2014年9月4日木曜日

旧石器遺跡分布から推定する狩方法

シリーズ 花見川地峡の利用・開発史
第1部 縄文弥生時代の交通 その29

1 旧石器時代遺跡分布ゾーン図の作成
2014.09.03記事「旧石器時代遺跡分布イメージ」で「旧石器 埋蔵文化財が存在する町丁大字プロット図」を擬似「旧石器時代遺跡分布図」と見立て、旧石器時代遺跡イメージを検討しました。

この検討結果をゾーン区分図として表現してみました。

旧石器時代遺跡分布ゾーン区分図

1ゾーン~3ゾーンは旧石器時代に存在していた深い谷津(現在は沖積層に埋没している)沿岸のほぼ4㎞まで内陸のゾーンを設定しました。

4ゾーンは1ゾーン~3ゾーンに囲まれた台地内陸部です。

5ゾーン、6ゾーンは遺跡が散在的に分布している地域です。

2 ゾーン別遺跡数
このゾーン区分毎に旧石器時代遺跡数をカウントしました。
カウントはプロットされたドット数(町丁大字数)ではなく、遺跡数です。

結果は次のようになりました。

ゾーン別遺跡数

台地内部地域であるゾーン4の遺跡数と台地縁辺部のゾーン1~3の合計遺跡数を比較すると、台地縁辺部の方が遺跡数が多くなります。

印旛沼周辺など、台地内部地域に旧石器時代遺跡が沢山分布していることは事実ですが、それ以上に台地縁辺部に遺跡数が多いことがわかりました。

旧石器時代遺跡の存在している場所の多くは台地源頭部の湧水地です。湧水地は台地内部の谷津にも、台地縁辺部の谷津にもあります。しかし、台地縁辺部の方が谷頭侵蝕が激しく、険しい地形になっているところが多くなっています。

旧石器時代人は険しい地形の湧水地をとりわけ好んだようです。

その理由として、
1 険しい地形の湧水地近くでは狩がしやすい
平坦な台地面は当時は寒冷な気候で樹木が少なく、投げ槍では獲物を捕えにくいが、急斜面の水場に降りてきた獣は追いつめやすい。
2 急斜面でのキャンプは防風、防寒、防雨雪等のサイトを選びやすい。
3 急斜面では肉食獣から防衛しやすい。
などが考えられます。

私は、台地縁辺部など険しい急斜面近くでキャンプする理由の最大のものは、そのキャンプ地の近くが狩場であったからだと考えます。

つまり、険しい急斜面を利用した狩が旧石器時代人の常とう手段だったのではないかと考えます。
このようなその考えが妥当なものであるか、ケーススタディで遺跡分布を分析してみます。

3 旧石器時代の埋没谷津地形
201.08.23記事「旧石器時代の谷津形状の検討」で検討したように、旧石器時代の深い谷津は現在沖積層に埋没して観察することができません。
このブログでは、次の資料に基づいて、旧石器時代の谷津地形を復元して検討します。

●参考とする資料
遠藤邦彦・小杉正人・菱田量(1988):関東平野の沖積層とその基底地形、日本大学文理学部自然科学研究所研究紀要23

この資料に掲載されている沖積層層厚分布図の一部を示すと次のようになります。

「遠藤邦彦・小杉正人・菱田量(1988):関東平野の沖積層とその基底地形、日本大学文理学部自然科学研究所研究紀要23」掲載沖積層層厚分布図の一部

4 ケースタディ1 流山・松戸・柏・我孫子地区
プロット図から遺跡の粗密をイメージすると次のような図になります。

旧石器時代遺跡分布の粗密検討1
台地縁辺部の急崖で湧水のある場所アとエに遺跡が密集していて、台地が拡がる場所であるイとウには遺跡が点在して分布しています。

断面でみると次のようになります。

旧石器時代(最終氷期最盛期)の谷津形状の検討(想像)

遺跡密集ゾーンは現在よりはるかに深い谷の縁に位置していることになります。

ア地域のすぐ下(現在は沖積層に埋没している)には-60mが底となる谷津の急崖が存在しています。

エ地域の台地両岸も-30mが底となる谷津の急崖が存在しています。

そしてよく観察すると、ウ地域は現在手賀沼がある-30mが底となる谷津の急崖があるにも関わらず、遺跡は密に分布していません。

遺跡は現在の手賀沼と利根川に挟まれた狭い台地面に集中しているので、旧石器時代人は1つの谷津急斜面ではなく、2つの谷津急斜面利用を好んだことがわかります。

旧石器時代人の狩は、樹木の少ない当時の台地平面で投げ槍を唯一の道具で行うよりも、台地縁辺部の侵蝕谷頭付近で地形が囲まれている水場に降りてきた獣を狩したのだと思います。
あるいは、台地縁辺部で獣を急崖まで追い詰め、墜落死させて狩ったのだとおもいます。

ア地域の旧石器時代人の狩場は現在の台地とその急斜面だけでなく、現在は埋没して観察できない、-60mの谷底までの急斜面も利用したに違いありません。

エ地域の旧石器時代人は恐らく台地北側の斜面の方が立派なので、そちらを好んで使ったに違いありません。

台地斜面上の逃げ場の少ない水場での狩とか、台地の端に獣を追い詰めて崖から墜落させて狩るという方法はゾーン4の内部でも主要な狩方法であったことはいうまでもないことだと考えます。

5 ケーススタディ2 千葉市緑区土気・大網白里市大網地区付近
プロット図から遺跡密集地区をイメージすると次のようになります。

旧石器時代遺跡分布の粗密検討2

断面を見ると次のようになります。

旧石器時代(最終氷期最盛期)の谷津形状の検討(想像)

この付近は旧石器時代に存在した急崖が現在もそのまま観察できます。

比高80mの急崖があり、その急崖を利用して追い詰め猟が行われたのだと思います。

絶好の狩場であるため旧石器時代遺跡が沢山残ったのだと思います。

「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県、平成19年)では、土気付近に遺跡が多い理由として、北総ルートを回遊して狩をしてきたグループと南総ルートを回遊して狩をしてきたグループが邂逅する場がここであり、コミュニケーション上重要な特別の場所であると説明されています。

そのような特別の場所であるとともに、狩の絶好の場でもあったと考えられます。

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