小字地名データベース作成活用プロジェクト 29
千葉県地名大辞典(角川書店)附録小字一覧のうち、下図に赤色を塗った市町村について電子化を済ませました。
古代下総国域のうち千葉県域分をほとんどカバーしたことになります。
千葉県小字データベース作成状況(2015.11.02)
時間の余裕のある時に電子化作業をしていて、ここまでくると、年内に九十九里平野を攻略して、新年の前半に上総国の主要部と安房国全部を陥落させる目途が付きます。
下総国より上総国の方が歴史が古く、したがって古代地名を対象とすると、これからの作業領域の情報価値がより高いと感じますので、電子化という単純作業にも関わらず熱がこもってきます。
上総国本拠地の東京湾岸から、養老川や村田川をさかのぼって船越を超え、太平洋岸(九十九里浜とその周辺)に向かった新たな開拓の動きが地名から確認できる可能性も感じています。
データベース領域がもう少し増えた段階で、いくつかの問題意識をデータベースに投影して、データベースの意義を中間的に検討したいと考えています。
2015年11月2日月曜日
2015年11月1日日曜日
メモ 萱採取集団の存在を暗示する墨書土器
花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.236 メモ 萱採取集団の存在を暗示する墨書土器
墨書文字「草田」(カヤタ)が有用資源の萱(かや)増産の祈願語であり、結果として地名「萱田」と対応付けられると考えました。
「草」1文字の墨書土器もありますから、「草田」(カヤタ)は地名そのものを書いたものではないと考えたのです。
さて、萱田遺跡群には唐草模様のような字を書いた墨書土器が9点出土します。権現後遺跡から4点、白幡前遺跡から5点出土します。
この唐草模様のような字が草の象形文字をリアルに書いたものであることが判ったので報告します。
萱田遺跡群出土「唐草模様」墨書土器は草の象形文字を書いていると考える
漢和辞典の引用にあるように、「草木の芽生えを形で表す」象形文字が伝わて来ていて、その象形文字を二つ合わせて草の原字が出来たことがわかります。
その「草木の芽生えを形で表す」象形文字をリアルに図案化して書いたものが唐草模様のような墨書土器であると考えます。
草の象形文字はカヤと読み、草(かや)増産の祈願語です。
「草」や「草田」という漢字そのものが出土する一方、草の象形文字を書くということは相当深い漢字知識が存在していたことになります。
また、今風に言えば、立派なエンブレムを古代人が作っていたことになります。その風流、遊び心、知的余裕に感動します。
草の象形文字を墨書土器に書いた集団は有用資源の萱採取集団であた可能性がある
草の象形文字を書くという行為から草に関する仕事を使命として強く意識していた集団、草の仕事に特化した集団がこの墨書土器を書いたものと考えて間違いないと思います。
おそらく、建築資材や生活資材としての草(かや)採取集団であったと考えます。
なお、権現後遺跡は土器生産遺跡です。土器生産現場の燃料として多量の草(かや)を使っていた可能性があります。
土器生産のための燃料以外にも、萱葺き屋根のために多量の草(かや)が必要であったと考えます。
有用資源の萱の需要が旺盛であり、その需要を満たすだけの草(かや)が存在し、その草(かや)を刈り取る専門集団が存在して活躍したことにより、地名「萱田」が発生したと考えます。
おわり
墨書文字「草田」(カヤタ)が有用資源の萱(かや)増産の祈願語であり、結果として地名「萱田」と対応付けられると考えました。
「草」1文字の墨書土器もありますから、「草田」(カヤタ)は地名そのものを書いたものではないと考えたのです。
さて、萱田遺跡群には唐草模様のような字を書いた墨書土器が9点出土します。権現後遺跡から4点、白幡前遺跡から5点出土します。
この唐草模様のような字が草の象形文字をリアルに書いたものであることが判ったので報告します。
萱田遺跡群出土「唐草模様」墨書土器は草の象形文字を書いていると考える
漢和辞典の引用にあるように、「草木の芽生えを形で表す」象形文字が伝わて来ていて、その象形文字を二つ合わせて草の原字が出来たことがわかります。
その「草木の芽生えを形で表す」象形文字をリアルに図案化して書いたものが唐草模様のような墨書土器であると考えます。
草の象形文字はカヤと読み、草(かや)増産の祈願語です。
「草」や「草田」という漢字そのものが出土する一方、草の象形文字を書くということは相当深い漢字知識が存在していたことになります。
また、今風に言えば、立派なエンブレムを古代人が作っていたことになります。その風流、遊び心、知的余裕に感動します。
草の象形文字を墨書土器に書いた集団は有用資源の萱採取集団であた可能性がある
草の象形文字を書くという行為から草に関する仕事を使命として強く意識していた集団、草の仕事に特化した集団がこの墨書土器を書いたものと考えて間違いないと思います。
おそらく、建築資材や生活資材としての草(かや)採取集団であったと考えます。
なお、権現後遺跡は土器生産遺跡です。土器生産現場の燃料として多量の草(かや)を使っていた可能性があります。
土器生産のための燃料以外にも、萱葺き屋根のために多量の草(かや)が必要であったと考えます。
有用資源の萱の需要が旺盛であり、その需要を満たすだけの草(かや)が存在し、その草(かや)を刈り取る専門集団が存在して活躍したことにより、地名「萱田」が発生したと考えます。
おわり
2015年10月31日土曜日
メモ 地名と墨書土器の文字 その2
花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.235 メモ 地名と墨書土器の文字 その2
2015.10.30記事「メモ 地名と墨書土器の文字」では大層偉そうな気分で記事を書きました。
墨書文字「草田」(カヤタ)が地名そのものではなく、「草(カヤ…くさ)」が生えるような生産性の低い水田の増収を願う祈願語であるという説を説明しました。
1日経って、この記事を読み返して、「違うかもしれない?」という異説が頭脳中に発生しました。
偉そうな記事を書いた翌日、自ら異説を唱えるのですから、恥ずかしさと向上突破感とが混ざった複雑な感情が渦巻いています。
自らの感情分析はさておいて、「草田」(カヤタ)が地名そのものではなく、生活生産の原材料増産を祈願していたという説を説明します。
辞書による「かや」の説明を次に引用します。
かや【茅・萱】
〖名〗
① 屋根を葺(ふ)くのに用いるイネ科、カヤツリグサ科の大形草本の総称。主としてススキ、チガヤ、スゲなどが用いられる。茅根。茅草。<季・秋>
※古事記(712)上「爾に即ち其の海辺の波限(なぎさ)に鵜の羽を以ちて〓草(かや)と為て産殿を造りき。〈略〉〈波限を訓みて那芸佐と云ふ。葺草を訓みて加夜(カヤ)と云ふ〉」
※延喜式(927)祝詞(九条家本訓)「取り葺ける草(カヤ)の噪き〈略〉なく」
② 「⇨すすき(薄)」の異名。
※八丈実記(1848‐55)土産「芒(カヤ)すすき 地筋(カヤ)(〈注〉ヂヂョ)、異名菅根、土筋、菅茅、黄茅」
語誌
⑴元来は①のように総称だったので、「延喜式・祝詞」に見られるように「草」をあてることもあった。「茅」は「ち」で、「ちがや」を指すが、「ちがや」は屋根をふく草の代表的なものなので、「かや」にあてられた。
⑵「萱」は本来、ユリ科の植物カンゾウ、一名ワスレグサで、「かや」の意に用いるのは誤り。「和名抄」「名義抄」などに「かや」とよむ文字は「萓」。字形が似ているところから、後世誤ったもの。
『精選版 日本国語大辞典』 小学館
