2015年10月21日水曜日

鳴神山遺跡の墨書文字「山本」の分布

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.228 鳴神山遺跡の墨書文字「山本」の分布

鳴神山遺跡から出土した墨書文字「山本」の分布を示します。

文字「山本」出土分布

「山本山本」の例
Ⅱ063竪穴住居出土
千葉県出土墨書・刻書土器データベース(明治大学日本古代学研究所)から引用

「山本」は台地を「山」と見立て、その利用・開発の主導集団(家系?)の祈願語であると考えます。漁村における「網本(網元)」「船本(船元)」に対応するような意味合いの言葉だったと考えます。

「山本」が従事した業務は焼畑による根菜・雑穀栽培、木の実・山菜採取、狩猟、薪炭生産などの元締め業務であったと考えます。

それらの業務から得られた産物の倉庫がⅡ063竪穴住居付近に密集する掘立柱建物群であったと考えます。

「山本」は社会階層上「犬」を祈願語とした狩猟集団の上位に位置していたのかもしれません。

なお、Ⅱ063竪穴住居からは「子山本」も出土します。

「子山本」
Ⅱ063竪穴住居出土
千葉県出土墨書・刻書土器データベース(明治大学日本古代学研究所)から引用

「網本(網元)」に対応する言葉として「網子」という言葉があり、網漁経営者とその元で隷属関係に置かれた労力提供者を意味しますが、墨書文字「山本」と「子山本」はその関係のアナロジーとして捉えることができると考えます。

祈願語としての「山本」の意味は「山本としての指導職務を全うし、山(台地)からの産物を豊富に得たい」というものだったと想像します。

「子山本」の意味は「山本の指導下での職務を全うし、山(台地)からの産物を豊富に得たい」というものだったと想像します。

「山本」と「子山本」の出土から、鳴神山遺跡における身分的支配関係存在の一端を知ることができます。

2015年10月20日火曜日

2015.10.20 活動日誌

白幡前遺跡の検討のころから墨書土器に興味を持ち出し、画像付データベースが利用できるので、墨書土器の情報分析に踏み込んでしまっています。

墨書土器の多くが打ち欠きされているという事実を、墨書土器現物閲覧をさせていただいた八千代市立郷土博物館の研究員の方に教えていただきました。

確かにデータベースの画像を見ると、墨書文字を残すように人為的に打ち欠いたものが多くみられます。

この打ち欠きという行為をもたらした当時の人々の心性に興味を持っていますので、最初のメモを書いておきます。

本来のテーマである花見川-平戸川(新川)筋が東海道水運支路であるという仮説検証とは離れてしまいますが、人の心を知るということは、一人の人間として本能的に興味のあることがらです。

発掘に関わる詳しい情報を知っているわけではありませんが、墨書土器打ち欠きでは次のような状況があるようです。
1 職種職能集団の活動発展を祈願した酒宴(祭祀)がある。
2 その酒宴(祭祀)で集団メンバーが、集団独自の文字を書いた墨書土器を使う。
3 酒宴(祭祀)で使った墨書土器を打ち欠き(破壊し)、廃棄された竪穴住居、井戸、氷室、溝等に捨てる(納める)。

古代にあって土器は大切な生活道具であり、簡単に壊して捨ててよいようなものでなかったことは言うまでもないことです。
ましてや集団の祈願文字を墨書し、日常生活で祈願に使っているのですから、それを壊すということは尋常ではありません。

神に強く祈願する気持ちを、自分の大切なものを壊して表現する(証明する)ように見受けられます。
自分の大切な物を壊す代わりに、神に祈願内容の実現を迫っているのだと思います。

このような、現代人の日常生活からみると尋常ではない心性をどのようにしたらリアルに理解できるか、時間をかけてでも知りたいと考えています。

この記事では、その尋常ではない心性と関連するかもしれない事例をメモしておきます。

1 犠牲儀礼
人や動物を殺害して神への儀礼とする風習は世界各地にありますが、それと全く同じ意味を持つ可能性があります。
神への供え物として動物を殺し、その動物を集団で食い、その時使った墨書土器も供物として破壊した儀礼であると考えることができます。

2 贈与の原理における増殖
墨書土器が集団内で贈与され、その贈与された大切な墨書土器を人の面前で破壊することによって霊力の増殖が起こるとする古代人の心性があったのかもしれません。
このような例が北米原住民のポトラッチで貴重なコッパー(銅製の象徴的記念品)を破壊する行為としてあるようです。(中沢新一「愛と経済のロゴス」)

