2011年4月20日水曜日

遺跡分布に興味を持つ

北高津川流域紀行6 遺跡分布に興味を持つ

            遺跡分布図(基図は地形レリーフ)

            遺跡分布図(基図は地形図)

 以前、埋蔵文化財地図をGISに取り込む記事(「埋蔵文化財地図のGIS取込」)を書きました。この方法により、GISに取り込んだ遺跡分布を北高津川流域について描いてみると、上図のようになり、北高津川両岸台地上の縁部分に、遺跡が川を臨むような形で分布していることがわかりました。北高津川を遺跡が取り囲んでいるように見えます。年代は先土器縄文のものや、奈良平安のものなどですから全て一辺に立地していたわけではありません。しかし、この小さな北高津川流域が、古代人にとって居住に適した場所であったことは確実に言えることだと思います。特に斜面が南向きになる左岸に縄文遺跡が3箇所立地していることから、水の便利(飲料水、舟運)以外にも日当たりが居住の重要な条件であったかもしれないと思いました。
 現在の北高津川の形状からは想像もできないことですが、こんな小さな川と谷が縄文人の生活に役立っていたことは、私にとっては大変興味を刺激されることです。


            現在の北高津川(高津団地内)

 この分布図をみて縄文人の生活について、次のような想像をしました。
1縄文人にとっての北高津川の役割は、飲料水の確保(や炊事洗濯など生活用水利用)がもっとも重要であったに違いない。この地にたどり着いた集団が、他の一等地(平戸川〔現新川〕沿川台地縁など)が既に先人によって利用されているので、二等地、三等地であるが、飲料水の確保ができるこの場所に居住の地を定めたのだろう。

2北高津川に舟を浮かべれば、高津川、平戸川(現新川)経由で印旛沼(海)まで容易に出かけることが出来るので、魚介類採取や交易などの便利が良かったに違いない。

3北高津川での魚介類採取は、河川の規模からして、あまり期待できなかったに違いない。

4北高津川上流に広がる原野(現在の陸上自衛隊演習場やその上流の工業団地付近)は狩猟の場として利用していたに違いない。

5北高津川から平戸川に出て、上流に歩いて古柏井川(現花見川)を遡れば柏井付近で当時の花見川源流に行き着き、花島付近で古幕張湾の最奥部にたどり着き、舟で東京湾に出ることも可能であったに違いない。(「縄文海進時における近隣流域の様子」「堀割普請前の花見川谷頭その1」「堀割普請前の花見川谷頭その2」)なお、印旛沼(海進最盛期は宮内付近まで塩水であったことが確認されている〔「八千代市の歴史 通史編 上」による〕)や東京湾(古幕張湾)は日帰り行動圏であったと考えられる。

            高津川流域の遺跡分布(基図は縄文海進想定図)

 パソコンの中で遺跡地図を自由に操ることができるようになって、遺跡(歴史)について強い興味が湧いてきました。現在の川の姿からは想像もできない役割を川や自然が果たしてきたということが遺跡分布図から判ります。同時に、現代人は、祖先が何万年もの間その恵みを利用してきた川や自然を全て放棄して、利便、快適、安全な都市生活を構築しているということも、強く意識させられます。

 こうした遺跡マップ作成を契機にして、遺跡(歴史)について基礎から学んで、花見川流域の特徴を知りたいと思っています。

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