「かや」は草の字をつかうこともあり、有用な建築資材としての意味があったことがわかります。
「かや」を刈り取る場として「茅場・萱場」、「茅原・萱原」、「茅山・萱山」などの言葉があります。
辞書レベルでは「かや」という語に特段のマイナス印象(不要物、耕地の邪魔者等)を見つけることはできません。
「草田」(カヤタ)が建築の有用資材であるカヤの採取場所を指し、「草田」という語が有用資材かやの増産を祈願した言葉である可能性を濃厚に感じます。
「かや」のイメージ
白幡前遺跡の墨書土器文字を調べると、「草」1文字だけの祈願語も出土しています。
「草」白幡前遺跡出土
千葉県出土墨書・刻書データベース(明治大学日本古代学研究所)から引用
「草田」(カヤタ)の草(カヤ)が生産性が低いことを示す雑草の意味であるとしたら、「草」1文字だけの祈願語の存在は考えにくいように感じます。
「草」1文字の祈願語はそれを有用建築資材・生活資材としての「かや」にその意味を求めるのが極自然の成り行きというものです。
資材としての「かや」の増産祈願であると考えることが自然です。
結論として、「草田」(カヤタ)という墨書土器文字は、地名を表現したものではなく、有用資材である「かや」の増産を祈願した言葉であるということになります。
その「かや」を刈る場所としての「草田」(カヤタ)という言葉が地名となり、現在八千代市の大字萱田として伝わってきているということです。
「草田」(カヤタ)という祈願語墨書は、地名発生の瞬間を土器表面に定着させたものであり、地名の意味を現代に伝える物証であると考えます。
次の記事で、この記事を書くきっかけとなった「かや」そのものを暗示する墨書土器写真(八千代市立郷土博物館で実物閲覧)を掲載して、さらに「草田」検討を深めます。
つづく
2015.10.30記事「メモ 地名と墨書土器の文字」では大層偉そうな気分で記事を書きました。
墨書文字「草田」(カヤタ)が地名そのものではなく、「草(カヤ…くさ)」が生えるような生産性の低い水田の増収を願う祈願語であるという説を説明しました。
1日経って、この記事を読み返して、「違うかもしれない?」という異説が頭脳中に発生しました。
偉そうな記事を書いた翌日、自ら異説を唱えるのですから、恥ずかしさと向上突破感とが混ざった複雑な感情が渦巻いています。
自らの感情分析はさておいて、「草田」(カヤタ)が地名そのものではなく、生活生産の原材料増産を祈願していたという説を説明します。
辞書による「かや」の説明を次に引用します。
かや【茅・萱】
〖名〗
① 屋根を葺(ふ)くのに用いるイネ科、カヤツリグサ科の大形草本の総称。主としてススキ、チガヤ、スゲなどが用いられる。茅根。茅草。<季・秋>
※古事記(712)上「爾に即ち其の海辺の波限(なぎさ)に鵜の羽を以ちて〓草(かや)と為て産殿を造りき。〈略〉〈波限を訓みて那芸佐と云ふ。葺草を訓みて加夜(カヤ)と云ふ〉」
※延喜式(927)祝詞(九条家本訓)「取り葺ける草(カヤ)の噪き〈略〉なく」
② 「⇨すすき(薄)」の異名。
※八丈実記(1848‐55)土産「芒(カヤ)すすき 地筋(カヤ)(〈注〉ヂヂョ)、異名菅根、土筋、菅茅、黄茅」
語誌
⑴元来は①のように総称だったので、「延喜式・祝詞」に見られるように「草」をあてることもあった。「茅」は「ち」で、「ちがや」を指すが、「ちがや」は屋根をふく草の代表的なものなので、「かや」にあてられた。
⑵「萱」は本来、ユリ科の植物カンゾウ、一名ワスレグサで、「かや」の意に用いるのは誤り。「和名抄」「名義抄」などに「かや」とよむ文字は「萓」。字形が似ているところから、後世誤ったもの。
『精選版 日本国語大辞典』 小学館
「かや」は草の字をつかうこともあり、有用な建築資材としての意味があったことがわかります。
「かや」を刈り取る場として「茅場・萱場」、「茅原・萱原」、「茅山・萱山」などの言葉があります。
辞書レベルでは「かや」という語に特段のマイナス印象(不要物、耕地の邪魔者等)を見つけることはできません。
「草田」(カヤタ)が建築の有用資材であるカヤの採取場所を指し、「草田」という語が有用資材かやの増産を祈願した言葉である可能性を濃厚に感じます。
「かや」のイメージ
白幡前遺跡の墨書土器文字を調べると、「草」1文字だけの祈願語も出土しています。
「草」白幡前遺跡出土
千葉県出土墨書・刻書データベース(明治大学日本古代学研究所)から引用
「草田」(カヤタ)の草(カヤ)が生産性が低いことを示す雑草の意味であるとしたら、「草」1文字だけの祈願語の存在は考えにくいように感じます。
「草」1文字の祈願語はそれを有用建築資材・生活資材としての「かや」にその意味を求めるのが極自然の成り行きというものです。
資材としての「かや」の増産祈願であると考えることが自然です。
結論として、「草田」(カヤタ)という墨書土器文字は、地名を表現したものではなく、有用資材である「かや」の増産を祈願した言葉であるということになります。
その「かや」を刈る場所としての「草田」(カヤタ)という言葉が地名となり、現在八千代市の大字萱田として伝わってきているということです。
「草田」(カヤタ)という祈願語墨書は、地名発生の瞬間を土器表面に定着させたものであり、地名の意味を現代に伝える物証であると考えます。
次の記事で、この記事を書くきっかけとなった「かや」そのものを暗示する墨書土器写真(八千代市立郷土博物館で実物閲覧)を掲載して、さらに「草田」検討を深めます。
つづく
2015年10月30日金曜日
メモ 地名と墨書土器の文字
花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.234 メモ 地名と墨書土器の文字
前の記事とは関連がない事柄ですが、また鳴神山遺跡の例でもありませんが、前々から気になっていた地名と墨書土器文字の関係についてメモしておきます。
墨書土器の文字がその出土場所付近に伝わる地名と対応するものがあり、「千葉県の歴史 通史編 古代2」でまとめられています。
大変興味深く、参考になります。この記述の中からもっと情報を汲み取っていくつもりです。
私は地名にも強い興味があり、現在「角川千葉県地名大辞典」の付録小字一覧を丸ごと全部電子化する作業を行っていて、それを将来はGISデータベースにしようとしているほどです。
ところが、「千葉県の歴史 通史編 古代2」に魅かれて興味を深めれば深めるほど、違和感とまではいかないにしても、不満足感を感じるようになりました。
「千葉県の歴史 通史編 古代2」の情報は墨書文字と地名との対応関係に絞られています。
なぜその文字が土器に墨書されてたのかという理由の検討がありません。
墨書土器の中にはその文字が正真正銘の「地名」として登場するものがあります。
例えば「村神郷丈部国依甘魚」(権現後遺跡)の村神郷は地名として書かれた文字ですから、地名としての検討で終始して、それでよいと思います。
一方例えば、「草田」という墨書文字が白幡前遺跡から出土しています。
墨書文字「草田」 白幡前遺跡出土
千葉県出土墨書・刻書土器データベース(明治大学日本古代学研究所)から引用
これについては「カヤタ」と読み現在の八千代市大字の萱田と対応するという検討がなされています。この検討自体は新しい知識を専門家が市民に提供したものとして素晴らしいことだと思います。
墨書文字「草田」が現在の地名「萱田」と対応するということは判りました。
しかし、なぜ「草田」と土器に墨書されたのか説明がありません。
土器に地名を単独で墨書するということが考えられません。