もっと関連する事例を集めて、いつか総合的に検討したいと思います。

墨書土器の打ち欠きは「自分の大切な物を壊す代わりに、神に祈願内容の実現を迫っているのだと思います。」程度の記述で終わらすにはあまりに重たい事象です。

花見川風景

2015年10月19日月曜日

鳴神山遺跡の墨書文字「犬」の分布

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.227 鳴神山遺跡の墨書文字「犬」の分布

鳴神山遺跡では墨書文字「犬」がⅠ053竪穴住居から11史料(大ないし犬を加えると12史料)が集中して出土してます。
他に2溝から1史料出土してます。

文字「犬」出土分布

「犬」の例
Ⅰ053竪穴住居出土
千葉県出土墨書・刻書土器データベース(明治大学日本古代学研究所)から引用

「犬」は猟犬をつかった狩猟集団の祈願語であると考えます。

「犬」の文字に猟犬を使った狩活動発展の願いを込めたものと考えます。

Ⅰ053竪穴住居の近くで狩猟集団が酒宴(祭祀)を行い、その時に持ち寄った「犬」を墨書した坏を打ち欠き、Ⅰ053竪穴住居跡に捨てた(納めた)ものと考えます。

この場所が最多文字「大」の集中出土遺構に近いので、この付近に集落の各集団が共同で利用する酒宴(祭祀)会場となる施設が存在していたと考えます。

同時に、「犬」を祈願語とする集団と「大」を祈願語とする集団は親近的関係にあったことを推察します。

この場所で狩猟集団の酒宴(祭祀)が行われたことから、狩猟集団の活動場所(狩猟場所)が鳴神山遺跡に北に広がる台地であったことを推察できます。

参考 文字「大」出土分布

2015年10月18日日曜日

墨書文字「依」の意味深考

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.226 墨書文字「依」の意味深考

鳴神山遺跡の墨書文字「大」が大国玉(大国主神)を表し、「久弥良」がクビラ(金毘羅)つまり大物主神を表していると知って、ある疑念というか不安というか、思考を深めなければいられない衝動が身を走りました。

鳴神山遺跡の最大出現文字は「大」ですが、二番目に多い文字は「依」です。

「依」は鳴神山遺跡に「衣」が少数出土していることも参考にして、直感的に被服関係集団の祈願語であると結論付けました。

この直観的結論が本当に正しいのだろうかという疑念です。

その疑念は、民俗等で使われる「依代」という用語に「依」という文字が使われていることから生まれました。

出土文字「依」は「依代」に関係して、つまりは神に関係する文字かもしれないという疑念です。

早速調べました。

より‐しろ【依代】
〖名〗 神霊が出現するときの媒体となるもの。神霊の寄りつくもの。正月の年神の依代としての門松などのような特定の枝葉や花・樹木・岩石、あるいは形代(かたしろ)・よりましなど、きわめて種類が多い。
『精選版 日本国語大辞典』 小学館

辞書には依代の用例がありません。

webで調べてみると、なんと「依代」は現代学術用語(造語)であることがわかりました。

折口は、1915年4月、雑誌『郷土研究』へ掲載した論文『髯籠の話』の中で、柳田國男の 柄杓、瓢、杓子に関する膨大な資料等を参照し、「採り物」と呼ばれる柄杓状の呪具が、マナを招き、「えぶる(集める)」物を指すものの、古神道や日本の民俗信仰で用いられる、神降ろしの印を表す言葉がない、という問題から、依り代という言葉を、招代・標山とともに初めて用いた(なお、柳田國男は依り代という語を二度しか用いなかった)。
Wikipedia 「依り代」

ちなみに「憑依」という言葉も戦後から使われ出した翻訳語だそうです。(Wikipedia 「憑依」)

「依代」という言葉は古代には存在していませんでした。従って、「依代」という概念に引きずられて出土文字「依」を考える必要は全くありません。

一方、漢和辞典では「依」を次のように説明しています。

依
字音
イ、エ
字義
1
➊よ‐る。㋐よりすがる。もたれかかる。㋑たのむ。たよる。㋒つく。従う。「帰依(キエ)」㋓なぞらえる。準ずる。
➋助ける。また、いつくしむ。
➌そのまま。以前のまま。
2
➊やすんずる。安らか。
➋ついたて。=扆。
➌たとえる。また、さとす。
解字
形声。人+衣(音)。甲骨文では、人にまつわりつく衣服のさまにかたどる。まつわりしたしむ・よるの意味を表す。
『新漢語林』 大修館書店

