2013年3月3日日曜日

花見川河川争奪と花見川地峡

花見川流域地誌のメインキーワードは“地峡” その2

1 地峡を用意した花見川河川争奪
地史時代(多分、立川礫層が堆積する前の寒冷期?、4万年程前?)に花見川河川争奪現象が発生し、東京湾水系花見川の谷頭が際立って北進し、東京湾水系としては異常に北まで発達した谷津が形成されました。
この河川争奪地形が地峡地形そのものです。

次の図は花見川付近の現在の地形概観図です。

現在の地形概観図

この図に花見川河川争奪の結果できた自然地形(印旛沼堀割普請による人工改変前の地形)のイメージを書き込んでみました。

花見川河川争奪によって形成された花見川筋の自然地形

2 字義通りの地峡であった縄文海進時代
縄文海進時代には花見川筋は字義通りの地峡となりました。
この地峡を花見川地峡と呼んでもよいと思います。
この花見川地峡を利用した人々によって、「ハナミ」の地名が生まれ、地峡に対応した生活圏が営まれました。地峡が二つの海を繋ぐ船越であったと考えます。
地峡の両側の海には当時の湊があり、縄文丸木舟などが出土しています。
花見川地峡は重要な交通ルートでした。

縄文海進時代の花見川地峡イメージ

縄文海進時には香取の海と東京湾の海が花見川地峡を挟んで約2Kmの距離まで接近していました。花見川筋の谷津(花見川谷津-谷中分水界-古柏井川谷津)が字義通りの地峡となっていました。地峡自体が谷津(河川)であるという特殊性が縄文時代から現代まで人々に注目され活用されてきました。

(つづく)

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