土器に地名を単独で墨書して何かの祈願に用いたとか、そのあたりの説明が欠落しています。
以前の記事で、単独あるいは2-3文字程度の墨書土器の場合のその文字の意味解読のパターン素案を作成しました。
墨書・刻書文字の意味解読パターン 素案
2015.10.16記事「墨書文字の意味解読パターン素案の作成」参照
私は「草田」もこのパターンの中で位置づけたいと思います。
「カヤ(クサ)ばかり生えて収穫の少ない、私たちが開発に従事している田んぼの収穫が増えますように」という趣旨の祈願を「草田」という文字に表現したのだと思います。
白幡前遺跡では類似の墨書文字として「赤山」「提赤山」が出土しています。
「赤山(セキヤマ)」と呼ばれた収穫物の少ない開発地があり、その開発地の収穫が増えるように祈願し、提(酒や魚を差し出す)したのだと思います。
2015.05.13記事「八千代市白幡前遺跡 墨書土器の文字検討 その3」参照
つまり、「草田」とは地名「萱田」発生の意味を説明している言葉なのだと思います。
「草田」が墨書土器に祈願語として書かれたことから、地名発生の様子をそこに汲み取ることができるのだと思います。
「草田」が祈願の対称となったことから、地名発生の意味が判るのです。
「草田」と墨書した古代人は地名としての「草田」を書いたのではなく、「カヤ(クサ)ばかり生えて、収穫が少ない、自分たちの労が報われない、あの田んぼ」をイメージして書いたのだと思います。
そして、そのイメージを人々が共有していたので、「カヤタ」という地名が生れたのだと思います。
「カヤタ」地名が発生した最初は、その地名が指す場所は、ある特定の規模の小さな水田開発地だったことは確実です。
その後の時代変遷のなかで、「萱田」地名が八千代市の大字に変化(場所拡大)していったのです。
地名「萱田」は白幡前遺跡とともに生まれた地名であり、古墳時代から既にそこにあった地名ではないと考えます。
「草田」が地名「萱田」と対応するという情報でストップして終るように、墨書土器文字が現在地名と対応すると判って、そこで検討をストップしてしまっては、満足しきれない感情が残ります。
前の記事とは関連がない事柄ですが、また鳴神山遺跡の例でもありませんが、前々から気になっていた地名と墨書土器文字の関係についてメモしておきます。
墨書土器の文字がその出土場所付近に伝わる地名と対応するものがあり、「千葉県の歴史 通史編 古代2」でまとめられています。
大変興味深く、参考になります。この記述の中からもっと情報を汲み取っていくつもりです。
私は地名にも強い興味があり、現在「角川千葉県地名大辞典」の付録小字一覧を丸ごと全部電子化する作業を行っていて、それを将来はGISデータベースにしようとしているほどです。
ところが、「千葉県の歴史 通史編 古代2」に魅かれて興味を深めれば深めるほど、違和感とまではいかないにしても、不満足感を感じるようになりました。
「千葉県の歴史 通史編 古代2」の情報は墨書文字と地名との対応関係に絞られています。
なぜその文字が土器に墨書されてたのかという理由の検討がありません。
墨書土器の中にはその文字が正真正銘の「地名」として登場するものがあります。
例えば「村神郷丈部国依甘魚」(権現後遺跡)の村神郷は地名として書かれた文字ですから、地名としての検討で終始して、それでよいと思います。
一方例えば、「草田」という墨書文字が白幡前遺跡から出土しています。
墨書文字「草田」 白幡前遺跡出土
千葉県出土墨書・刻書土器データベース(明治大学日本古代学研究所)から引用
これについては「カヤタ」と読み現在の八千代市大字の萱田と対応するという検討がなされています。この検討自体は新しい知識を専門家が市民に提供したものとして素晴らしいことだと思います。
墨書文字「草田」が現在の地名「萱田」と対応するということは判りました。
しかし、なぜ「草田」と土器に墨書されたのか説明がありません。
土器に地名を単独で墨書するということが考えられません。
土器に地名を単独で墨書して何かの祈願に用いたとか、そのあたりの説明が欠落しています。
以前の記事で、単独あるいは2-3文字程度の墨書土器の場合のその文字の意味解読のパターン素案を作成しました。
墨書・刻書文字の意味解読パターン 素案
2015.10.16記事「墨書文字の意味解読パターン素案の作成」参照
私は「草田」もこのパターンの中で位置づけたいと思います。
「カヤ(クサ)ばかり生えて収穫の少ない、私たちが開発に従事している田んぼの収穫が増えますように」という趣旨の祈願を「草田」という文字に表現したのだと思います。
白幡前遺跡では類似の墨書文字として「赤山」「提赤山」が出土しています。
「赤山(セキヤマ)」と呼ばれた収穫物の少ない開発地があり、その開発地の収穫が増えるように祈願し、提(酒や魚を差し出す)したのだと思います。
2015.05.13記事「八千代市白幡前遺跡 墨書土器の文字検討 その3」参照
つまり、「草田」とは地名「萱田」発生の意味を説明している言葉なのだと思います。
「草田」が墨書土器に祈願語として書かれたことから、地名発生の様子をそこに汲み取ることができるのだと思います。
「草田」が祈願の対称となったことから、地名発生の意味が判るのです。
「草田」と墨書した古代人は地名としての「草田」を書いたのではなく、「カヤ(クサ)ばかり生えて、収穫が少ない、自分たちの労が報われない、あの田んぼ」をイメージして書いたのだと思います。
そして、そのイメージを人々が共有していたので、「カヤタ」という地名が生れたのだと思います。
「カヤタ」地名が発生した最初は、その地名が指す場所は、ある特定の規模の小さな水田開発地だったことは確実です。
その後の時代変遷のなかで、「萱田」地名が八千代市の大字に変化(場所拡大)していったのです。
地名「萱田」は白幡前遺跡とともに生まれた地名であり、古墳時代から既にそこにあった地名ではないと考えます。
「草田」が地名「萱田」と対応するという情報でストップして終るように、墨書土器文字が現在地名と対応すると判って、そこで検討をストップしてしまっては、満足しきれない感情が残ります。
2015年10月29日木曜日
参考メモ 房総古代の開拓に関する空間大局観
花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.233 参考メモ 房総古代の開拓に関する空間大局観
2015.10.27記事「参考メモ 古代氏族の印旛への到達経路」のつづき記事です。
鳴神山遺跡の検討から時間的空間的に離れてしまいましたが、自分の古代認識(イメージ)を深められますので、印旛古代4氏族の印旛到達経路についてさらに検討(想像)してみました。
1 印旛古代4氏族が印旛に到達する前の房総の状況
次の図は古代氏族が印旛に到達した時代より以前の房総の様子を想像するための思考刺激図です。
古代氏族が印旛に到達した時代より以前の房総の様子を想像するための思考刺激図
この思考刺激図から刺激を受けて、次のような想像が発生しました。
●東国を開拓するために西日本からやってきた古代氏族群が上総の小糸川流域、小櫃川流域、養老川流域、村田川流域の各下流の適地を次々に開拓して拠点として確立していったと考えます。
●その際の開拓の順番は西日本から近い順に、つまり南から北に向かって小糸川流域→小櫃川流域→養老川流域→村田川流域であったと考えます。
●上総の拠点群は東京湾をその影響圏に治めたと考えます。
(以上古墳時代遺跡ヒートマップから想像)
●また、上総から香取の海に通じる交通路は都川-船越-鹿島川水運路とそれに対応する陸路(つまり後の東海道本路)が上総拠点群が成立した頃にはすでに存在していたと考えます。
