穴深度逆立体グラフをつくれるようになりましたので、試行データを作成したJ67号住居について、予察的に検討します。
柱穴深度逆立体グラフは柱穴の深さを誇張して地上に表現したものですが、柱穴深度が多きればそれだけ高い柱、太い柱が立っていた可能性があることから、建物存在をイメージする手立ての一つになります。
発掘調査報告書に掲載されているJ67号住居写真と似た角度で柱穴深度逆立体グラフを作成して、並べて、写真の柱穴と柱穴種類(壁柱穴、張出部柱穴、意義記載なし(用途不明)柱穴)を対照させてみました。
このような作業をすると、竪穴住居の送り場としての様子が次から次へと推測できます。
与えられた情報は同じですが、平面図や一覧表情報を見るのと、立体的にその情報をみるのでは推測力(発想力)とその自信の程度が全く異なります。
検討の深さが全く異なることを体験しています。
次のような検討結果を得ることができました。
J67号住居 柱穴深度逆立体グラフからみた送り場の様子推測
人骨近くの用途不明3柱穴は祭壇(ヌササン)の柱穴であると推測することができます。
この場合、祭壇が張出部構造柱の影となる位置関係から、祭壇は建物廃滅後に設置されたと考えることができます。
このように考えると壁柱穴の外に位置する用途不明柱穴も祭壇を構成する柱であると捉えることができます。
また人骨と祭壇の位置関係から送り場に表側、裏手側が存在していたことがわかります。
さらに祭壇は略北側を意識してつくられていたと考えることができます。
前期集落でも祭壇は北側を意識していましたので、房総縄文人が北極星を信仰していたことが推測できます。
J67号住居は建物廃滅後、祭壇が設置された送り場として利用されたと推測することができますから、遺体を置いた時はすでに建物は無かったのです。
獣骨も出土しているので、遺体を置いて送るという祭祀の中で、あるいはそれとは別の祭祀でこの場で獣肉食が行われたと考えられます。
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参考
この記事検討で使ったGoogle earth pro画面
ラベル:
ヌササン,
祭壇,
送り場,
大膳野南貝塚,
柱穴深度逆立体グラフ
2017年5月2日火曜日
竪穴住居の時期変遷
大膳野南貝塚 中期末葉~後期中葉 竪穴住居の時期変遷
この記事では中期末葉~後期中葉竪穴住居の時期変遷を概観します。
今後多様な情報を時期別分布別に考察することのよって有用な情報が生まれると確信しますが、その基礎作業になります。
1 時期別竪穴住居数
大膳野南貝塚 中期末葉~後期中葉 時期別竪穴住居数
堀之内1式期に顕著なピークを持つ集落です。
2 時期別分布
時期別分布を順に示します。
1 加曽利E4~称名寺古式期 竪穴住居祉
2 称名寺~堀之内1古式期 竪穴住居祉
3 堀之内1式期 竪穴住居祉
4 堀之内2式期 竪穴住居祉
5 堀之内2~加曽利B1期 竪穴住居祉
6 加曽利B1~B2式期 竪穴住居祉
後期(詳細時期不明) 竪穴住居祉
3 考察
3-1 集落分布の中心域
全竪穴住居プロット図からヒートマップを作成して、集落分布中心域を把握しました。
中期末葉~後期中葉竪穴住居祉ヒートマップ
半径パラメータ20m。赤い部分が竪穴住居祉が密集している様子を表現してます。
ヒートマップで赤い部分、つまり集落中心域は台地と東側谷津斜面との境界付近になります。
この付近が集落中心域になった理由は次のように考えます。
●心性出自が狩猟民の縄文人は狩猟に便利な台地面居住を好んだ。(谷底や低地居住は論外だった。)
●台地東側谷津の方が西側谷津より斜面が短く、谷津谷底に降りやすいので台地面東側を居住地として選んだ。
そうすることによって、谷底の小川から飲料水を得やすい状況が生まれた。
同時に漁撈活動で荷物を持って海と行き来する際、エネルギー消費が少ないという利点も生まれた。
3-2 ヒートマップと貝層・地点貝塚との関係
中期末葉~後期中葉竪穴住居祉ヒートマップと貝層・地点貝塚
竪穴住居祉ヒートマップと貝塚分布が大幅に重なっています。
竪穴住居の回りに貝塚が形成されたというプロセスではなく、竪穴住居祉(廃絶竪穴住居)が送り場となり、その送り場が貝塚に発展したプロセスが観察できます。
貝塚そのものが送り場といわれる所以です。
集落が爆発的に発展する3堀之内1式期より以前の「1 加曽利E4~称名寺古式期竪穴住居祉」と「2 称名寺~堀之内1古式期竪穴住居祉」の場所がその後の貝塚の場所を規定したことが判ります。
「1 加曽利E4~称名寺古式期竪穴住居祉」・「2 称名寺~堀之内1古式期竪穴住居祉」とヒートマップ、貝層・地点貝塚分布
