2016.10.06日経朝刊記事 平城京役人にペルシャ人
765年木簡ですから、現在検討している上谷遺跡の時代とも重なると考えます。
破斯が波斯であり、ペルシャ人そのものを指し、遣唐使がつれて帰った人のようです。
最近ウズベキスタンを訪問しているので、その地の古代歴史と日本の古代歴史がつながっていると考えると感慨が湧きます。
7世紀から8世紀頃のソグド人邸宅から出土したフレスコ画(サマルカンド)
アフロシャブ博物館で撮影(暗い中フラッシュ禁止であったが、アートモードで撮影)
(ソ連軍トラックが突然陥没し、その穴で偶然発見)
この時代の日本人でペルシャに出かけた人がいないとも限らないという空想も生まれます。
空想をさらに連鎖させて遊んでみました。
●全国墨書土器データベースに波斯、破斯があるか、
もちろんありませんでした。
しかし、「斯波□」がありました。
胆沢城跡遺跡(奥州市水沢区佐倉字渋田)、SE1050井戸跡、10世紀前半、須恵系土器(有台鉢)、墨書。
斯波は後年に氏族名で登場するようです。
●古代ペルシャからガラス食器が渡来し、正倉院に収められているという話を憶えています。一方、上谷遺跡でガラス玉が出土しています。
もしかしたら…、という連想から、まだ未検討の古代ガラス玉について学習してみました。
奈良文化財研究所のWEBサイトに「(115)古代ガラスの製法」というページがあり次の記述がありました。
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「日本では、弥生時代や古墳時代の遺跡から、たくさんのガラス玉が発見されています。
でもこの時代のガラスは、すべて輸入品、外国産のガラスでした。
国産ガラスの製造が始まるのは、飛鳥時代の7世紀後半になってからのこと。
奈良時代にはお寺や仏像の装飾に、大量のガラス玉が使われました。
そのガラスの作り方は、正倉院に残された興福寺西金堂の造営史料から知ることができます。
それによると、ガラスの主原料は石英(水晶)と鉛(鉛丹)です。
これを「るつぼ」で溶かしてガラスをつくりました。
ガラスの着色剤は鉄や銅で、鉄を加えると黄色~褐色のガラスが、銅を加えると緑色のガラスができました。
奈良文化財研究所 なぶけんブログから引用
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飛鳥池遺跡出土のガラス関連遺物の写真も掲載されています。
この記事を読むと、上谷遺跡出土のガラス玉は日本で(おそらく奈良で)製造されたもののようだと考えることができます。
また、ガラス玉が仏教と関連する可能性を知りました。
上谷遺跡から墨書文字「寺竹」「寺」が出土しています。
墨書文字「寺竹」、「寺」、ガラス玉の出土場所は一致しませんが、同じ遺跡から出土しているので、その関連性を今後検討してみることにします。
一つのヒントを得ました。
また、温石が上谷遺跡から出土していて、生半可な知識ですが、もしかしたら仏教と関連するかもしれないと考えます。
「平城京役人にペルシャ人」の新聞記事が趣味心を大いに刺激しました。
参考
上谷遺跡出土ガラス製小玉
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