(以上初期東海道駅路網から想像)
2 印旛古代4氏族と上総国既存拠点群とのかかわり
印旛に到達した古代4氏族は1のような房総における状況が既に存在している中で、西日本の本国を出発して、東京湾を通って印旛に到達したと考えます。
ですから、印旛古代4氏族は必ずや上総既存拠点群と接触交渉を持った上で印旛に向かったと考えざるを得ません。
上総既存拠点群と関わり無しに東京湾を通航することは不可能であったと考えます。
いわんや、印旛に入るにあたって船越の手前で船を捨て、船越を越してから新たに船をつくるなど一筋縄ではいかない、長期間を要する移動ですから、上総既存拠点群の協力なしには、あるいは許可なしには新天地印旛までたどり着け無かったと考えます。
3 印旛古代4氏族の印旛到達ルートと順番
上総拠点群の開拓順番を西日本から近い順に小糸川流域→小櫃川流域→養老川流域→村田川流域と想像しましたが、同じ理由で次のような印旛到達ルートと順番であることを想像します。
印旛古代4氏族の印旛到達ルートと順番
順番1 埴生神社を祀る古代氏族
都川-鹿島川船越ルート
順番2 麻賀多神社を祀る古代氏族
都川-鹿島川船越ルート
順番3 宗像神社を祀る古代氏族
花見川-平戸川船越ルート
順番4 鳥見神社を祀る氏族
太日川-手賀沼船越ルート
4 印旛古代4氏族の到達ルート確保性
印旛古代4氏族は上総拠点群の協力あるいは許可を受けて、順に東京湾を反時計回りで都川→花見川→太日川と向い、その上流に存在する天然の地峡を船越として利用し、それぞれ香取の海に入ったと考えます。
香取の海に入った古代氏族は東京湾の上総拠点群との交流や西日本に存在する「本国」との連絡をとる上でも印旛到達ルートを占有的に確保したと考えます。
詳しく情報を精査すれば、印旛到達ルート上にそこを通過した古代氏族の痕跡が見つかる可能性があると考えます。
なお、埴生神社を祀る古代氏族と麻賀多神社を祀る古代氏族は同じ印旛到達ルートを共有するのですからある程度親和的な関係にあったと考えます。
5 養老川と村田川から太平洋岸に通じる開拓ルート
印旛古代4氏族とどの程度関係するか、まだイメージできませんが、古代における流域を超える水運移動ルートとして、養老川-船越-一宮川ルート、村田川-船越-南白亀川ルートが存在していたと考えます。
古代では現在の九十九里平野が湿地と水面で構成されていて、水運路として利用されていたと考えます。
このルートを経由して香取の海に至るルートも存在していたと考えます。
養老川と村田川から太平洋岸に通じる開拓ルート(想像)
2015.10.27記事「参考メモ 古代氏族の印旛への到達経路」のつづき記事です。
鳴神山遺跡の検討から時間的空間的に離れてしまいましたが、自分の古代認識(イメージ)を深められますので、印旛古代4氏族の印旛到達経路についてさらに検討(想像)してみました。
1 印旛古代4氏族が印旛に到達する前の房総の状況
次の図は古代氏族が印旛に到達した時代より以前の房総の様子を想像するための思考刺激図です。
古代氏族が印旛に到達した時代より以前の房総の様子を想像するための思考刺激図
この思考刺激図から刺激を受けて、次のような想像が発生しました。
●東国を開拓するために西日本からやってきた古代氏族群が上総の小糸川流域、小櫃川流域、養老川流域、村田川流域の各下流の適地を次々に開拓して拠点として確立していったと考えます。
●その際の開拓の順番は西日本から近い順に、つまり南から北に向かって小糸川流域→小櫃川流域→養老川流域→村田川流域であったと考えます。
●上総の拠点群は東京湾をその影響圏に治めたと考えます。
(以上古墳時代遺跡ヒートマップから想像)
●また、上総から香取の海に通じる交通路は都川-船越-鹿島川水運路とそれに対応する陸路(つまり後の東海道本路)が上総拠点群が成立した頃にはすでに存在していたと考えます。
(以上初期東海道駅路網から想像)
2 印旛古代4氏族と上総国既存拠点群とのかかわり
印旛に到達した古代4氏族は1のような房総における状況が既に存在している中で、西日本の本国を出発して、東京湾を通って印旛に到達したと考えます。
ですから、印旛古代4氏族は必ずや上総既存拠点群と接触交渉を持った上で印旛に向かったと考えざるを得ません。
上総既存拠点群と関わり無しに東京湾を通航することは不可能であったと考えます。
いわんや、印旛に入るにあたって船越の手前で船を捨て、船越を越してから新たに船をつくるなど一筋縄ではいかない、長期間を要する移動ですから、上総既存拠点群の協力なしには、あるいは許可なしには新天地印旛までたどり着け無かったと考えます。
3 印旛古代4氏族の印旛到達ルートと順番
上総拠点群の開拓順番を西日本から近い順に小糸川流域→小櫃川流域→養老川流域→村田川流域と想像しましたが、同じ理由で次のような印旛到達ルートと順番であることを想像します。
印旛古代4氏族の印旛到達ルートと順番
順番1 埴生神社を祀る古代氏族
都川-鹿島川船越ルート
順番2 麻賀多神社を祀る古代氏族
都川-鹿島川船越ルート
順番3 宗像神社を祀る古代氏族
花見川-平戸川船越ルート
順番4 鳥見神社を祀る氏族
太日川-手賀沼船越ルート
4 印旛古代4氏族の到達ルート確保性
印旛古代4氏族は上総拠点群の協力あるいは許可を受けて、順に東京湾を反時計回りで都川→花見川→太日川と向い、その上流に存在する天然の地峡を船越として利用し、それぞれ香取の海に入ったと考えます。
香取の海に入った古代氏族は東京湾の上総拠点群との交流や西日本に存在する「本国」との連絡をとる上でも印旛到達ルートを占有的に確保したと考えます。
詳しく情報を精査すれば、印旛到達ルート上にそこを通過した古代氏族の痕跡が見つかる可能性があると考えます。
なお、埴生神社を祀る古代氏族と麻賀多神社を祀る古代氏族は同じ印旛到達ルートを共有するのですからある程度親和的な関係にあったと考えます。
5 養老川と村田川から太平洋岸に通じる開拓ルート
印旛古代4氏族とどの程度関係するか、まだイメージできませんが、古代における流域を超える水運移動ルートとして、養老川-船越-一宮川ルート、村田川-船越-南白亀川ルートが存在していたと考えます。
古代では現在の九十九里平野が湿地と水面で構成されていて、水運路として利用されていたと考えます。
このルートを経由して香取の海に至るルートも存在していたと考えます。
養老川と村田川から太平洋岸に通じる開拓ルート(想像)
2015年10月28日水曜日
2015.10.28 今朝の花見川
連日花見川の素晴らしい早朝風景を堪能しています。
数日前はカメラを持つ手がかじかみましたが、今朝は気温が高く、羽織っていた上着を途中で脱ぎました。
風景写真は無意識的に青空を流れる雲をメインテーマにしています。
今朝程度の雲量が花見川風景を最高に引き立てます。
日の出前の発電パネル
満月
花見川風景
花見川風景
花見川風景
花見川風景
弁天橋から下流
弁天橋から上流
あと3週間くらい後には秋の花見川風景が、葉が全部枯れ、落ちて、冬の風景に変わります。
数日前はカメラを持つ手がかじかみましたが、今朝は気温が高く、羽織っていた上着を途中で脱ぎました。
風景写真は無意識的に青空を流れる雲をメインテーマにしています。
今朝程度の雲量が花見川風景を最高に引き立てます。
日の出前の発電パネル
満月
花見川風景
花見川風景
花見川風景
花見川風景
弁天橋から下流
弁天橋から上流
あと3週間くらい後には秋の花見川風景が、葉が全部枯れ、落ちて、冬の風景に変わります。
2015年10月27日火曜日