「依」という漢字そのものに神やそれに関連する意味合いは全くありません。

同時に、解字説明にあるように「依」は衣服と強く関連しています。

依という漢字は形声という方法で、人と衣(衣服)を組み合わせてつくった新漢字ですから、もともと衣服のイメージが濃厚に込められている漢字です。

漢字の原義は衣服が人にまつわりついていて、つまり衣服が人に「㋐よりすがる。もたれかかる。㋑たのむ。たよる。㋒つく。従う。」ものであり、その状況を表現しています。

この漢字原義(漢字が表現している状況)の主役は衣服です。

以上の思考(検討)から、鳴神山遺跡で墨書土器に「依」と書いた集団は衣服に関わる集団であると考えて間違いないと思います。

墨書文字「依」の意味を深く考えることができました。

文字「依」出土分布図

「依」出土集中遺構は掘立柱建物群のすぐそばです。

衣服関連集団が被服廠としての掘立柱建物で、あるいはその近くで酒宴(祭祀)を何回も行ったのだと思います。

その時に「依」と書いた土器を打ち欠き、特定場所(当時既に捨てられていた竪穴住居跡)に捨てた(納めた)ものだと思います。

「依」集団が麻の栽培から製糸、織り、縫製まで手掛けて衣服(恐らく軍服)までつくっていたのか、麻栽培という現場は別集団が行っていたのか、詳しく調べれば判明すると期待しています。

鳴神山遺跡出土 依の例
Ⅱ84竪穴住居
千葉県出土墨書・刻書土器データベース(明治大学日本古代学研究所)から引用

鳴神山遺跡出土 衣の例
N201竪穴住居
千葉県出土墨書・刻書土器データベース(明治大学日本古代学研究所)から引用


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参考
けい‐せい【形声】
〖名〗 漢字の六書(りくしょ)の一つ。意味を表わす文字に、音声を表わす文字を組み合わせて、新しい漢字を作る方法。また、そのような構成の文字。水を意味する「氵」に、音を表わす「可」を組み合わせた「河」の類。諧声(かいせい)。象声。〔許慎‐説文解字序〕
『精選版 日本国語大辞典』 小学館

2015年10月16日金曜日

墨書文字の意味解読パターン素案の作成

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.225 墨書文字の意味解読パターン素案の作成

鳴神山遺跡の墨書文字「久弥良」は大物主神を、「大」は大国主神と推定できるという結論に至って、自分自身が強い刺激を受けています。

白幡前遺跡をメインとする萱田遺跡群の墨書文字の意味検討結果とはその趣が大いに異なる結果となっているからです。

鳴神山遺跡では大国玉(大国主神)という神名が祈願語となっていて、それが祈願語としては最も卓越する言葉となっています。

一方、白幡前遺跡をはじめとする萱田遺跡群でのメインの言葉は「生」であり、意味は「白兵戦に生き残る」と推定しました。祈願内容そのものを祈願語に使っています。
2015.06.14記事「墨書土器代表文字の意味」参照

萱田遺跡群では祈願語の多くは祈願内容であると考えました。

このように、遺跡間で祈願語の在り方に相違があるようなので、その相違をより正確に意識するために、墨書文字の意味がどのような項目を意味しているか、自分なりに一般化して把握することにします。

そのツールとして次の墨書・刻書文字の意味解読パターン 素案を作成しました。

墨書・刻書文字の意味解読パターン 素案

多文字墨書土器の意味解読パターンは「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)で検討されていて、それは2015.05.07記事「八千代市白幡前遺跡 墨書土器の文字の意味」で紹介しました。

上記「墨書・刻書文字の意味解読パターン 素案」は多文字墨書土器の例を参考にして、1文字あるいは2~3文字程度の墨書文字を対称にして作成したものです。

多文字のものとの最大の違いは、祈願内容を項目として含んでいることです。

多文字墨書土器と一般の単独文字をメインとする圧倒的多数の墨書土器とはその意義が全く異なると考えています。
2015.10.11記事「墨書土器の2大分類と鳴神山遺跡出土文字「丈」の分布」参照

