先日鳴神山遺跡付近を通行している時、宗像神社の案内看板を見かけました。
鳴神山遺跡がある印旛浦北岸一帯は宗像神社が13社集中して存在していて、各社それぞれが現在の福岡県宗像市の宗像大社からの勧請と伝えられています。13社もの宗像神社が集中して祀られているのは、本社のある福岡県はもとより、全国にも例を見ないもので、この地の宗像神社圏は特異な存在となっているそうです。(小倉博「印旛沼の神社と古代氏族」(1994、印旛沼-自然と文化創刊号)による)
宗像神社の看板を見ながら、この宗像神社を祀った最初の氏族と鳴神山遺跡で墨書土器を書いた人々の関係を検討しなければ鳴神山遺跡についての検討は大いに片手落ちになることに気が付きました。
小倉博「印旛沼の神社と古代氏族」(1994、印旛沼-自然と文化創刊号)では次の神社分布図を掲げ、埴生(はぶ)神社、麻賀多(まかた)神社、宗像(むなかた)神社、鳥見(とりみ)神社がそれぞれ分布し、4つの神社圏がお互いの圏域に入り組むことなく、きれいに区分されることを示し、4つの神社圏は古代氏族の勢力圏をあらわしているのではないだろうかと考えています。
印旛沼周辺の神社分布図
小倉博「印旛沼の神社と古代氏族」(1994、印旛沼-自然と文化創刊号)から引用
「宗像十三社」の祭神は、田心姫(たごりひめ)神、湍津姫(たぎつひめ)神、市杵島姫(いちきしまひめ)神のいわゆる宗像三女神です。
小倉博「印旛沼の神社と古代氏族」(1994、印旛沼-自然と文化創刊号)では、印波初代国造の伊都許利(いつこり)命の支配のもとで開拓事業に従事した人々のなかに宗像海洋族がいて、そのままの地に定住し、東岸の麻賀多神社とは異質の宗像神社圏を築いたという可能性を論じています。
さらに、当時の印旛沼はそれこそ大海であり、沼を行き来するのに航海技術に優れた宗像海洋族の力が必要だったのであり、この地の宗像神社13社は、すべて沼またはそれに注ぐ師戸川・神崎川など小河川に沿って鎮座していることも見逃せないと言及しています。
この論文に基づくと、宗像神社を祀った航海技術にたけた氏族は古墳時代にはこの地に定住していて、その後鳴神山遺跡の時代(8世紀、9世紀)を経て現在まで神社を祀る人は途絶えていないということです。
鳴神山遺跡の時代には既に宗像神社が存在していて、宗像神社を祀る住民が存在していたということになります。
このブログでは、これまで鳴神山遺跡の墨書土器文字の検討から次のような神に関する検討を行いました。
2015.10.15記事「鳴神山遺跡の墨書土器「大」は大国主神と推定する」参照
鳴神山遺跡出土墨書土器で出現する大国主神と大物主神
以上の情報を重ねると、信仰の対称としての祭神は次のように異なることが判明します。
●古墳時代から祀られる宗像13社の祭神…田心姫(たごりひめ)神、湍津姫(たぎつひめ)神、市杵島姫(いちきしまひめ)神
●鳴神山遺跡の墨書土器に出現した祭神…国玉神・大国玉(=大国主神)、久弥良(=クビラ(金毘羅)=大物主神)
この情報から次のような推論ができます。
・鳴神山遺跡は8世紀、9世紀に新規軍事兵站基地として開発され、全国から人員が集められたと考えます。
・基地支配層の祭神が国玉神・大国玉(=大国主神)であることから、(近隣の埴生神社、麻賀多神社、宗像神社、鳥見神社の祭神と異なることから)、基地支配層も律令国家により配置された転勤族であったと考えます。
・基地要員(住民)の祭神は第1位が国玉神・大国玉(=大国主神)であり、第2位が久弥良(=クビラ(金毘羅)=大物主神)でした。
・久弥良(=クビラ(金毘羅)=大物主神)を祭神とする集団は金毘羅信仰集団であり、水運に従事し、その後現代にまで金毘羅信仰が伝わっています。
・鳴神山遺跡周辺にもともと居住していた住民は宗像神社を祀り、鳴神山遺跡(軍事兵站基地)とは別空間で生活が展開していました。
・宗像神社を祀る旧住民と鳴神山遺跡(軍事兵站基地)の新住民は共存していたということになります。
・宗像神社を祀る旧住民も鳴神山遺跡(軍事兵站基地)の活動に組み込まれていたと想像します。
・軍事水運活動は旧宗像海洋族が主導し、新金毘羅信仰集団がその指導の下で働いていたのかもしれません。
(宗像神社と金比羅神社の立地位置からその力関係-上下関係と、立地の時間的前後関係を類推できますので、後日別記事で検討します。)
参考 神社分布と鳴神山遺跡との位置関係
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