大膳野南貝塚 中期末葉~後期中葉 竪穴住居の時期変遷
この記事では中期末葉~後期中葉竪穴住居の時期変遷を概観します。
今後多様な情報を時期別分布別に考察することのよって有用な情報が生まれると確信しますが、その基礎作業になります。
1 時期別竪穴住居数
大膳野南貝塚 中期末葉~後期中葉 時期別竪穴住居数
堀之内1式期に顕著なピークを持つ集落です。
2 時期別分布
時期別分布を順に示します。
1 加曽利E4~称名寺古式期 竪穴住居祉
2 称名寺~堀之内1古式期 竪穴住居祉
3 堀之内1式期 竪穴住居祉
4 堀之内2式期 竪穴住居祉
5 堀之内2~加曽利B1期 竪穴住居祉
6 加曽利B1~B2式期 竪穴住居祉
後期(詳細時期不明) 竪穴住居祉
3 考察
3-1 集落分布の中心域
全竪穴住居プロット図からヒートマップを作成して、集落分布中心域を把握しました。
中期末葉~後期中葉竪穴住居祉ヒートマップ
半径パラメータ20m。赤い部分が竪穴住居祉が密集している様子を表現してます。
ヒートマップで赤い部分、つまり集落中心域は台地と東側谷津斜面との境界付近になります。
この付近が集落中心域になった理由は次のように考えます。
●心性出自が狩猟民の縄文人は狩猟に便利な台地面居住を好んだ。(谷底や低地居住は論外だった。)
●台地東側谷津の方が西側谷津より斜面が短く、谷津谷底に降りやすいので台地面東側を居住地として選んだ。
そうすることによって、谷底の小川から飲料水を得やすい状況が生まれた。
同時に漁撈活動で荷物を持って海と行き来する際、エネルギー消費が少ないという利点も生まれた。
3-2 ヒートマップと貝層・地点貝塚との関係
中期末葉~後期中葉竪穴住居祉ヒートマップと貝層・地点貝塚
竪穴住居祉ヒートマップと貝塚分布が大幅に重なっています。
竪穴住居の回りに貝塚が形成されたというプロセスではなく、竪穴住居祉(廃絶竪穴住居)が送り場となり、その送り場が貝塚に発展したプロセスが観察できます。
貝塚そのものが送り場といわれる所以です。
集落が爆発的に発展する3堀之内1式期より以前の「1 加曽利E4~称名寺古式期竪穴住居祉」と「2 称名寺~堀之内1古式期竪穴住居祉」の場所がその後の貝塚の場所を規定したことが判ります。
「1 加曽利E4~称名寺古式期竪穴住居祉」・「2 称名寺~堀之内1古式期竪穴住居祉」とヒートマップ、貝層・地点貝塚分布
最初に、この付近で定住する場合、台地と東側谷津との比高が西側谷津より少なく、飲料水獲得や海との交通の便で有利なので、その理由から「1 加曽利E4~称名寺古式期竪穴住居祉」と「2 称名寺~堀之内1古式期竪穴住居祉」が立地したと考えます。
一度そこに竪穴住居が立地すると、その竪穴住居が廃絶すると後続の竪穴住居はその近隣に立地するとともに、廃絶竪穴住居祉は送り場となります。
送り場で送る物が増え、かつ腐らない貝殻が増えると、最初の竪穴住居の穴では送る物を置く場所が足りなくなり、穴周辺に貝塚が拡大しだします。
時間が経てば貝塚近辺の廃絶竪穴住居が増え、そこも送り場になり、そのうちにそれも貝塚に吸収されます。
竪穴住居祉密集域と貝塚分布域がほぼ重なる現象はこのような現象であると理解することができました。
なお、集落ピーク期が過ぎた「5 堀之内2~加曽利B1期」以降も竪穴住居は貝塚付近に立地します。これは送り場付近に住みたいという衰退期集落縄文人の内向きな心性が存在していたと考えます。
反対に集落ピーク期の「3 堀之内1式期」には送り場近辺以外の場所に竪穴住居が広がります。発展期集落縄文人の進取の心性がそこに存在していたと考えます。
2017年5月2日火曜日
2017年2月7日火曜日
大膳野南貝塚 遺構分布概要 縄文時代後期
大膳野南貝塚の遺構分布を通しで概観してみて、自分なりの遺跡イメージを構築しようとしています。