このパターンをツールに自分なりに、当面は鳴神山遺跡の、その後は再び萱田遺跡群の、墨書文字の意味がどの項目に該当するのか検討していくことにします。

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感想

墨書文字の項目が遺跡間で大きく違うことがわかってきたので、その違いに着目して、遺跡の特性の違いをあぶり出すことができると考えます。

蝦夷戦争遂行という律令国家のベクトルを基準にすると、萱田遺跡群の方が大衆のこころざしが高く(使命実現を直接祈願語で表現している)、鳴神山遺跡の大衆は気持ちが内向きになっている(自分の使命を言葉で表現していない)ように感じます。

大衆を指導する者のこころざしの高低が、その者が発する言葉(祈願語)となって大衆の墨書土器文字として普及していったのだと思います。

鳴神山遺跡で大衆の気持ちが内向きになっていることと、この遺跡での銙帯出土が少ないという事実が相関すると考えます。

律令国家における官人の役割・指導力は大きなものがあったと考えます。

2015年10月15日木曜日

鳴神山遺跡の墨書文字「大」は大国主神と推定する

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.224 鳴神山遺跡の墨書文字「大」は大国主神と推定する

2015.10.14記事「鳴神山遺跡の墨書文字「久弥良」はクビラ(金毘羅)と推定する」で「久弥良」がクビラと読み、金毘羅を意味し、即ち大物主神の意味であることがわかりました。

この思考から芋づる式に次の思考展開するのは容易でした。

鳴神山遺跡の長文土器で大国主神が登場するものは2点あります。

「国玉神上奉 丈部鳥 万呂」と「大国玉罪」です。
特に、「大国玉罪」は「大」という文字を使っています。

支配層である丈部一族が「大国玉神」つまり「大国主神」を信奉していたことは確実になりました。

この情報から、鳴神山遺跡で最も多出する文字「大」「大加」の「大」は「大国玉」の「大」であり、つまり「大国主神」の意味であることを導くことができます。

「大加」の加は次の辞書説明にあるように、坏に酒を差し加えるということで捉えることができますから。
従って「大加」で「この坏に酒を注ぎ捧げますから、大国主神が私の祈願を実現してください」という意味になると思います。

くわえ くはへ【加】
〖名〗 (動詞「くわえる(加)」の連用形の名詞化)
① 加えること。増しふやすこと。たし。
② 酒を杯や銚子に差し加えること。また、それに用いる酒器。銚子や提子(ひさげ)の類。
●資勝卿記‐寛永一一年(1634)七月一八日「御銚子を将軍とらせられ、御しゃくにて主上へまいらせらるる、御くわへあり」
以下略
『精選版 日本国語大辞典』 小学館

「大」「大加」の大が大国主神ということになりましたから、鳴神山遺跡に次に示したような関係で大国主神と大物主神が共存して信奉されていたと推定できます。

鳴神山遺跡出土墨書土器で出現する大国主神と大物主神

労働層の一部に大物主神を信奉する集団が存在することから引き出せる意味にはいろいろなものがあると思います。

私が思い浮かぶ最初の意味は、鳴神山遺跡が蝦夷戦争における戦略的軍粮生産基地であったことから、律令国家が全国から技術者や労働者を動員して開発を行い、その動員されたメンバーの中に大物主神を信奉する一団が存在していたに違いないということです。

鳴神山遺跡に大国主神だけでなく大物主神が出現することは、この遺跡が全国規模で動員された人員によって開発されていたことを物語ると考えます。

同時に、鳴神山遺跡は信奉する神の違いなどよりも、現実の軍粮生産開発が優先されている軍事兵站基地であり、一般集落、一般農業集落などでは全くないことを物語っています。

2015年10月14日水曜日

鳴神山遺跡の墨書文字「久弥良」はクビラ(金毘羅)と推定する

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.223 鳴神山遺跡の墨書文字「久弥良」はクビラ(金毘羅)と推定する

