2015年10月29日木曜日

参考メモ 房総古代の開拓に関する空間大局観

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.233 参考メモ 房総古代の開拓に関する空間大局観

2015.10.27記事「参考メモ 古代氏族の印旛への到達経路」のつづき記事です。

鳴神山遺跡の検討から時間的空間的に離れてしまいましたが、自分の古代認識(イメージ)を深められますので、印旛古代4氏族の印旛到達経路についてさらに検討(想像)してみました。

1 印旛古代4氏族が印旛に到達する前の房総の状況
次の図は古代氏族が印旛に到達した時代より以前の房総の様子を想像するための思考刺激図です。

古代氏族が印旛に到達した時代より以前の房総の様子を想像するための思考刺激図

この思考刺激図から刺激を受けて、次のような想像が発生しました。

●東国を開拓するために西日本からやってきた古代氏族群が上総の小糸川流域、小櫃川流域、養老川流域、村田川流域の各下流の適地を次々に開拓して拠点として確立していったと考えます。
●その際の開拓の順番は西日本から近い順に、つまり南から北に向かって小糸川流域→小櫃川流域→養老川流域→村田川流域であったと考えます。
●上総の拠点群は東京湾をその影響圏に治めたと考えます。
(以上古墳時代遺跡ヒートマップから想像)

●また、上総から香取の海に通じる交通路は都川-船越-鹿島川水運路とそれに対応する陸路(つまり後の東海道本路)が上総拠点群が成立した頃にはすでに存在していたと考えます。
(以上初期東海道駅路網から想像)

2 印旛古代4氏族と上総国既存拠点群とのかかわり
印旛に到達した古代4氏族は1のような房総における状況が既に存在している中で、西日本の本国を出発して、東京湾を通って印旛に到達したと考えます。

ですから、印旛古代4氏族は必ずや上総既存拠点群と接触交渉を持った上で印旛に向かったと考えざるを得ません。

上総既存拠点群と関わり無しに東京湾を通航することは不可能であったと考えます。

いわんや、印旛に入るにあたって船越の手前で船を捨て、船越を越してから新たに船をつくるなど一筋縄ではいかない、長期間を要する移動ですから、上総既存拠点群の協力なしには、あるいは許可なしには新天地印旛までたどり着け無かったと考えます。

3 印旛古代4氏族の印旛到達ルートと順番

上総拠点群の開拓順番を西日本から近い順に小糸川流域→小櫃川流域→養老川流域→村田川流域と想像しましたが、同じ理由で次のような印旛到達ルートと順番であることを想像します。

印旛古代4氏族の印旛到達ルートと順番

順番1 埴生神社を祀る古代氏族
都川-鹿島川船越ルート

順番2 麻賀多神社を祀る古代氏族
都川-鹿島川船越ルート

順番3 宗像神社を祀る古代氏族
花見川-平戸川船越ルート

順番4 鳥見神社を祀る氏族
太日川-手賀沼船越ルート

4 印旛古代4氏族の到達ルート確保性

印旛古代4氏族は上総拠点群の協力あるいは許可を受けて、順に東京湾を反時計回りで都川→花見川→太日川と向い、その上流に存在する天然の地峡を船越として利用し、それぞれ香取の海に入ったと考えます。

香取の海に入った古代氏族は東京湾の上総拠点群との交流や西日本に存在する「本国」との連絡をとる上でも印旛到達ルートを占有的に確保したと考えます。

詳しく情報を精査すれば、印旛到達ルート上にそこを通過した古代氏族の痕跡が見つかる可能性があると考えます。

なお、埴生神社を祀る古代氏族と麻賀多神社を祀る古代氏族は同じ印旛到達ルートを共有するのですからある程度親和的な関係にあったと考えます。

5 養老川と村田川から太平洋岸に通じる開拓ルート
印旛古代4氏族とどの程度関係するか、まだイメージできませんが、古代における流域を超える水運移動ルートとして、養老川-船越-一宮川ルート、村田川-船越-南白亀川ルートが存在していたと考えます。
古代では現在の九十九里平野が湿地と水面で構成されていて、水運路として利用されていたと考えます。

このルートを経由して香取の海に至るルートも存在していたと考えます。

養老川と村田川から太平洋岸に通じる開拓ルート(想像)

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