この記事では縄文時代中期末葉~後期中葉の遺構分布を概観してみます。
なお、この前の時期(縄文時代前期末葉~中期後葉)は土器は出土していますが、遺構は出土していません。
次に、竪穴住居祉、土坑、北・南・西貝層、地点貝層の分布図を示します。
大膳野南貝塚 縄文時代中期末葉~後期中葉 竪穴住居祉分布図
この分布図を概観する限りでは竪穴住居の分布は北・南貝層付近で密であり、全体として2重環状分布のように見えます。
この情報に土器形式情報をオーバーレイして時代変化などについて分析学習したいと思います。
大膳野南貝塚 縄文時代中期末葉~後期中葉 土坑分布図
土坑分布も2重環状分布しているように観察できます。
また列状の分布している場所が各所に見られます。
恐らく詳しく分析すれば竪穴住居と土坑との対応関係をどこかのレベルで知ることができるような予感のする分布です。
大膳野南貝塚 縄文時代中期末葉~後期中葉 北・南・西貝層分布図
メインの貝塚を形成する貝層は3か所に分かれて分布していて、竪穴住居・土坑の2重環状分布の外側環状と一致します。
発掘調査報告書では貝層は弥生時代以降の改変により現在の姿になり、もともとは環状をしていたと記述されています。
しかし、後世の開発により削られたと発掘調査報告書が想定していると考えられる場所は台地中央部であり、場所の地勢からして、その場所にもともと貝塚があったとは考えずらく、発掘調査報告書の記述に違和感を持ちますので、学習において検証したいと考えます。
大膳野南貝塚 縄文時代中期末葉~後期中葉 地点貝層分布図
地点貝塚の分布は外環状をきれいに示すように観察できます。
発掘調査報告書ではこの他に、漆喰使用遺構分布図、人骨検出遺構分布図もありますが、本学習の中で検討します。
この記事では縄文時代中期末葉~後期中葉の遺構分布を概観してみます。
なお、この前の時期(縄文時代前期末葉~中期後葉)は土器は出土していますが、遺構は出土していません。
次に、竪穴住居祉、土坑、北・南・西貝層、地点貝層の分布図を示します。
大膳野南貝塚 縄文時代中期末葉~後期中葉 竪穴住居祉分布図
この分布図を概観する限りでは竪穴住居の分布は北・南貝層付近で密であり、全体として2重環状分布のように見えます。
この情報に土器形式情報をオーバーレイして時代変化などについて分析学習したいと思います。
大膳野南貝塚 縄文時代中期末葉~後期中葉 土坑分布図
土坑分布も2重環状分布しているように観察できます。
また列状の分布している場所が各所に見られます。
恐らく詳しく分析すれば竪穴住居と土坑との対応関係をどこかのレベルで知ることができるような予感のする分布です。
大膳野南貝塚 縄文時代中期末葉~後期中葉 北・南・西貝層分布図
メインの貝塚を形成する貝層は3か所に分かれて分布していて、竪穴住居・土坑の2重環状分布の外側環状と一致します。
発掘調査報告書では貝層は弥生時代以降の改変により現在の姿になり、もともとは環状をしていたと記述されています。
しかし、後世の開発により削られたと発掘調査報告書が想定していると考えられる場所は台地中央部であり、場所の地勢からして、その場所にもともと貝塚があったとは考えずらく、発掘調査報告書の記述に違和感を持ちますので、学習において検証したいと考えます。
大膳野南貝塚 縄文時代中期末葉~後期中葉 地点貝層分布図
地点貝塚の分布は外環状をきれいに示すように観察できます。
発掘調査報告書ではこの他に、漆喰使用遺構分布図、人骨検出遺構分布図もありますが、本学習の中で検討します。
2017年2月6日月曜日
大膳野南貝塚 遺構分布概要 縄文時代前期後葉
大膳野南貝塚発掘調査報告書で作成されている遺構分布図を通しで見てみて、自分なりに遺跡概要のイメージを深めようとしています。