墨書文字「久」、「久弥」、「久弥良」について検討します。

2015.09.27記事「鳴神山遺跡の墨書土器文字・熟語」で「久、久弥良、久弥は湿地における狩猟集団(水鳥猟集団)であると想像します。」と書きました。

その想像が当たっているかどうかは別にして、「久弥良」の読み方とその意味が判ってきましたので、この記事で記述します。

次に、鳴神山遺跡における「久」、「久弥」、「久弥良」の全情報を示します。

鳴神山遺跡における「久」、「久弥」、「久弥良」の全情報
千葉県出土墨書・刻書土器データベース(明治大学日本古代学研究所)から作成

「久」、「久弥」、「久弥良」は同じ遺構から出土することが多いので、「久」、「久弥」は「久弥良」の略語であると考えます。

「久弥良」の画像を参考に示します。

「久弥良」線刻 Ⅰ042竪穴住居出土
千葉県出土墨書・刻書土器データベース(明治大学日本古代学研究所)から引用

「久弥良」線刻 Ⅰ049竪穴住居出土
千葉県出土墨書・刻書土器データベース(明治大学日本古代学研究所)から引用

「久」、「久弥」、「久弥良」の分布図を次に示します。

文字「久」「久弥」「久弥良」出土分布図

内側の環状道路より北側にそのほとんどが分布します。また分布遺構が散らばっていることも特徴です。

「久、久弥良、久弥は湿地における狩猟集団(水鳥猟集団)であると想像」すると、余りに広域に分布していてすこし不自然です。
他の情報がないのでそれ以上の考察はできませんが、狩猟集団であるとの考えの信頼度は低下しました。

次に、「久弥良」の読みについて検討します。

弥、弥の旧字彌、弥の本字镾を調べましたが字音は「ビ」「ミ」です。
「イヤ」「ヤ」は国字(和字)の読みです。

国語学の知識があるわけではないので、直感レベルの考察ですが、ここでは弥をビと読んでみました。

「久弥良」がクビラと読めます。

「クビラ」を辞書で引くと、金毘羅の意味になります。

くびら【宮毘羅・倶毘羅】
(梵 Kumbhīra の訳語。「金毘羅(こんぴら)」とも訳す) 仏語。薬師如来の十二神将の一つ。また、仏法守護の夜叉神王の上首をいう。武装し、忿怒(ふんぬ)の姿をとる。宮毘羅大将。こんぴら。

『精選版 日本国語大辞典』 小学館

金毘羅は大物主神と考えられています。

こんぴら【金毘羅・金比羅】
 (梵 Kumbhīra 「宮毘羅(くびら)」とも訳す。鰐の意) 仏語。薬師十二神将の一つ。また、仏法守護の夜叉神王の上首。武装し、忿怒の姿をとるが、持物は一定しない。大物主神(おおものぬしのかみ)はこの垂迹(すいじゃく)の姿といい、海神として信仰され、香川県の象頭山(ぞうずさん)の金刀比羅(ことひら)宮にまつられている。金毘羅大将。金毘羅童子。
『精選版 日本国語大辞典』 小学館

大物主神は大国主神をサポートして国づくりを担った神です。

おおものぬしのかみ 大物主神
日本神話にみえる神の名。▶大神〘おおみわ〙神社の祭神。モノは魔物をいい,ヌシは頭領の意。記紀の伝える▶三輪山伝説によると,この神は蛇体であり岩窟に住んでいた。また崇神天皇の代にこの神のたたりで疫病がはやり人民が飢え苦しんだので,その子孫の▶大田田根子に祭らせたところ,天下は安定したともいう。魔物の頭目として大和地方でもっとも土着性の強い国津神〘くにつかみ〙の一つだが,このオオモノヌシが記紀神話の伝承の中でとくに目だつのは,▶大国主神〘おおくにぬしのかみ〙の分身として国作りに協力し,国譲りの後はもろもろの国津神を率いて宮廷を守護したとされている点である。《出雲国造神賀詞〘いずものくにのみやつこのかむよごと〙》にも,オオクニヌシが己の和魂〘にぎたま〙としてこの神を三輪山に居させ〈皇孫命〘すめみまのみこと〙の近き守り神〉にしたとある。これらの伝承は,宮廷が各地の豪族を次々と服属させ,国津神たちを逆に己の守護神へと仕立て上げていったいきさつを,オオモノヌシに典型化して語ったものである。
『平凡社 改訂新版 世界大百科事典』 日立ソリューションズ

