イラの房総例として「イラゴ」「イラセ」「イラタ」を挙げ、エラの例として「メラ」(布良)を挙げました。
この記事ではメラについて検討します。
1 メラが洞穴を指す言葉である理由
布良(メラ)がエラと同根の言葉で洞穴を表す理由は次の2点です。
1 音韻的にエラ、メラが似ている。(古代人が使った洞穴を表現する言葉Xが、瀬戸内海西部ではエラとなり、近畿から東日本ではメラとなったと考えます。)
2 布良(メラ)付近に考古・歴史的意義の大きな洞穴遺跡が3つ存在していて、地名との関わりが示唆される。
1は専門的知識がないので、現時点ではそれ以上の検討はできません。
2の地名と関わると考えられる洞穴遺跡を紹介します。
ア 布良洞穴遺跡
縄文時代石斧出土
イ 布良の海食洞と鐘乳石
昭和52年、「安房自然村」内で、土木工事の際に発見された海食洞穴群で、崩壊土砂に入口をふさがれていた。
旧海食崖の基部、標高23.5メートルの所にあり、大小7洞が確認された。
このうち3洞に鍾乳石が発達していた。
この海食洞群は、沖積世に海食崖基部に作られた洞穴が隆起したもので、奥行12.5メートル、奥行7.8メートルの規模の大きな2洞には、鍾乳石の発達がよく、鍾乳石、石柱、石筍(じゅん)、ひだ状、カーテン状の石灰幕等がよく発達している。
これらの鍾乳石等は、洞穴の周囲の中新世千倉累層の畑互層に含まれる石灰分が地下水により洞穴壁に浸み出し折出(せきしゅつ)した結果形成されたものである。
県指定文化財
ウ 安房神社洞窟遺跡
房総半島の南端、安房神社の境内に所在するこの洞窟は、全長約11メートル、高さ約2メートル、幅約1.5メートルで、東北部に開口部をもつ海蝕洞であるが、現在は地表面から約1メートル下方にある。
昭和7年に井戸の開削工事をおこなったとき始めて洞窟が発見され、昭和7年に緊急学術調査が実施された結果、人骨22体、貝輪、(193個)、小玉(3個)と弥生式土器若干が発見された。
特に、人骨の成人骨中、齶骨(かくこつ)15例に抜歯の痕跡が認められたことは、当時の習俗を知るうえで貴重な資料として注目されている。
県指定文化財
(アイウとも「ふさの国ナビゲーション」から引用)
この3つの洞穴遺跡の場所を次に示します。
布良と洞穴遺跡
Google Earth引用
洞穴遺跡の位置
Google Earth引用
洞穴遺跡の位置
Google Earth引用
動画 紀伊半島-伊豆半島-房総のメラ
2 谷川健一のメラ=布浦(めうら)説について
谷川健一の「日本の地名」(岩波新書、1997)に「「メラ」の地名」という小項目があり、メラ地名の由来に触れています。
谷川健一「日本の地名」(岩波新書)
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「メラ」の地名
南伊豆町にある妻良(めら)の名は「東鑑」にも見える。
一つの湾の中に妻良と子浦が向い会っている。
その双方に日和山のあることはすでに述べた。
妻良は妻浦(めうら)とも言う。
妻浦と子浦とは三島大神の后神と御子神の鎮座するところから起った名であるという説がある。
伊豆の地名を三島神と関連させて説明する例は多い。
たとえば、下田市の吉佐美(きさみ)は、鉗(きさ)すなわち赤貝がこの地に多いところから鉗の海と称していたのが短縮したものという説がある。
その一方では「増訂豆州史稿」に記されているように吉佐美は后宮(きさきみや)の省略で、三島大神の后神の鎮座地から起った名だという説もある。
私にはこのほうが説得的に見える。
吉佐美はともかくとして、妻良のばあいは安房にも布良(めら)があることから、それを三島神の妻と結びつけて済ますわけにはいかない。
房州の布良は房総半島の突端にあって館山市に属し、近くに太玉命(ふとだまのみこと)をまつる安房神社がある。
「古語拾遺」には、天富命(あめのとみのみこと)が阿波の忌部をひきいて東国に移住し、安房の国に太玉命の神社をたてたとある。
これは海上の道を通って、西国から東国へ移住のおこなわれたことを示すものであろう。
ここで思い起こされるのは、三島大神の本后で神津島に鎮座する阿波神のことである。
「三宅記」には新島は潮の泡をあつめてつくった島と説明されているが、阿波神のばあいは潮の泡とも思われない。
やはりなにがしか、阿波の国の人びとの移住と関連があるのではなかろうか。
安房の布良は伊豆の妻良とをつなげるだけでなく、さらに紀伊の目良(めら)(和歌山県田辺市)からの住人が移住したという説もある。
しかし布(め)は一般にアラメ・ワカメなど食用になる海藻をさす。
そこで海藻のよく採れる浦が布浦(めうら)であって、それが布良になったとも考えられる。
そうすると伊豆の妻良も、紀伊の目良ももとは布良であったのではないかと思われないでもない。
いずれにしても同じ地名があるからといってそれをそのまま西から東へと移住した人びとの足跡と断ずるのはむずかしいのである。
しかし安房と伊豆が三浦半島を媒介として交流があったことはたしかである。
下田から江戸へいく廻船は沖に出るか、伊豆半島に上陸して網代から三浦半島の三崎へと十九里の海をわたったという。
館山市の川名という地名も伊東市の川奈(川名とも書く)と関連があり、人の移動もあったと考えられる。
川奈という姓は安房に多く、三浦半島にも見受けられる。
館山市川名の北にある須崎も下田市の須崎と交流があったと見るのは自然である。
谷川健一「日本の地名」(岩波新書)から引用
太字は引用者
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布良のめ(布)は食用となる海藻をさすから、海藻のよくとれる浦を布浦(めうら)と呼び、それが短縮してメラになった「とも考えられる」という説です。
地名学大家の説を素人が批判するドン・キホーテとなりますが、この説はいただけないと思います。
紀伊、伊豆、安房と人々が移住してきて、最初に見つけた岬付近の地名に、食用となる海藻に因んだ言葉を付けるとは、あまりに萎縮した発想です。
人々は食用となる海藻を求めて移住してきたわけではありませんから、たとえ食用になる海藻が豊富でも、それを地名につけることはないと思います。
海藻が採れやすい、採れにくいという条件の相違は海岸毎にあるとは思いますが、それを遠方からやってきた移住者が最初に地名で表現するとは考え難いことです。
移住した場所で確実に生活・生存するために、最も切実な条件が整っていることを地名にしたと考えるのが妥当であると考えます。
そのような観点から、布良(メラ)は生活の本拠地である洞穴の存在を意味すると考えることが妥当であると考えます。
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