最初に、この付近で定住する場合、台地と東側谷津との比高が西側谷津より少なく、飲料水獲得や海との交通の便で有利なので、その理由から「1 加曽利E4~称名寺古式期竪穴住居祉」と「2 称名寺~堀之内1古式期竪穴住居祉」が立地したと考えます。
一度そこに竪穴住居が立地すると、その竪穴住居が廃絶すると後続の竪穴住居はその近隣に立地するとともに、廃絶竪穴住居祉は送り場となります。
送り場で送る物が増え、かつ腐らない貝殻が増えると、最初の竪穴住居の穴では送る物を置く場所が足りなくなり、穴周辺に貝塚が拡大しだします。
時間が経てば貝塚近辺の廃絶竪穴住居が増え、そこも送り場になり、そのうちにそれも貝塚に吸収されます。
竪穴住居祉密集域と貝塚分布域がほぼ重なる現象はこのような現象であると理解することができました。
なお、集落ピーク期が過ぎた「5 堀之内2~加曽利B1期」以降も竪穴住居は貝塚付近に立地します。これは送り場付近に住みたいという衰退期集落縄文人の内向きな心性が存在していたと考えます。
反対に集落ピーク期の「3 堀之内1式期」には送り場近辺以外の場所に竪穴住居が広がります。発展期集落縄文人の進取の心性がそこに存在していたと考えます。
この記事では中期末葉~後期中葉竪穴住居の時期変遷を概観します。
今後多様な情報を時期別分布別に考察することのよって有用な情報が生まれると確信しますが、その基礎作業になります。
1 時期別竪穴住居数
大膳野南貝塚 中期末葉~後期中葉 時期別竪穴住居数
堀之内1式期に顕著なピークを持つ集落です。
2 時期別分布
時期別分布を順に示します。
1 加曽利E4~称名寺古式期 竪穴住居祉
2 称名寺~堀之内1古式期 竪穴住居祉
3 堀之内1式期 竪穴住居祉
4 堀之内2式期 竪穴住居祉
5 堀之内2~加曽利B1期 竪穴住居祉
6 加曽利B1~B2式期 竪穴住居祉
後期(詳細時期不明) 竪穴住居祉
3 考察
3-1 集落分布の中心域
全竪穴住居プロット図からヒートマップを作成して、集落分布中心域を把握しました。
中期末葉~後期中葉竪穴住居祉ヒートマップ
半径パラメータ20m。赤い部分が竪穴住居祉が密集している様子を表現してます。
ヒートマップで赤い部分、つまり集落中心域は台地と東側谷津斜面との境界付近になります。
この付近が集落中心域になった理由は次のように考えます。
●心性出自が狩猟民の縄文人は狩猟に便利な台地面居住を好んだ。(谷底や低地居住は論外だった。)
●台地東側谷津の方が西側谷津より斜面が短く、谷津谷底に降りやすいので台地面東側を居住地として選んだ。
そうすることによって、谷底の小川から飲料水を得やすい状況が生まれた。
同時に漁撈活動で荷物を持って海と行き来する際、エネルギー消費が少ないという利点も生まれた。
3-2 ヒートマップと貝層・地点貝塚との関係
中期末葉~後期中葉竪穴住居祉ヒートマップと貝層・地点貝塚
竪穴住居祉ヒートマップと貝塚分布が大幅に重なっています。
竪穴住居の回りに貝塚が形成されたというプロセスではなく、竪穴住居祉(廃絶竪穴住居)が送り場となり、その送り場が貝塚に発展したプロセスが観察できます。
貝塚そのものが送り場といわれる所以です。
集落が爆発的に発展する3堀之内1式期より以前の「1 加曽利E4~称名寺古式期竪穴住居祉」と「2 称名寺~堀之内1古式期竪穴住居祉」の場所がその後の貝塚の場所を規定したことが判ります。
「1 加曽利E4~称名寺古式期竪穴住居祉」・「2 称名寺~堀之内1古式期竪穴住居祉」とヒートマップ、貝層・地点貝塚分布
最初に、この付近で定住する場合、台地と東側谷津との比高が西側谷津より少なく、飲料水獲得や海との交通の便で有利なので、その理由から「1 加曽利E4~称名寺古式期竪穴住居祉」と「2 称名寺~堀之内1古式期竪穴住居祉」が立地したと考えます。
一度そこに竪穴住居が立地すると、その竪穴住居が廃絶すると後続の竪穴住居はその近隣に立地するとともに、廃絶竪穴住居祉は送り場となります。
送り場で送る物が増え、かつ腐らない貝殻が増えると、最初の竪穴住居の穴では送る物を置く場所が足りなくなり、穴周辺に貝塚が拡大しだします。
時間が経てば貝塚近辺の廃絶竪穴住居が増え、そこも送り場になり、そのうちにそれも貝塚に吸収されます。
竪穴住居祉密集域と貝塚分布域がほぼ重なる現象はこのような現象であると理解することができました。
なお、集落ピーク期が過ぎた「5 堀之内2~加曽利B1期」以降も竪穴住居は貝塚付近に立地します。これは送り場付近に住みたいという衰退期集落縄文人の内向きな心性が存在していたと考えます。
反対に集落ピーク期の「3 堀之内1式期」には送り場近辺以外の場所に竪穴住居が広がります。発展期集落縄文人の進取の心性がそこに存在していたと考えます。
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