そして、面白いことに、大物主神が協力した大国主神の神名が、墨書土器として出土しています。

「国玉神上奉 丈部鳥 万呂」です。
その出土地を上掲分布図に参考としてプロットしました。

国玉神は国魂神で大国主神です。

くにたまのかみ  国魂神
国霊神,国玉神とも書く。日本人固有の神霊に関する信仰の一形態で,国土そのものの神霊をいう。《古事記》《日本書紀》などの,いわゆる〈国生み神話〉によれば,〈大八洲〘おおやしま〙〉すなわち日本の国土は,天津神のみことのりによって伊弉諾〘いざなき〙尊と伊弉冉〘いざなみ〙尊の男女の性の交わりを通して生まれたとされている。また,生まれた島々も〈淡道之穂之狭別〘あわじのほのさわけ〙〉(淡路島),〈愛比売〘えひめ〙〉(伊予国),〈飯依比売〘いいよりひめ〙〉(讃岐国)のように,男女を区別する名で呼ばれている。このように,古代日本人は国や島を人格的なものと考え,一定の区域内にはそれぞれの国魂が内在し,そのはたらきによって国土が成長し発展すると考えた。これが〈国魂神〉の観念である。したがって,〈国生み神話〉は,元始に神が天地を〈創造〉したとする旧約聖書の世界観とは,本質的に異なるものである。やがて,幾つかの国魂を総称した魂が考えられるようになった。これが〈大国魂〘おおくにたま〙神〉の信仰である。大国魂神は〈大年〘おおとし〙神の子〉,または〈大国主神〉とも言われている(《古事記》《日本書紀》《古語拾遺》)が,本来は幾つかの国魂の総称,あるいは,最高の国魂と考えられたものであろう。《延喜式》によれば,国魂神をまつった神社には〈国玉神社〉(和泉国,尾張国),〈国玉命神社〉(伊豆国)などがある。また,東京都府中市の〈大国魂神社〉は著名である。
『平凡社 改訂新版 世界大百科事典』 日立ソリューションズ


支配集団丈部(ハセツカベ)一族の書いた多文字墨書土器に出てくるのが、大国主神であり、労働集団が祈願語として使ったのが、大物主神であるという対照からくみ取ることができる意味は大きなものがあると考えます。

この記事では、「久弥良」をクビラと読み金毘羅=大物主神を意味し、同時に同じ遺跡から大国主神が出土しているという推定&事実を示し、今後の検討対象として面白いという指摘にとどめます。

2015年10月13日火曜日

千葉県における墨書文字「丈」の分布から浮かび上がる鳴神山遺跡の特性

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.222 千葉県下墨書文字「丈」の分布から浮かび上がる鳴神山遺跡の特性

この記事では千葉県下の「丈」出土分布を見て、鳴神山遺跡の特性について検討します。

2015.10.11記事「墨書土器の2大分類と鳴神山遺跡出土文字「丈」の分布」で鳴神山遺跡の「丈、丈部」出土について検討しました。

「丈部」(ハセツカベ)は「781(天応元)年1月、下総国印播郡の大領の丈部直牛養は、軍粮を差し出した功績により外従五位下を授けられている。」(千葉県の歴史通史編古代2)の丈部一族に結び付けて考えることができると考えました。

また、鳴神山遺跡で多出する「丈」は直接「丈部」一族が書いたものではなく、ツエ「杖・筇・丈」と読み補佐するものという意味であり、支配層とは一応分離している職種職能集団が書いたものであったと考えました。

しかし、よくよく考えると、「丈部」(ハセツカベ)が支配者として君臨している集落で、読み方を違えても同じ文字「丈」を使うのですから、「丈部」(ハセツカベ)の権勢をバックに利用した集団であることは間違いありません。虎の威を借りた祈願語です。

ですから、「丈」(つえ)は近目でみれば支配一族には直接含まれない集団ですが、遠目にみれば「丈部」(ハセツカベ)一族に密接したその関連集団であるということになります。

このような検討を踏まえて、千葉県下の「丈、丈部」分布をみてみます。

まず、一覧表で整理すると次のようになります。

墨書土器文字「丈、丈部」出土数

千葉県下では45遺跡から102史料が出土していて、そのうち12史料が「丈部」となっています。

鳴神山遺跡が「丈、丈部」でも「丈部」でもトップであることが大変特徴的です。

これを分布図にしてみます。

次の分布図は「丈部」も含めて「丈」全ての出土分布図です。

墨書土器文字「丈、丈部」出土数

鳴神山遺跡だけが孤立して出土数が多いのではなく、鳴神山遺跡、船尾白幡遺跡、西根遺跡及びすぐ近くの印旛沼対岸の上谷遺跡、栗谷遺跡さらに権現後遺跡、北海道遺跡、村上込の内遺跡に「丈、丈部」分布が集中しています。