2017.02.05記事「大膳野南貝塚 遺構分布概要 縄文時代早期」では「草創期~前期中葉の遺構と遺物」で掲載されている縄文時代早期遺構分布図を概観しました。
なお、記事掲載後発掘調査報告書の「まとめ」を読むと、旧石器時代、前期後葉の記述はあるのですが、その中間の「草創期~前期中葉」記述がないことに気が付きました。
「まとめ」に「草創期~前期中葉」の記述がないことに、どのような背景があるのか、一般人には理解不能ですので、記録しておきます。
この記事では「前期後葉の遣構と遺物」で掲載されている遺構分布図を概観します。
大膳野南貝塚 縄文時代前期後葉 遺構分布図
竪穴住居祉16軒と土坑113基の分布図が示されています。
発掘調査報告書のまとめでは、竪穴住居祉土坑を合わせた分布が略環状になっていて、それがその時期の集落構造を表しているという分析を行っています。
発掘調査報告書ではサンプル調査した全ての土坑からオニグルミ核が出土していて、土坑は貯蔵庫であると推定しています。
またこの集落の土坑墓は西方隣接遺跡のバクチ穴遺跡にあるのではないかと推定しています。
遺構位置をGISで全てプロットしたので、今後発掘調査報告書記載情報を遺構別に整理して、GIS空間分析をいろいろと試みたいと思っています。
縄文時代草創期~前期中葉までは、遺構分布から大膳野南貝塚遺跡空間は狩場であったと考えることができますが、前期後葉には居住空間(集落空間)に変化したことを理解できました。
また貝層と獣骨の出土がありますから、この時期から海の幸と山の幸の双方を利用していたことが判明します。
この集落の縄文人の狩場はこの集落内でないことは明白になりましたから、どこを狩場にしていたか?、つきとめなければなりません。
また生活における海の幸利用割合がどの程度であったのか、次の時期(貝塚形成期)と比べみたくなります。
今後詳しい検討を行います。
2017.02.05記事「大膳野南貝塚 遺構分布概要 縄文時代早期」では「草創期~前期中葉の遺構と遺物」で掲載されている縄文時代早期遺構分布図を概観しました。
なお、記事掲載後発掘調査報告書の「まとめ」を読むと、旧石器時代、前期後葉の記述はあるのですが、その中間の「草創期~前期中葉」記述がないことに気が付きました。
「まとめ」に「草創期~前期中葉」の記述がないことに、どのような背景があるのか、一般人には理解不能ですので、記録しておきます。
この記事では「前期後葉の遣構と遺物」で掲載されている遺構分布図を概観します。
大膳野南貝塚 縄文時代前期後葉 遺構分布図
竪穴住居祉16軒と土坑113基の分布図が示されています。
発掘調査報告書のまとめでは、竪穴住居祉土坑を合わせた分布が略環状になっていて、それがその時期の集落構造を表しているという分析を行っています。
発掘調査報告書ではサンプル調査した全ての土坑からオニグルミ核が出土していて、土坑は貯蔵庫であると推定しています。
またこの集落の土坑墓は西方隣接遺跡のバクチ穴遺跡にあるのではないかと推定しています。
遺構位置をGISで全てプロットしたので、今後発掘調査報告書記載情報を遺構別に整理して、GIS空間分析をいろいろと試みたいと思っています。
縄文時代草創期~前期中葉までは、遺構分布から大膳野南貝塚遺跡空間は狩場であったと考えることができますが、前期後葉には居住空間(集落空間)に変化したことを理解できました。
また貝層と獣骨の出土がありますから、この時期から海の幸と山の幸の双方を利用していたことが判明します。
この集落の縄文人の狩場はこの集落内でないことは明白になりましたから、どこを狩場にしていたか?、つきとめなければなりません。
また生活における海の幸利用割合がどの程度であったのか、次の時期(貝塚形成期)と比べみたくなります。
今後詳しい検討を行います。
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