参考メモ 古代氏族の印旛への到達経路
花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.232 参考メモ 古代氏族の印旛への到達経路
2015.10.26記事「鳴神山遺跡と宗像神社の関係」で印旛の古墳時代の古代氏族に関連した検討をしました。
この時参考にした論文、小倉博「印旛沼の神社と古代氏族」(1994、印旛沼-自然と文化創刊号)に次のような記述がありました。
鳥見神社を祀った氏族について、「物部小事の子孫または一族が、太平洋から利根川を遡って印旛郡にも進出し、居住地に祖神を祀ったのが鳥見神社ではないだろうか。」と記述しています。
鳥見神社を祀った古代氏族の印旛到達経路として房総半島を大回りして利根川を遡ってきたという考えが述べられています。
他の3古代氏族の印旛到達経路に関しての記述はありません。
鳥見神社を祀った古代氏族の印旛到達経路として房総半島を大回りして利根川を遡ってきたという考えには賛同できませんので、メモしておきます。
航海技術や造船技術が限られていた古墳時代にあって、また中継点となる拠点がない最初の進出にあって房総半島を大回りして利根川を遡って印旛に到達するということは他の3氏族も含めて無かったと考えます。
古代氏族の印旛への2つの到達経路(想像)
印旛への到達は東京湾から東京湾と香取の海を結ぶ自然の地峡(船越)を経由したものであったと考えます。
古代氏族の印旛への到達経路(想像)
ここで船越という言葉は「船を担いで越す」のではなく、「船を乗りついで越す」という意味で使っています。
古代水運は水路-船越-水路-船越という繰り返しだったと考えます。
参考 これまでの検討紹介
2014.12.06記事「駅家と津と船越」参照
東京湾と香取の海の水運路を結ぶ3つの船越
都川-鹿島川船越は古墳時代以前と奈良時代では場所が変化したと考えています。
【検討】香取の海の水運網イメージ(奈良時代前~中期)
2015.10.26記事「鳴神山遺跡と宗像神社の関係」で印旛の古墳時代の古代氏族に関連した検討をしました。
この時参考にした論文、小倉博「印旛沼の神社と古代氏族」(1994、印旛沼-自然と文化創刊号)に次のような記述がありました。
鳥見神社を祀った氏族について、「物部小事の子孫または一族が、太平洋から利根川を遡って印旛郡にも進出し、居住地に祖神を祀ったのが鳥見神社ではないだろうか。」と記述しています。
鳥見神社を祀った古代氏族の印旛到達経路として房総半島を大回りして利根川を遡ってきたという考えが述べられています。
他の3古代氏族の印旛到達経路に関しての記述はありません。
鳥見神社を祀った古代氏族の印旛到達経路として房総半島を大回りして利根川を遡ってきたという考えには賛同できませんので、メモしておきます。
航海技術や造船技術が限られていた古墳時代にあって、また中継点となる拠点がない最初の進出にあって房総半島を大回りして利根川を遡って印旛に到達するということは他の3氏族も含めて無かったと考えます。
古代氏族の印旛への2つの到達経路(想像)
印旛への到達は東京湾から東京湾と香取の海を結ぶ自然の地峡(船越)を経由したものであったと考えます。
古代氏族の印旛への到達経路(想像)
ここで船越という言葉は「船を担いで越す」のではなく、「船を乗りついで越す」という意味で使っています。
古代水運は水路-船越-水路-船越という繰り返しだったと考えます。
参考 これまでの検討紹介
2014.12.06記事「駅家と津と船越」参照
東京湾と香取の海の水運路を結ぶ3つの船越
都川-鹿島川船越は古墳時代以前と奈良時代では場所が変化したと考えています。
【検討】香取の海の水運網イメージ(奈良時代前~中期)
2015年10月26日月曜日
鳴神山遺跡と宗像神社の関係
花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.231 鳴神山遺跡と宗像神社の関係
先日鳴神山遺跡付近を通行している時、宗像神社の案内看板を見かけました。
鳴神山遺跡がある印旛浦北岸一帯は宗像神社が13社集中して存在していて、各社それぞれが現在の福岡県宗像市の宗像大社からの勧請と伝えられています。13社もの宗像神社が集中して祀られているのは、本社のある福岡県はもとより、全国にも例を見ないもので、この地の宗像神社圏は特異な存在となっているそうです。(小倉博「印旛沼の神社と古代氏族」(1994、印旛沼-自然と文化創刊号)による)
宗像神社の看板を見ながら、この宗像神社を祀った最初の氏族と鳴神山遺跡で墨書土器を書いた人々の関係を検討しなければ鳴神山遺跡についての検討は大いに片手落ちになることに気が付きました。
小倉博「印旛沼の神社と古代氏族」(1994、印旛沼-自然と文化創刊号)では次の神社分布図を掲げ、埴生(はぶ)神社、麻賀多(まかた)神社、宗像(むなかた)神社、鳥見(とりみ)神社がそれぞれ分布し、4つの神社圏がお互いの圏域に入り組むことなく、きれいに区分されることを示し、4つの神社圏は古代氏族の勢力圏をあらわしているのではないだろうかと考えています。
印旛沼周辺の神社分布図
小倉博「印旛沼の神社と古代氏族」(1994、印旛沼-自然と文化創刊号)から引用
「宗像十三社」の祭神は、田心姫(たごりひめ)神、湍津姫(たぎつひめ)神、市杵島姫(いちきしまひめ)神のいわゆる宗像三女神です。
小倉博「印旛沼の神社と古代氏族」(1994、印旛沼-自然と文化創刊号)では、印波初代国造の伊都許利(いつこり)命の支配のもとで開拓事業に従事した人々のなかに宗像海洋族がいて、そのままの地に定住し、東岸の麻賀多神社とは異質の宗像神社圏を築いたという可能性を論じています。
さらに、当時の印旛沼はそれこそ大海であり、沼を行き来するのに航海技術に優れた宗像海洋族の力が必要だったのであり、この地の宗像神社13社は、すべて沼またはそれに注ぐ師戸川・神崎川など小河川に沿って鎮座していることも見逃せないと言及しています。
この論文に基づくと、宗像神社を祀った航海技術にたけた氏族は古墳時代にはこの地に定住していて、その後鳴神山遺跡の時代(8世紀、9世紀)を経て現在まで神社を祀る人は途絶えていないということです。
鳴神山遺跡の時代には既に宗像神社が存在していて、宗像神社を祀る住民が存在していたということになります。
このブログでは、これまで鳴神山遺跡の墨書土器文字の検討から次のような神に関する検討を行いました。
2015.10.15記事「鳴神山遺跡の墨書土器「大」は大国主神と推定する」参照
鳴神山遺跡出土墨書土器で出現する大国主神と大物主神
以上の情報を重ねると、信仰の対称としての祭神は次のように異なることが判明します。
●古墳時代から祀られる宗像13社の祭神…田心姫(たごりひめ)神、湍津姫(たぎつひめ)神、市杵島姫(いちきしまひめ)神
●鳴神山遺跡の墨書土器に出現した祭神…国玉神・大国玉(=大国主神)、久弥良(=クビラ(金毘羅)=大物主神)
この情報から次のような推論ができます。
・鳴神山遺跡は8世紀、9世紀に新規軍事兵站基地として開発され、全国から人員が集められたと考えます。
・基地支配層の祭神が国玉神・大国玉(=大国主神)であることから、(近隣の埴生神社、麻賀多神社、宗像神社、鳥見神社の祭神と異なることから)、基地支配層も律令国家により配置された転勤族であったと考えます。
・基地要員(住民)の祭神は第1位が国玉神・大国玉(=大国主神)であり、第2位が久弥良(=クビラ(金毘羅)=大物主神)でした。
・久弥良(=クビラ(金毘羅)=大物主神)を祭神とする集団は金毘羅信仰集団であり、水運に従事し、その後現代にまで金毘羅信仰が伝わっています。
