2016年6月28日火曜日

地名型「土居」「堀之内」の千葉県検索結果

1 鏡味完二の検討 地名型「土居」「堀之内」

鏡味完二は60年以上前に地名の層序年表を作成して、その中で21の地名型を設定しています。

地名型は「標準化石地名」ともいうべきものとして、過去のある時代の地域開発を物語る指標としています。

その地名型の12番目「土居」「堀之内」に関する鏡味完二の検討を紹介します。

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Doi,Horinoutiの地名

"土居"と"堀之内"の地名は,共に豪族屋敷に因むものと一般に考えられている。

ただ菊地山哉氏は"堀之内"を「墾之内」と解して,それを単なる開墾地名であるとしている。

地名"堀之内"の発生時代については,奈良朝とか中世とかといわれ,"土居"については南北朝から応仁前後(1330~1470)とか称されている。

著者はここで地名学的方法で,それは1200年頃という結果を出した。

その方法は次のようである。

但しこの時代決定の見当は,大いにあつかって文献利用の上に立っているのである。

土居の地名は西南日本に卓越し,堀之内の地名は東北日本に圧倒的に多い。

しかし特に土居の地名において奇異な現象は,この地名が姫路以西に多く分布し乍ら,姫路から西南に引いた直線を以って,極めて顕著な不連続線を形成していることである。

しかるにここには地形的に文化の障壁となるようなものは存在していない。

また方言やアクセントによる地域区分線とも直接の関係はない。

関東を中心に多い"堀之内"の地名において,ほぼそれと同様のことがいえる。

そこで著者はこの両地名型を1つに合せて考え,それを〔地図篇,Fig.60〕と〔地図篇,Fig.106〕でみると,近畿を中心とした周圏的な分布の体勢が成立してくる。





よってこの2つの地名は西南と東北の日本で,同一の対象に対して異った言葉で表わされた結果,2つの地名型が生じたものではないかという推測に達することができる。

多くの論者のようにこれらの地名の意味を,矢張り豪族屋敷に関係があるものとしよう。

ただそれを西南日本では「土居」といい,東北日本では「堀」といっただけのもので,且つこの両語は殆んど同時代のものと'すれば,姫路と天竜川筋における不連続線の形成は,文化の中心からの方言伝播の時間によって決定されたものであるとみられるから,この両不連続線の位置は上方から等距離に横たわるという結果を来したものと解釈することができる。

そして近畿地方が大体充実地域と考えられて,そこにはこの地名の分布がなく,疎らな分布地域(前充実地域)を隔てて,開拓地域に移行している。

(Fig.22No.12)

ここに問題として考えねばならぬことは,豪族屋敷に因む地名が,どうして豪族の分布と関係なく,1~2の方言の発達圏に限定されてくるかということである。

濠や土塁に因んで,地名が新らしく生れるという社会状態は,集落が一応の発達をある文化水準において完了して,社会的に固定した地域にあっては,たとえその地方で濠や土塁が設けられたと仮定しても,それによって既に社会的に成長発達をとげてきた地名は容易に改名されることはないであろう。

地名が改名されるか或は新生することのできる気運にある社会状態というものは,その地域の開拓の進度や文化の程度など,一定の適わしい状態というものが存在する筈だからである。

この分布図にみる分布のPatternを,他の地名型と比較対照して,Kiziya・Rokuroと-yasikiとの2つの地名型の中間の位置に時代設定をすることができ,かくして1200年頃という答を見出すことができる。

鏡味完二(1981)「日本地名学(上)科学編」(東洋書林)(初版1957年) から引用
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2 土居に関する学習

百科事典では土居について次のような説明をしていて、60年前の鏡味完二の「土居」と「堀之内」を一体のものとして捉える考え方が間違っていないことを確認できます。

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どい 【土居】

城郭や屋敷地の周囲に防御のために築いた盛土のこと。

土塁とほとんど同じ意味であるが,近世までは土居の語を用いた。

また土居で防御された敷地全体,例えば土居屋敷を単に土居と呼ぶ例が中世以来あり,とくに土佐,伊予,淡路などに多い。

平地の土居は堀を掘った土をかきあげて築いた。

部分的に▶石垣を用いる場合もあり,その石垣が上端にあるのを鉢巻土居,下端にあるのを腰巻土居という。

土をつき固めただけのものを敲〘たたき〙土居,さらにその表面に芝を張ったものを芝土居という。

土居の勾配は,近世の軍学では,敲土居は高さ3間に敷(基底部)3間,つまり45度の傾斜,芝土居は敷2間,つまり60度の傾斜を定法としたが,山城で地山を削り残した土居の場合は,これより急勾配のものがある。

土居の頂の平面を馬踏〘まふみ〙といい,塀や柵を設けた場合,その内側を武者走り,外側を犬走りという。

屋敷や居館まわりの土居には竹を植えて崩れ止めや目かくしとすることが多く,近世の絵図等では土居藪,土手藪と記され,土居が崩れていても残存する藪から土居の線を復原できることがある。

村田 修三


古代において,地方行政府たる国府の周囲にめぐらされた土塁は土居,土井,土手と称され,多賀城跡や周防,美濃,伊勢,佐渡などの国府には土塁の遺構が残る。

周防国府跡では〈土居八丁〉と呼ばれ,国府の周囲を土塁がめぐっていたことがわかる。

また,全国に建設された国分寺,国分尼寺のうち,遠江や陸奥国分寺では寺地境界に土塁を築いていたことが知られている。

中世においては土居の外側に▶堀(濠)をうがつことが多く,その内側を〈堀の内〉とも呼んだ。

土居のなかで最も大規模なものとして,1591年(天正19)に豊臣秀吉が京都の周囲にめぐらした〈御土居〘おどい〙〉がある。

御土居は東は鴨川,西は紙屋川,北は鷹峯,南は九条を限り,周囲全長22.5㎞に達する。

まず外周に幅3~18mの堀を掘り,その土を盛りあげて基底部の幅10~20m,高さ3~5mの土居を築き,四方に10口(7口)を設けて出入口とした。

御土居は防御機能よりもむしろ鴨川の氾濫を防ぐことで京都庶民の役に立ったといわれる。

17世紀後半には京都市街は御土居を越えて東方へ拡大していった。

高橋 康夫

『平凡社 改訂新版 世界大百科事典』 日立ソリューションズ から引用
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3 千葉県における地名「土居」「堀之内」検索結果

千葉県小字データベースから「ドイ」「ホリノウチ」に関する小字を検索したところ「ドイ」(土井、戸井など)は15件、「ホリノウチ」は128件抽出されました。

鏡味完二のいう通り、東日本にある千葉県では「土居」はすくなく、「堀之内」は多いという結果になりました。

その分布図を次に示します。

「土居」小字分布

ほとんどが上総国に分布します。「堀之内」も上総国が多くなっていますから「土居」と「堀之内」に関連があるのだと思います。

分布が比較的集中していることと、文字「土居」はなく、全て「土井」、「戸井」であることから、土木施設としての土居をつくるあるいは使う集団が西日本から千葉にやってきてその足跡を残したなどという空想も頭から排除できないと思います。

「堀之内」小字分布

上総国の分布が特に多くなっています。

この地名が密集する場所をよく見ると古代に開発された場所から少し離れた山間地域が多くなっています。

鏡味完二のいうように堀之内分布はある時代の開発前線を表現しているのだと考えます。

「土居」「堀之内」の分布について他の情報と重ね合わせて検討すれば、そこから有用な新情報を導き出すことができると考えますが、それは今後の課題とします。


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