花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.222 千葉県下墨書文字「丈」の分布から浮かび上がる鳴神山遺跡の特性
この記事では千葉県下の「丈」出土分布を見て、鳴神山遺跡の特性について検討します。
2015.10.11記事「墨書土器の2大分類と鳴神山遺跡出土文字「丈」の分布」で鳴神山遺跡の「丈、丈部」出土について検討しました。
「丈部」(ハセツカベ)は「781(天応元)年1月、下総国印播郡の大領の丈部直牛養は、軍粮を差し出した功績により外従五位下を授けられている。」(千葉県の歴史通史編古代2)の丈部一族に結び付けて考えることができると考えました。
また、鳴神山遺跡で多出する「丈」は直接「丈部」一族が書いたものではなく、ツエ「杖・筇・丈」と読み補佐するものという意味であり、支配層とは一応分離している職種職能集団が書いたものであったと考えました。
しかし、よくよく考えると、「丈部」(ハセツカベ)が支配者として君臨している集落で、読み方を違えても同じ文字「丈」を使うのですから、「丈部」(ハセツカベ)の権勢をバックに利用した集団であることは間違いありません。虎の威を借りた祈願語です。
ですから、「丈」(つえ)は近目でみれば支配一族には直接含まれない集団ですが、遠目にみれば「丈部」(ハセツカベ)一族に密接したその関連集団であるということになります。
このような検討を踏まえて、千葉県下の「丈、丈部」分布をみてみます。
まず、一覧表で整理すると次のようになります。
墨書土器文字「丈、丈部」出土数
千葉県下では45遺跡から102史料が出土していて、そのうち12史料が「丈部」となっています。
鳴神山遺跡が「丈、丈部」でも「丈部」でもトップであることが大変特徴的です。
これを分布図にしてみます。
次の分布図は「丈部」も含めて「丈」全ての出土分布図です。
墨書土器文字「丈、丈部」出土数
鳴神山遺跡だけが孤立して出土数が多いのではなく、鳴神山遺跡、船尾白幡遺跡、西根遺跡及びすぐ近くの印旛沼対岸の上谷遺跡、栗谷遺跡さらに権現後遺跡、北海道遺跡、村上込の内遺跡に「丈、丈部」分布が集中しています。
成田や佐倉など古代社会の中心域ではなく、地勢的に東京湾水系(花見川)に近い印旛浦の奥の分布が特段に濃くなっています。
千葉県における「丈、丈部」分布の中心は東京湾水系隣接の奥印旛浦であると断言できます。
次の分布図は「丈部」だけの出土分布図です。
墨書土器文字「丈部」出土数
「丈部」分布の中心も東京湾水系隣接の奥印旛浦であると断言できます。
この分布図から「781(天応元)年1月、下総国印播郡の大領の丈部直牛養は、軍粮を差し出した功績により外従五位下を授けられている。」(千葉県の歴史通史編古代2)という記述の人物丈部直牛養(ハセツカベノアタイウシカイ)の軍粮調達のメイン根拠地域が東京湾水系隣接の奥印旛浦地域であると考えることが合理的です。
丈部直牛養のメイン根拠地域のなかでも最大の根拠地が鳴神山遺跡であった可能性が濃厚です。
萱田遺跡群が蝦夷戦争の兵站・軍事基地であると考えましたが、それが首肯されるとともに、鳴神山遺跡が蝦夷戦争兵站のための巨大軍粮(軍隊のための食糧)生産基地であったという特性が浮かびあがりました。
鳴神山遺跡が巨大軍粮生産基地であったので、生産活動はすべて高度な組織活動として実施され、その結果として墨書土器出土数が千葉県最大になったと考えます。
東京湾水系に隣接する印旛浦の奥に蝦夷戦争の兵站・軍事基地群が作られたことと、その場所が東海道水運支路(仮説)のルートにあたるということは、偶然の一致ではなく、双方は律令国家が実施した一つの総合計画的開発の結果だと考えます。この点は、今後さらに検討を深めます。
……………………………………………………………………
参考
参考 千葉県墨書土器出土イメージ
千葉県墨書土器出土イメージ
墨書土器の出土とは、その場所で官人が主導するプロジェクトが実施された跡、組織活動が行われた跡であると考えます。
墨書土器数も、東京湾水系に隣接する印旛浦の奥が千葉県下で最大の密集出土域であり、この地域で古代における組織活動が最も盛んであったことを物語っています。
参考 千葉県の遺跡別銙帯出土数
銙帯は官人が身に着けるものであり、その出土数は大局的には官人の人数に比例すると考えます。
銙帯は成田や佐倉など古代社会の中心であった地域に最も濃く分布し、その場所が行政や政治権力の中枢地域であったことを物語っています。
萱田遺跡群、村上込の内遺跡付近も比較的分布が濃くなっています。
ところが、鳴神山遺跡及び近隣では銙帯の出土はありますが、特段に濃密になっていません。
鳴神山遺跡の特性を考える上で大変特徴的です。
鳴神山遺跡は行政管理機能は弱く、ひたすら生産に励む現場だったのだと思います。
イメージ的比喩的に考えれば鳴神山遺跡は現代の巨大建設工事現場みたいな性格があったと考えます。
建設工事現場では目標に向かって作業部隊が組織的に運用されます。しかしその現場では、一般社会のような土地に根付いたコミュニティはありません。土地に根付いたコミュニティを維持発展管理させるための行政サービスは不必要です。
また、この場所に周辺広域地域の行政中心機能を設ける必要性も全くありません。
建設工事現場で必要なことは作業部隊構成員を実務的に日々動員して労働に従事させることです。
鳴神山遺跡でも同じように、作業部隊構成員の労務管理をする親方がいればよかったのだと思います。
鳴神山遺跡では官人はあまり必要としなかったのだと思います。
関連記事
2015.09.05記事「墨書土器出土数からみた鳴神山遺跡」
2015.09.07記事「銙帯出土情報から考える鳴神山遺跡の意義」
2015.09.08記事「銙帯出土数と墨書土器出土数のアンバランス」
0 件のコメント:
コメントを投稿