成田や佐倉など古代社会の中心域ではなく、地勢的に東京湾水系(花見川)に近い印旛浦の奥の分布が特段に濃くなっています。

千葉県における「丈、丈部」分布の中心は東京湾水系隣接の奥印旛浦であると断言できます。

次の分布図は「丈部」だけの出土分布図です。

墨書土器文字「丈部」出土数

「丈部」分布の中心も東京湾水系隣接の奥印旛浦であると断言できます。

この分布図から「781(天応元)年1月、下総国印播郡の大領の丈部直牛養は、軍粮を差し出した功績により外従五位下を授けられている。」(千葉県の歴史通史編古代2)という記述の人物丈部直牛養(ハセツカベノアタイウシカイ)の軍粮調達のメイン根拠地域が東京湾水系隣接の奥印旛浦地域であると考えることが合理的です。

丈部直牛養のメイン根拠地域のなかでも最大の根拠地が鳴神山遺跡であった可能性が濃厚です。

萱田遺跡群が蝦夷戦争の兵站・軍事基地であると考えましたが、それが首肯されるとともに、鳴神山遺跡が蝦夷戦争兵站のための巨大軍粮(軍隊のための食糧)生産基地であったという特性が浮かびあがりました。

鳴神山遺跡が巨大軍粮生産基地であったので、生産活動はすべて高度な組織活動として実施され、その結果として墨書土器出土数が千葉県最大になったと考えます。

東京湾水系に隣接する印旛浦の奥に蝦夷戦争の兵站・軍事基地群が作られたことと、その場所が東海道水運支路(仮説)のルートにあたるということは、偶然の一致ではなく、双方は律令国家が実施した一つの総合計画的開発の結果だと考えます。この点は、今後さらに検討を深めます。

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参考
参考 千葉県墨書土器出土イメージ

千葉県墨書土器出土イメージ
墨書土器の出土とは、その場所で官人が主導するプロジェクトが実施された跡、組織活動が行われた跡であると考えます。

墨書土器数も、東京湾水系に隣接する印旛浦の奥が千葉県下で最大の密集出土域であり、この地域で古代における組織活動が最も盛んであったことを物語っています。

参考 千葉県の遺跡別銙帯出土数
銙帯は官人が身に着けるものであり、その出土数は大局的には官人の人数に比例すると考えます。

銙帯は成田や佐倉など古代社会の中心であった地域に最も濃く分布し、その場所が行政や政治権力の中枢地域であったことを物語っています。

萱田遺跡群、村上込の内遺跡付近も比較的分布が濃くなっています。

ところが、鳴神山遺跡及び近隣では銙帯の出土はありますが、特段に濃密になっていません。

鳴神山遺跡の特性を考える上で大変特徴的です。

鳴神山遺跡は行政管理機能は弱く、ひたすら生産に励む現場だったのだと思います。

イメージ的比喩的に考えれば鳴神山遺跡は現代の巨大建設工事現場みたいな性格があったと考えます。

建設工事現場では目標に向かって作業部隊が組織的に運用されます。しかしその現場では、一般社会のような土地に根付いたコミュニティはありません。土地に根付いたコミュニティを維持発展管理させるための行政サービスは不必要です。
また、この場所に周辺広域地域の行政中心機能を設ける必要性も全くありません。
建設工事現場で必要なことは作業部隊構成員を実務的に日々動員して労働に従事させることです。

鳴神山遺跡でも同じように、作業部隊構成員の労務管理をする親方がいればよかったのだと思います。
鳴神山遺跡では官人はあまり必要としなかったのだと思います。

関連記事
2015.09.05記事「墨書土器出土数からみた鳴神山遺跡」
2015.09.07記事「銙帯出土情報から考える鳴神山遺跡の意義」
2015.09.08記事「銙帯出土数と墨書土器出土数のアンバランス」

2015年10月12日月曜日

2015.10.12 今朝の花見川

今朝は、私が最も美しいと感じる花見川風景パターンになりましたので、厳選写真を特大で掲載します。

夜明け前の雲の朝日反射
地表に光がまだあたっていない時間で上空3000m位の雲だけ光っていて、印象的な空の光景です。
このように雲が特段に明るく光るためには、太陽と雲と私の位置の組み合わせが一定の条件下で揃わなければなりません。時間的には数分も続きません。
雲の位置が自分の位置から離れるとボンヤリ明るい(赤い)だけになり、輝きません。

花見川の風景

弁天橋から下流

弁天橋から上流
光る雲の列が空間に構造を与えていて、また光る雲が水面に反射していて、華やかな風景になっています。
太陽そのものが雲に隠れたので生まれた光景です。
この光景も太陽、雲、水面と私の位置が特定の条件下でしか生じません。

2015年10月11日日曜日

墨書土器の2大分類と鳴神山遺跡出土文字「丈」の分布

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.221 墨書土器の2大分類と鳴神山遺跡文字「丈」の分布