・鳴神山遺跡周辺にもともと居住していた住民は宗像神社を祀り、鳴神山遺跡(軍事兵站基地)とは別空間で生活が展開していました。
・宗像神社を祀る旧住民と鳴神山遺跡(軍事兵站基地)の新住民は共存していたということになります。
・宗像神社を祀る旧住民も鳴神山遺跡(軍事兵站基地)の活動に組み込まれていたと想像します。
・軍事水運活動は旧宗像海洋族が主導し、新金毘羅信仰集団がその指導の下で働いていたのかもしれません。
(宗像神社と金比羅神社の立地位置からその力関係-上下関係と、立地の時間的前後関係を類推できますので、後日別記事で検討します。)
参考 神社分布と鳴神山遺跡との位置関係
先日鳴神山遺跡付近を通行している時、宗像神社の案内看板を見かけました。
鳴神山遺跡がある印旛浦北岸一帯は宗像神社が13社集中して存在していて、各社それぞれが現在の福岡県宗像市の宗像大社からの勧請と伝えられています。13社もの宗像神社が集中して祀られているのは、本社のある福岡県はもとより、全国にも例を見ないもので、この地の宗像神社圏は特異な存在となっているそうです。(小倉博「印旛沼の神社と古代氏族」(1994、印旛沼-自然と文化創刊号)による)
宗像神社の看板を見ながら、この宗像神社を祀った最初の氏族と鳴神山遺跡で墨書土器を書いた人々の関係を検討しなければ鳴神山遺跡についての検討は大いに片手落ちになることに気が付きました。
小倉博「印旛沼の神社と古代氏族」(1994、印旛沼-自然と文化創刊号)では次の神社分布図を掲げ、埴生(はぶ)神社、麻賀多(まかた)神社、宗像(むなかた)神社、鳥見(とりみ)神社がそれぞれ分布し、4つの神社圏がお互いの圏域に入り組むことなく、きれいに区分されることを示し、4つの神社圏は古代氏族の勢力圏をあらわしているのではないだろうかと考えています。
印旛沼周辺の神社分布図
小倉博「印旛沼の神社と古代氏族」(1994、印旛沼-自然と文化創刊号)から引用
「宗像十三社」の祭神は、田心姫(たごりひめ)神、湍津姫(たぎつひめ)神、市杵島姫(いちきしまひめ)神のいわゆる宗像三女神です。
小倉博「印旛沼の神社と古代氏族」(1994、印旛沼-自然と文化創刊号)では、印波初代国造の伊都許利(いつこり)命の支配のもとで開拓事業に従事した人々のなかに宗像海洋族がいて、そのままの地に定住し、東岸の麻賀多神社とは異質の宗像神社圏を築いたという可能性を論じています。
さらに、当時の印旛沼はそれこそ大海であり、沼を行き来するのに航海技術に優れた宗像海洋族の力が必要だったのであり、この地の宗像神社13社は、すべて沼またはそれに注ぐ師戸川・神崎川など小河川に沿って鎮座していることも見逃せないと言及しています。
この論文に基づくと、宗像神社を祀った航海技術にたけた氏族は古墳時代にはこの地に定住していて、その後鳴神山遺跡の時代(8世紀、9世紀)を経て現在まで神社を祀る人は途絶えていないということです。
鳴神山遺跡の時代には既に宗像神社が存在していて、宗像神社を祀る住民が存在していたということになります。
このブログでは、これまで鳴神山遺跡の墨書土器文字の検討から次のような神に関する検討を行いました。
2015.10.15記事「鳴神山遺跡の墨書土器「大」は大国主神と推定する」参照
鳴神山遺跡出土墨書土器で出現する大国主神と大物主神
以上の情報を重ねると、信仰の対称としての祭神は次のように異なることが判明します。
●古墳時代から祀られる宗像13社の祭神…田心姫(たごりひめ)神、湍津姫(たぎつひめ)神、市杵島姫(いちきしまひめ)神
●鳴神山遺跡の墨書土器に出現した祭神…国玉神・大国玉(=大国主神)、久弥良(=クビラ(金毘羅)=大物主神)
この情報から次のような推論ができます。
・鳴神山遺跡は8世紀、9世紀に新規軍事兵站基地として開発され、全国から人員が集められたと考えます。
・基地支配層の祭神が国玉神・大国玉(=大国主神)であることから、(近隣の埴生神社、麻賀多神社、宗像神社、鳥見神社の祭神と異なることから)、基地支配層も律令国家により配置された転勤族であったと考えます。
・基地要員(住民)の祭神は第1位が国玉神・大国玉(=大国主神)であり、第2位が久弥良(=クビラ(金毘羅)=大物主神)でした。
・久弥良(=クビラ(金毘羅)=大物主神)を祭神とする集団は金毘羅信仰集団であり、水運に従事し、その後現代にまで金毘羅信仰が伝わっています。
・鳴神山遺跡周辺にもともと居住していた住民は宗像神社を祀り、鳴神山遺跡(軍事兵站基地)とは別空間で生活が展開していました。
・宗像神社を祀る旧住民と鳴神山遺跡(軍事兵站基地)の新住民は共存していたということになります。
・宗像神社を祀る旧住民も鳴神山遺跡(軍事兵站基地)の活動に組み込まれていたと想像します。
・軍事水運活動は旧宗像海洋族が主導し、新金毘羅信仰集団がその指導の下で働いていたのかもしれません。
(宗像神社と金比羅神社の立地位置からその力関係-上下関係と、立地の時間的前後関係を類推できますので、後日別記事で検討します。)
参考 神社分布と鳴神山遺跡との位置関係
2015年10月25日日曜日
墨書文字「久弥良」と金毘羅信仰
花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.230 墨書文字「久弥良」と金毘羅信仰
墨書文字「久弥良」について幾つかの推論を検討します。
1 推論1 墨書文字「久弥良」は金毘羅信仰集団の祈願語である
「久」「久弥」は「久弥良」の略称形であり、「久弥良」はクビラと読み宮毘羅・倶毘羅であり金毘羅(こんぴら)であると考えました。
2015.10.14記事「鳴神山遺跡の墨書文字「久弥良」はクビラ(金毘羅)と推定する」参照
「久弥良」(クビラ(金比羅))を祈願語とするということは、その集団が金比羅信仰を持っていた集団であると考えます。
金比羅信仰をwebで調べると金比羅信仰の由来時期は大宝年間(701年~704年)にあるようです。
……………………………………………………………………
参考
金比羅権現
由来
象頭山松尾寺の縁起によれば、大宝年間に修験道の役小角(神変大菩薩)が象頭山に登った際に天竺毘比羅霊鷲山(象頭山)に住する護法善神金毘羅(宮比羅、クンビーラ)の神験に遭ったのが開山の由来との伝承から、これが象頭山金毘羅大権現になったとされる。象頭山金毘羅大権現は、不動明王を本地仏とした。
クンビーラ(マカラ)は元来、ガンジス川に棲む鰐を神格化した水神で、日本では蛇型とされる。クンビーラ(マカラ)はガンジス川を司る女神ガンガーのヴァーハナ(乗り物)でもあることから、金毘羅権現は海上交通の守り神として信仰されてきた。特に舟乗りから信仰され、一般に大きな港を見下ろす山の上で金毘羅宮、金毘羅権現社が全国各地に建てられ、金毘羅権現は祀られていた。
Wikipediaから引用
……………………………………………………………………
金比羅信仰の始まりが8世紀初頭であるとすることが正しいとすると、墨書土器「久」「久弥」「久弥良」との時間的関係が気になります。
そこで、墨書土器「久」「久弥」「久弥良」が出土した遺構の年代を調べてみました。
「久」「久弥」「久弥良」出土遺構の年代
「久」「久弥」「久弥良」出土遺構の年代はほとんどが9世紀第1四半期あるいは第2四半期から始まり、第3四半期あるいは第4四半期までのものです。
この結果から、金毘羅信仰が始まってから約100年後に下総国印旛郡の鳴神山遺跡に金毘羅信仰が伝わったと仮定することが可能です。
