2018年6月14日木曜日

集落消長の理由

大膳野南貝塚学習中間とりまとめ 3 集落消長の理由

大膳野南貝塚学習中間とりまとめを次の10項目に分けて行っています。
1 漆喰貝層有無2集団の関係
2 諸磯・浮島2集団の関係
3 集落消長の理由
4 貝塚・集落の構造
5 貝殻・獣骨・土器片出土の意義
6 埋葬の様相
7 竪穴住居祭壇の様相
8 狩猟方法イメージ
9 個別テーマ
10 背景学習

この記事では「3 集落消長の理由」の説明素材を集めて、まとめペーパーの材料を作りましたので掲載します。
なおここでは後期集落だけを対象とします。
この材料は次の補足検討に基づいて、想像力を駆使してまとめたものですから想像的記述といえるものです。

2018.06.13記事「貝塚集落がたち行かなくなった時の身の振り方
2018.06.12記事「「中期後半の衰退」期における集落立地
2018.06.11記事「漁場消失による貝塚集落終焉のデータ
2018.06.10記事「大膳野南貝塚後期集落 消長シナリオ
2018.06.09記事「大膳野南貝塚集落消長と千葉県貝塚変遷の対応

1 大膳野南貝塚後期集落が最初に立地した頃の縄文社会情勢
大膳野南貝塚後期集落が最初に立地した頃は「中期後半の衰退」(「千葉県の歴史 通史編原始・古代1)」(千葉県発行)の概念)と言われる時代で中期中葉の貝塚集落が全て廃絶して、新たな貝塚集落がその近隣に立地した時期です。
大膳野南貝塚後期集落はこの時代に新たに立地した貝塚集落です。
旧貝塚集落が全て廃絶し、新貝塚集落が立地した様子を「千葉県の歴史 資料編考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)では次のように記述しています。
Ⅳ期に多数存在した通年定住型の集落は、加曽利EⅡ期の終わりから加曽利EⅢ期の始まりにかけて、すべて消滅したものとみられている。Ⅴ期には、わざわざ集落の故地を避けて、分散的に居住するようになる。

大膳野南貝塚後期集落の時期別竪穴住居軒数グラフと千葉県時期別貝塚分布図を略対応させると次のようになります。

集落立地の背景検討
大膳野南貝塚後期集落の立地は「中期後半の衰退」期における集落置き換わりで生まれた新集落であることが確認できます。
そして、集落置き換わりは集団入れ替わりを意味しますから、大膳野南貝塚後期集落は新集落であるとともに新集団による集落です。

大膳野南貝塚付近の新旧貝塚集落を示すと次のようになります。

新旧貝塚集落の分布
旧集落(有吉北貝塚・有吉南貝塚、草刈遺跡)は海の近くに分布していますが、新集落(上赤塚遺跡、木戸作貝塚、小金沢貝塚、六通貝塚、大膳野南貝塚)は台地主部縁に分布し、大膳野南貝塚などは海から離れてもお構いなしに立地しています。旧集落と新集落の集落立地原理が異なることは、新旧集落が新旧集団の違いに対応していることを表現しています。
旧集落廃絶→新集落創始のプロセスは新集団が旧集団の猟場・漁場・堅果類採集場を奪い(つまり新集団が旧集団を征服して)、旧集落を廃絶に追い込んだと解釈することができます。旧集団の人々は新集団の下層に組み込まれたと考えられます。大膳野南貝塚ではその下層の人々(旧集団の人々)が漆喰貝層無竪穴住居住人であり、支配上層の人々(新集団の人々)が漆喰貝層有竪穴住居住人であると考えられます。

2 大膳野南貝塚集落が立地できた条件の一つ
大膳野南貝塚集落が立地できた条件の一つに占有漁場確保があげられます。より具体的には「地形で分節された小入り江」を占有できて、そこを漁場として漁業を行うことができました。この条件の喪失が集落衰滅の主因になったと考えます。

仮説 地形で分節された小入り江の存在が多数貝塚集落が立地できる必須条件

3 集落衰滅の主因は漁場喪失
大膳野南貝塚集落衰滅の時期は「後期中葉の衰退」(「千葉県の歴史 通史編原始・古代1)」(千葉県発行)の概念)と言われる時代で、他の多くの貝塚集落消滅と同じ時期に当たります。
大膳野南貝塚の漁場であった「地形で分節された小入り江」の様子を推察すると次の図のようになります。

4000年前の海面の推定
大膳野南貝塚の貝塚形成が4000年前頃から3750年前頃までであると仮定する(放射性炭素年代測定結果に基づく)と、貝塚形成が終わる頃と漁場が干陸化して物理的に消失する時期が略一致します。
大膳野南貝塚後期集落は占有漁場が物理的に消失したことに対応して、貝塚集落として衰滅したと捉えることができます。

4 移住先
大膳野南貝塚後期集落では堀之内1式期に急増した竪穴住居軒数が堀之内2式期には急減していますから、この間に集落集団の多数が集落外に移住していると考えることができます。移住先を直接知ることはできませんが、下総地方レベルで観察すると東京湾岸から印旛沼湾岸に移住した人々が多かったと考えられます。

Ⅵ期(後期前葉~中葉)→Ⅶ期(後期中葉~晩期前半)における貝塚集落の増減

5 狩猟民として生きる
縄文後期には海岸線の後退により「地形で分節された小入り江」がほとんどなくなり、東京湾では直線状の砂浜海岸が広がりました。
縄文人は新たに生まれたこの海岸環境を漁場として開発することはありませんでした。

次の図は大膳野南貝塚の地形上の位置を示したものです。

大膳野南貝塚の位置

大膳野南貝塚の地形断面図上の位置
大膳野南貝塚は海から谷津を伝わって4㎞はなれ、標高差は50mあります。このような場所に集落を立地させたのは狩猟を第一に考えたからであり、漁業は第二条件にすぎません。この様子から縄文人のアイデンティティは狩猟にあると考えます。

「地形で分節された小入り江」が無くなったら、その後の直線状砂浜海岸を漁場として開発すること、つまり漁民になりきることを縄文人は拒否しました。
縄文人は狩猟民であるという自分のアイデンティティを放棄してでも環境変化に対応して生き残る道はとらなかったということです。
縄文人は崩壊した漁業の代わりは自らのアイデンティティである狩猟を強化することで穴埋めしようとしました。この時期の貝塚集落の様子を「千葉県の歴史 資料編考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)では「獣骨の増加が顕著」と記述しています。
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次の資料を公開しました。(2018.06.14)

pdf資料「集落消長の理由 要旨

pdf資料「集落消長の理由

上記資料を含めて私の作成した主な資料・パワポはサイト「考古と風景を楽しむ」にも掲載しています。



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