2011年12月10日土曜日

成田山参詣記の記事訂正と検討

1 記事訂正
まず、記事の訂正です。

成田山参詣記(2011.11.16記事)に次の誤りがありますので訂正し、このブログを見ていただいている方にお詫びします。
パノラマ絵図「印旛沼鑿開趾」の視点場と眺望範囲

パノラマ絵図「印旛沼鑿開趾」の視点場と眺望範囲

(文章)
この眺望範囲の地形分類と絵図を比べると、絵図に盛土と谷壁斜面の地形が、それぞれ意識されて(区分されて)描かれていることが推察できますので、次にその推察を絵図に書き込んでみました。

(文章)
この眺望範囲の地形分類と絵図を比べると、絵図には西岸台地とその上の盛土地形が、描かれています。また、勝田川の河岸段丘と考えられる平坦面のスカイラインが意識されて(他の地形線と区分されて)描かれているように推察できます。次にその推察を絵図に書き込んでみました。

パノラマ絵図「印旛沼鑿開趾」における地形表現

パノラマ絵図「印旛沼鑿開趾」における地形表現

現場で、この視点から、盛土背後の緩斜面を見ることは不可能であることを確認しましたので、上記2つの図版と関連する文章を訂正しました。

2 検討
oryzasan氏のコメント4で次のような指摘を受けました。

この絵図は僕に言わせれば、地形に関しては全くいい加減です。山のように描いてあるのが台地でしょうが、台地の上は平らなはずで、この絵のような山状にはなりません。この絵図は当時の風景画の常套手段で、背景に山、手前に平野を描いて見せたに過ぎません。斜面に刻まれた谷のようなもの、木の高さに対してあまりに高すぎる台地面など、到底現場の忠実なスケッチとは考えられず、まして「盛土と谷壁斜面の地形が、それぞれ意識されて(区分されて)描かれていることが推察」とは見えすぎです。

この指摘について現場で自分なりに感じ、検討したことがありますので報告します。

ア oryzasan氏の指摘は正しい
oryzasan氏の指摘は正しいと思いました。それはこの絵図が、現代技術用語としての「写実的でない」という着眼点に立脚すれば、正しいということです。 確かに写真撮影すれば、このような風景を撮ることはできません。「絵」にならない、のっぺらした風景写真が撮れます。

イ この絵図を見る別の着眼点
この絵図から、当時の絵図作成者が観察したに違いない事実(観察したとき、感じた心理的事実…物理的事実ではなく、心理的事実)を知ろうという「着眼点」に立脚すれば、oryzasan氏とは別の絵図評価になります。

私は、当時の絵図作者が、それなりに地形をよく見て、この絵図を描いたと判断し、記事文章を書きました。

絵図表現上の強調や誇張は当然です。実際には一望できない風景構図を創作することも当然です。しかし、それを持って写実的でないということに「着眼」して論を進めるのか、反対に強調や誇張は作者が捉えた心理的事実の表現方法であると許容し、むしろそれを持って地形の本質を表現しようとしているということに「着眼」するのか、そこに分かれ目があると思います。

どちらが正しいという問題ではありません。その絵図を見る人が、そこからどのような情報を引き出そうとしているのか、立場や価値観の違いに多様性があるということです。

ウ 花見川対岸を「山」と感じた瞬間
河岸段丘の露頭を探して現場を歩いている時、一瞬対岸が100m位の山と感じた時があります。その時の自分の感覚を写真に記録できるかもしれないと思いながら撮った写真が次の2枚です。

いずれも柏井の東岸から西岸を見た風景です。

対岸の台地が山と感じた時撮った写真1

対岸の台地が山と感じた時撮った写真2

錯覚であると切り捨ててしまえばそれまでですが、対岸の風景が中景の樹木で遮られて一部しか見ることができなく、近景にいろいろな地物がある場合、対岸の風景が強調されて、「大きく」見える心理現象があると思います。
地平線近くの月が大きく見えることと原理が同じだと思います。

自分に生じたこの心理的現象が、藪の中を歩き回って沢山のスケッチを描き、架空の視点場から迫力ある構図で絵図を描こうとした絵図作者に生起しないはずはありません。
このような心理現象を活用しながら、迫力ある絵図を作成しようと、絵図作者は活動したに違いありません。もちろん無意識的行動としてです。

一般論として、現代人より江戸時代の人々の方がはるかに地形認識力があったと想像します。現代人は生活環境の都市化や知識増大により、地形認識力が著しく貧困化していると思います。

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