白幡前遺跡では則天文字(一の下に生を書いた文字など)が墨書土器文字として出土しています。則天文字は武則天が皇位に就いていた15年間(690年 - 705年)に使われたものでその起源が明確な文字です。
中国で7世紀末から8世紀初めに初めて使われ出した則天文字が、8世紀中葉頃~9世紀の白幡前遺跡遺構から出土するという情報伝播速度を参考にすると、金比羅信仰が四国で始まってから100年後に下総に伝播するということは何ら不思議なことではないと考えることができます。
則天文字といい金毘羅信仰といい、最新文化情報は数十年あれば国際的、国内的に隅々にまで伝播して流行したに相違ありません。
最新流行の生れたて金毘羅信仰が鳴神山遺跡に伝わり根付いたと考えます。
2 推論2 墨書文字「久弥良」集団の使命は水上輸送活動であった
金比羅信仰は水上交通従事者の信仰です。
このブログでは花見川-平戸川(新川)筋が東海道水運支路であるという仮説を持っていますが、金毘羅信仰がこの東海道水運支路沿いに存在するということは、双方の仮説の確からしさを高めます。
花見川-平戸川(新川)筋が東海道水運支路であり、つまり印旛浦が東海道水運支路であり、蝦夷戦争の重要な軍事水運路であったため、そこに多数の水運関係者が配置されていて、その水運関係者の間で生まれたばかりの金毘羅信仰が流行したと考えることができます。
鳴神山遺跡出土文字の出土点数第2位が「久」「久弥」「久弥良」です。
つまり「久」「久弥」「久弥良」を共通祈願語とする集団が鳴神山遺跡では集団の大きさからみて序列第2位です。(ちなみに、序列第1位は「大」「大加」集団です。)
「久」「久弥」「久弥良」の分布は次のようになり鳴神山遺跡に広く分布します。
文字「久」「久弥」「久弥良」出土分布図
この「久」「久弥」「久弥良」集団が水運(蝦夷戦争の軍事水運)を使命としていたと考えます。
当初は「久」「久弥」「久弥良」集団を水鳥猟集団ではないかと考えましたが、その可能性はゼロとなりました。
遺跡の北側にも分布が拡がっています。この理由に強く興味を持ちます。
印旛浦から支谷津を通ってさらに船越を越え利根川(手賀沼)に抜ける輸送に従事した関係者の可能性を感じるからです。
その輸送はどれだけ水運であったかは不明ですが、たとえほとんどが陸運であったとしても、広義の水運関係者(輸送関係者)であり、金毘羅信仰を持っていて当然です。
3 推論3 墨書文字「久弥良」の金比羅信仰が現代にまで続いている
さて、別件興味で「印旛沼 自然と文化 創刊号」(1994.11、財団法人印旛沼環境基金)をペラペラめくっていると、次の論文が目に止まりました。
「印旛沼漁猟と金比羅信仰」(榎本正三)
近世から現代にかけての印旛沼及び周辺地域の金毘羅信仰について詳しく記述しています。
印旛沼に金毘羅信仰があることをはじめて知りました。
この論文に掲載されている金比羅信仰の場所を次に示します。
下利根川流域地方の金比羅信仰のあかし(含印旛沼)
榎本正三著「印旛沼漁猟と金比羅信仰」(1994.11、印旛沼自然と文化創刊号、財団法人印旛沼環境基金)から引用、加筆
近世以降の金比羅信仰は舟運関係者を中心に漁民や水上生活者から絶対的な信仰を集めて、現代に至っているとされています。
現代に続く舟運関係者をメインとする印旛沼金毘羅信仰の始源は鳴神山遺跡の墨書土器「久」「久弥」「久弥良」集団の金毘羅信仰にある可能性が濃厚です。
近世の利根川水系水運の幹線水運路から外れた印旛浦に金毘羅信仰が分布していること自体が、その歴史が近世以前に遡ることを暗示しています。
墨書文字「久弥良」について幾つかの推論を検討します。
1 推論1 墨書文字「久弥良」は金毘羅信仰集団の祈願語である
「久」「久弥」は「久弥良」の略称形であり、「久弥良」はクビラと読み宮毘羅・倶毘羅であり金毘羅(こんぴら)であると考えました。
2015.10.14記事「鳴神山遺跡の墨書文字「久弥良」はクビラ(金毘羅)と推定する」参照
「久弥良」(クビラ(金比羅))を祈願語とするということは、その集団が金比羅信仰を持っていた集団であると考えます。
金比羅信仰をwebで調べると金比羅信仰の由来時期は大宝年間(701年~704年)にあるようです。
……………………………………………………………………
参考
金比羅権現
由来
象頭山松尾寺の縁起によれば、大宝年間に修験道の役小角(神変大菩薩)が象頭山に登った際に天竺毘比羅霊鷲山(象頭山)に住する護法善神金毘羅(宮比羅、クンビーラ)の神験に遭ったのが開山の由来との伝承から、これが象頭山金毘羅大権現になったとされる。象頭山金毘羅大権現は、不動明王を本地仏とした。
クンビーラ(マカラ)は元来、ガンジス川に棲む鰐を神格化した水神で、日本では蛇型とされる。クンビーラ(マカラ)はガンジス川を司る女神ガンガーのヴァーハナ(乗り物)でもあることから、金毘羅権現は海上交通の守り神として信仰されてきた。特に舟乗りから信仰され、一般に大きな港を見下ろす山の上で金毘羅宮、金毘羅権現社が全国各地に建てられ、金毘羅権現は祀られていた。
Wikipediaから引用
……………………………………………………………………
金比羅信仰の始まりが8世紀初頭であるとすることが正しいとすると、墨書土器「久」「久弥」「久弥良」との時間的関係が気になります。
そこで、墨書土器「久」「久弥」「久弥良」が出土した遺構の年代を調べてみました。
「久」「久弥」「久弥良」出土遺構の年代
「久」「久弥」「久弥良」出土遺構の年代はほとんどが9世紀第1四半期あるいは第2四半期から始まり、第3四半期あるいは第4四半期までのものです。
この結果から、金毘羅信仰が始まってから約100年後に下総国印旛郡の鳴神山遺跡に金毘羅信仰が伝わったと仮定することが可能です。
白幡前遺跡では則天文字(一の下に生を書いた文字など)が墨書土器文字として出土しています。則天文字は武則天が皇位に就いていた15年間(690年 - 705年)に使われたものでその起源が明確な文字です。
中国で7世紀末から8世紀初めに初めて使われ出した則天文字が、8世紀中葉頃~9世紀の白幡前遺跡遺構から出土するという情報伝播速度を参考にすると、金比羅信仰が四国で始まってから100年後に下総に伝播するということは何ら不思議なことではないと考えることができます。
則天文字といい金毘羅信仰といい、最新文化情報は数十年あれば国際的、国内的に隅々にまで伝播して流行したに相違ありません。
最新流行の生れたて金毘羅信仰が鳴神山遺跡に伝わり根付いたと考えます。
2 推論2 墨書文字「久弥良」集団の使命は水上輸送活動であった
金比羅信仰は水上交通従事者の信仰です。
このブログでは花見川-平戸川(新川)筋が東海道水運支路であるという仮説を持っていますが、金毘羅信仰がこの東海道水運支路沿いに存在するということは、双方の仮説の確からしさを高めます。
花見川-平戸川(新川)筋が東海道水運支路であり、つまり印旛浦が東海道水運支路であり、蝦夷戦争の重要な軍事水運路であったため、そこに多数の水運関係者が配置されていて、その水運関係者の間で生まれたばかりの金毘羅信仰が流行したと考えることができます。
鳴神山遺跡出土文字の出土点数第2位が「久」「久弥」「久弥良」です。
つまり「久」「久弥」「久弥良」を共通祈願語とする集団が鳴神山遺跡では集団の大きさからみて序列第2位です。(ちなみに、序列第1位は「大」「大加」集団です。)
「久」「久弥」「久弥良」の分布は次のようになり鳴神山遺跡に広く分布します。
文字「久」「久弥」「久弥良」出土分布図
この「久」「久弥」「久弥良」集団が水運(蝦夷戦争の軍事水運)を使命としていたと考えます。