鳴神山遺跡出土墨書土器の文字別分布検討を続けています。

この記事では「丈」の分布検討を行います。

「丈」が出てくる墨書土器は1文字あるいは熟語だけでなく、長文墨書土器が3つも含まれています。

そこで、分布そのものの検討の前に、長文墨書土器と1文字・熟語墨書土器の違いについて、私がこれまでに検討して得てきた事柄をまず紹介して、その違いを踏まえて「丈」分布を検討します。

1 長文墨書土器と1文字・熟語墨書土器の違い

墨書土器分類の想像的予備検討

同じ墨書土器で、同じように文字が書かれていても、長文土器・人面土器と1文字・熟語土器ではその意義等が全く異なると考えます。

集落支配者が集落全体等に文化的威圧を与えるために書いたものと、一般住民が支配者の指導の下に墨書を書き、支配者が望む労働遂行の祈願のためにつかわれたものを一緒に考えるわけにはいかないという趣旨のメモです。

2 鳴神山遺跡の文字「丈」の出土分布

鳴神山遺跡の文字「丈」の出土分布は次の通りです。

鳴神山遺跡の文字「丈」の出土分布

3点の「丈部」を含む出土とⅢ208竪穴住居の「丈」出土を分けて検討します。

2-1 3点の「丈部」を含む長文土器
「国玉神上奉 丈部鳥 万呂」、「丈尼丈部山城方代奉/丈尼」、「同□[ ]丈部ヵ刀自女召代進上」の3点の長文土器は何れも文字「丈部」を含んでいます。

「丈部」(ハセツカベ)は「781(天応元)年1月、下総国印播郡の大領の丈部直牛養は、軍粮を差し出した功績により外従五位下を授けられている。」(千葉県の歴史通史編古代2)の丈部一族に結び付けて考えることができる、鳴神山遺跡の有力支配層一族であると考えます。

その支配層の書いた墨書土器分布は、支配層が実際に居住した場所を表現していると考えます。

特に、「国玉神上奉 丈部鳥 万呂」と「丈尼丈部山城方代奉/丈尼」が隣接した遺構から出土しています。
この2つの「丈部」を含む長文土器出土域付近が鳴神山遺跡の支配層居住地であり、政治権力上の中心地で在ったと考えます。

また、長文土器が3点の出土域をゾーンとして捉えると、それは「大」「大加」集団と「依」集団を割って分布し、その双方を分離して支配しているように感じることができます。

参考 文字「大」出土分布図

参考 文字「大加」出土分布図

参考 文字「依」出土分布図

2-2 Ⅲ208竪穴住居から出土する多数の文字「丈」

「丈部」を含む長文土器の分布から離れて、Ⅲ208竪穴住居から多数の「丈」が出土します。

このブログでは「丈」と「丈ヵ」だけを集計していますが、集計していない「他の文字の可能性もあるもの」を含めると14史料が出土します。

鳴神山遺跡 釈文「丈」関連データ

この1文字「丈」墨書土器は、「丈部」を含む長文土器出土域(つまり支配層居住地)から離れていることと、1文字で多数出土することから、同じ「丈」でも同列に扱えないと考えます。

分布情報だけから結論を得ることはできませんが、次のような可能性を考えます。

1 「丈部」という名称を使えた一族でも、その末端は非支配層に零落していて、他の一般住民と同じように「丈」を祈願語として使い、労働に励んだ。

2 「丈」は「丈部」(ハセツカベ)という氏族名ではなく、ツエ「杖・筇・丈」と読み補佐するものという意味であり、支配層とは関係がない職種職能集団であった。

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参考
つえ つゑ【杖・筇・丈】
〖名〗
① 竹や木などで作り、手に持ち地面について、歩行のたすけとする棒。じょう。
●古事記(712)中「爾に其の御杖(つゑ)を、新羅の国主の門に衝き立てて」
●浮世草子・近代艷隠者(1686)二「笻(ツエ)に小話(ささやき)、笠にわらひ」
② たよりとするもの。補佐するもの。
●書紀(720)垂仁二五年三月(熱田本訓)「天皇倭姫命を以て御杖(みツヘ)と為て」
●二人女房(1891‐92)〈尾崎紅葉〉下「老の杖(ツヱ)となるのは周三ぐらゐの事は隠居も心得てゐる」
以下略
『精選版 日本国語大辞典』 小学館
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現時点では2の可能性が高いと考えています。