2018年9月11日火曜日

事例学習 長谷部貝塚

村田川河口低地付近縄文集落の消長分析 12

村田川河口低地付近縄文集落の消長分析の一環として「千葉県の歴史 資料編」掲載事例の学習を遺跡別にしています。これまでに参考として旧石器時代遺跡(草刈遺跡、大道遺跡、馬ノ口遺跡、バクチ穴遺跡)、縄文前期の神門遺跡、縄文中期の草刈貝塚、有吉北貝塚、有吉南貝塚の学習をしてきています。この記事では縄文中期の長谷部貝塚の学習をします。

1 長谷部(はそべ)貝塚の位置

学習マップ

2 長谷部貝塚の概要
長谷部貝塚は, JR鎌取駅から東へ約1.5kmの地点に所在し,標高はほぼ44mである。遺跡は,都川の支流によって解析された平山支谷奥部の舌状台地上にある。貝層は長径約200m,短径約150mの広がりをもち,東に開口部をもつ大規模な馬蹄形を呈していたとされる。貝塚の形成された時期は,縄文時代中期の頃が盛期となったようであるが,ここでの縄文人の活動は後期の終末まで続いている。

長谷部貝塚の範囲 ふさの国文化財ナビゲーションによる

ゴルフ場内貝塚保存部遠景 「千葉県の歴史 資料編 考古1(旧石器・縄文時代)」から引用

3 発掘調査
過去3回発掘調査が行われているがいずれも正式報告がなされていない。以下は断片的情報。
3-1 酒詰仲男・伊藤和夫による調査(1947)
「中期阿玉台式にともなう竪穴住居跡を発掘したが,楕円形で太い周溝があり,太い柱穴があり大きな炉跡のある深い竪穴であった」(文献2)とあり,ほかに加曽利E式の住居跡も検出されているとの記述もある。

3-2 東京大学人類学教室による調査(1949)
伊藤和夫によれば, 前回の発掘とあわせて2回の調査による遺物には獣骨・魚骨・骨角器・土器片錘・耳飾り・土偶・人骨・石器類などがあり,土器は阿玉台・加曽利E・堀之内・加曽利B・ 安行1・安 行2の各形式で構成されていたとのことであった。貝塚も大規模な環状とされており,ゴルフ場造成以前ば畑であった。

3-3 早稲田大学による調査(1959)
貝層はU字状の主鹹貝塚とされており, 出土土器は前記と同様となるが多量の士器とともに伸展葬・屈葬や男女合葬など各種の埋葬形態が認められ, 30数体の人骨が検出されたという。

4 感想
大規模な貝塚があり、同時に土器片錘(網漁の錘)が出土しているので、集落が海に漁業権を有していて自ら漁業を営んでいた貝塚集落遺跡であると考えます。水系上の貝塚位置は都川水系ですから漁場は都川河口海域であると推察します。一方直線距離にすると都川河口よりも村田川河口低地の方がはるかに近くなります。長谷部貝塚が漁業を営んだ場所がどこであるか興味が湧きます。漁場が都川河口にせよ、村田川河口にせよ、なぜこのような内陸に漁業を生業の一つとする集落が立地するのか、奥地に立地した理由に興味が湧きます。

長谷部貝塚と地形との関係 赤丸は主な縄文中期遺跡

5 参考
手持ちの図書(「千葉市史 史料編1原始・古代・中世」(千葉市発行))に長谷部貝塚の情報が掲載されていたので紹介します。

住居祉(阿玉台~加曽利EⅠ式期)と出土した土器(加曽利EⅠ式) 「千葉市史 史料編1原始・古代・中世」(千葉市発行)から引用

人骨 「千葉市史 史料編1原始・古代・中世」(千葉市発行)から引用
上右写真は甕被り葬

土器 「千葉市史 史料編1原始・古代・中世」(千葉市発行)から引用



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