当初は「久」「久弥」「久弥良」集団を水鳥猟集団ではないかと考えましたが、その可能性はゼロとなりました。
遺跡の北側にも分布が拡がっています。この理由に強く興味を持ちます。
印旛浦から支谷津を通ってさらに船越を越え利根川(手賀沼)に抜ける輸送に従事した関係者の可能性を感じるからです。
その輸送はどれだけ水運であったかは不明ですが、たとえほとんどが陸運であったとしても、広義の水運関係者(輸送関係者)であり、金毘羅信仰を持っていて当然です。
3 推論3 墨書文字「久弥良」の金比羅信仰が現代にまで続いている
さて、別件興味で「印旛沼 自然と文化 創刊号」(1994.11、財団法人印旛沼環境基金)をペラペラめくっていると、次の論文が目に止まりました。
「印旛沼漁猟と金比羅信仰」(榎本正三)
近世から現代にかけての印旛沼及び周辺地域の金毘羅信仰について詳しく記述しています。
印旛沼に金毘羅信仰があることをはじめて知りました。
この論文に掲載されている金比羅信仰の場所を次に示します。
下利根川流域地方の金比羅信仰のあかし(含印旛沼)
榎本正三著「印旛沼漁猟と金比羅信仰」(1994.11、印旛沼自然と文化創刊号、財団法人印旛沼環境基金)から引用、加筆
近世以降の金比羅信仰は舟運関係者を中心に漁民や水上生活者から絶対的な信仰を集めて、現代に至っているとされています。
現代に続く舟運関係者をメインとする印旛沼金毘羅信仰の始源は鳴神山遺跡の墨書土器「久」「久弥」「久弥良」集団の金毘羅信仰にある可能性が濃厚です。
近世の利根川水系水運の幹線水運路から外れた印旛浦に金毘羅信仰が分布していること自体が、その歴史が近世以前に遡ることを暗示しています。
2015年10月23日金曜日
鳴神山遺跡の墨書文字「寺」「佛」の分布
花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.229 鳴神山遺跡の墨書文字「寺」「佛」の分布
鳴神山遺跡出土の墨書文字「寺」「佛」の分布を示します。
文字「寺」「佛」出土分布
寺院名「波田寺」「播寺」が出土しています。「播寺」が出土した遺構からは「寺ヵ」が2点出土しています。
「波田寺」「播寺」とも祈願語であり、「波田寺」「播寺」の発展を祈願したのだと思います。祈願した人は寺関係者ということになります。
祈願した先は佛であったと考えますが、神だった可能性もあると思います。
「波田寺」「播寺」が近接して出土しているので、近くの掘立柱建物群に寺院が存在した可能性を感じます。
場合によってはその場所の掘立柱建物群全体が寺院とその関連建物かもしれません。
なお、「波田寺」と「播寺」は同じ寺院を意味していると考えます。
しかし、「播寺」は「ハタデラ」あるいは「ハタテラ」とは読めません。読むとすれば「ハデラ」、「バンデラ」となります。
恐らく「幡寺」と書くべきところを、筆を持った手が「播寺」と書いたのだと思います。「幡」と「播」は字形も読みも似ているので、そうなったのだと思います。無意識的勘違いです。
全く同じ勘違いが、この墨書土器を発掘調査した現代専門家にもあることは、勘違い説の根拠として大変参考になる情報です。
「波田寺」も「播寺」も音声表記では「はたてら」であり、同一のものを表記していると考えられる。」
「千葉ニュータウン埋蔵文化財調査報告書 XIV -印西市鳴神山遺跡Ⅲ・白井谷奥遺跡-」(平成12年3月、都市基盤整備公団千葉地域支社千葉ニュータウン事業本部・財団法人千葉県文化財センター)より引用。
なお、「波田寺」も「播寺」も音声表記では「はたてら」であり、同一のものを表記していると考えられる。」という記述に接した時、私自身も違和感をもつことは全くなく、その通りだと思いました。
古代人も現代人も漢字に関して、共通の勘違いをするという実例としても興味が湧きます。
なお、今後次の視点で「ハタデラ」の興味を深めていくつもりです。
●「ハタデラ」と小字「白幡」との関係
古墳時代の渡来人の活動を示すと考える地名「白幡」のハタと「ハタデラ」のハタは同じです。ここからどのような情報を引き出すことができるか、今後の楽しみです。
●「ハタデラ」の空間的位置
印旛浦舟運のミナト(西根遺跡)を表とすると、「ハタデラ」は最も奥に位置しています。
白幡前遺跡でも周溝を巡らした寺院は同じような空間的位置にありました。
このような遺跡全体構造で「ハタデラ」を捉えてよいのかどうか、検討の価値があると考えています。
場合によっては「ハタデラ」は奥にあるのではなく、手賀沼や利根川方面から見て表(前)にあるという関係があるように感じるからです。
もし奥なら、遺跡の西にあるべきであり、遺跡の北にあるということは手賀沼や利根川方面とつながりを持っているからかもしれないと推測します。
鳴神山遺跡出土の墨書文字「寺」「佛」の分布を示します。
文字「寺」「佛」出土分布
寺院名「波田寺」「播寺」が出土しています。「播寺」が出土した遺構からは「寺ヵ」が2点出土しています。
「波田寺」「播寺」とも祈願語であり、「波田寺」「播寺」の発展を祈願したのだと思います。祈願した人は寺関係者ということになります。
祈願した先は佛であったと考えますが、神だった可能性もあると思います。
「波田寺」「播寺」が近接して出土しているので、近くの掘立柱建物群に寺院が存在した可能性を感じます。
場合によってはその場所の掘立柱建物群全体が寺院とその関連建物かもしれません。
なお、「波田寺」と「播寺」は同じ寺院を意味していると考えます。
しかし、「播寺」は「ハタデラ」あるいは「ハタテラ」とは読めません。読むとすれば「ハデラ」、「バンデラ」となります。
恐らく「幡寺」と書くべきところを、筆を持った手が「播寺」と書いたのだと思います。「幡」と「播」は字形も読みも似ているので、そうなったのだと思います。無意識的勘違いです。
全く同じ勘違いが、この墨書土器を発掘調査した現代専門家にもあることは、勘違い説の根拠として大変参考になる情報です。
「波田寺」も「播寺」も音声表記では「はたてら」であり、同一のものを表記していると考えられる。」
「千葉ニュータウン埋蔵文化財調査報告書 XIV -印西市鳴神山遺跡Ⅲ・白井谷奥遺跡-」(平成12年3月、都市基盤整備公団千葉地域支社千葉ニュータウン事業本部・財団法人千葉県文化財センター)より引用。
なお、「波田寺」も「播寺」も音声表記では「はたてら」であり、同一のものを表記していると考えられる。」という記述に接した時、私自身も違和感をもつことは全くなく、その通りだと思いました。
古代人も現代人も漢字に関して、共通の勘違いをするという実例としても興味が湧きます。
なお、今後次の視点で「ハタデラ」の興味を深めていくつもりです。
●「ハタデラ」と小字「白幡」との関係
古墳時代の渡来人の活動を示すと考える地名「白幡」のハタと「ハタデラ」のハタは同じです。ここからどのような情報を引き出すことができるか、今後の楽しみです。
●「ハタデラ」の空間的位置
印旛浦舟運のミナト(西根遺跡)を表とすると、「ハタデラ」は最も奥に位置しています。
白幡前遺跡でも周溝を巡らした寺院は同じような空間的位置にありました。
このような遺跡全体構造で「ハタデラ」を捉えてよいのかどうか、検討の価値があると考えています。
場合によっては「ハタデラ」は奥にあるのではなく、手賀沼や利根川方面から見て表(前)にあるという関係があるように感じるからです。
もし奥なら、遺跡の西にあるべきであり、遺跡の北にあるということは手賀沼や利根川方面とつながりを持っているからかもしれないと推測します。
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