2011年11月15日火曜日

河岸段丘のでき方

花見川河川争奪を知る42 花見川河川争奪の成因検討3 クーラーの説17
oryzasan氏コメントに対する感想2

4 河岸段丘のでき方について
ア 堆積物確認の大切さ
堆積物確認なくして河岸段丘と軽やかに呼ぶことはできないとのoryzasan氏のご指摘は、その通りだと思います。
少なくとも堆積物確認の最大限の努力は必要だと思います。
このブログの現段階は、堆積物確認など地質学的証拠を集めるための予備調査・予察調査段階であると認識していただければ幸いです。

イ 河岸段丘のできかた
河岸段丘のでき方には、oryzasan氏のおっしゃったもの以外に、主として浸食によるものもあると思います。
その場合、段丘堆積物は薄かったり、欠落したりすると思います。
河川争奪の成因を考える際に、河岸段丘について花見川と近傍河川(高津川の各支川、勝田川の各支川等)の比較が必須になります。
そういう意味で、この地域における河岸段丘のでき方について基礎から学習したいと思います。
なお、私は根拠をあまり持たずに、下横戸や柏井・花島に存在するほとんどすべての河岸段丘が浸食段丘であり、堆積物は薄いか欠落していると思っていました。
oryzasan氏の、河岸段丘が氾濫原堆積物から構成されているという真逆のイメージに戸惑うとともに、自分の盲点を指摘されたような気づきが生まれました。
柏井付近はいうならば盆地であり、堆積物が多いのかもしれない。ひょっとすると湖成堆積物があるのかもしれない。そんなイメージが脳裏を横切っています。

ウ 氾濫原の幅の不自然さについて
oryzasan氏は柏井付近の川幅が北に向かって急変する不自然さをご指摘になりました。
「上流は狭く、下流は広い」は一般論ではそうですが、現実には、川幅は近傍河川をみて確認できるように、意外と変化します。
普請の盛土を剥げば、川幅や段丘面の「急変」は、印象的には緩和されると思います。
しかし、下流(北)に向かって川幅(特に谷底幅)が狭くなるのは“重要な”事実だと思います。
重要性の理由は、古柏井川は先行谷となっており、川幅減少区間が地殻上昇域を示す指標であるからです。
浸食のエネルギーを下刻に使い側刻には使えなかったため、川幅が狭まっているためだと思います。
隣の芦太川でも、旧版地形図や米軍空中写真から、類似の現象が観察できます。
芦太川の姿

エ 花島付近の平坦面について
花島付近の平坦面も古柏井川のかつての谷底であると想定しています。
浸食面であり、堆積物は薄いという先入観念をもっていますが、oryzasan氏のコメントを読んで、本当はどうだろうかと新鮮な興味が湧いています。
現場で地質学的証拠を確認できる方法があるのか、今後検討したいと思います。
なお、米軍撮影空中写真実体視では花島観音の乗る地形が「島」であるように認識できます。
軽率ですが、これまでそのように理解していませんでした。
また、ある文献では、島と台地の間を江戸時代に埋立したとの記録もあるようです。
この「島」(台地の削り残し)が河川争奪と関係ある地形かもしれないと思い、言葉にできる根拠はありませんが、何か気がかりです。

また、話しは大きく飛びますが、「ハナ-シマ」地名が縄文語由来で、「ハナ-ミ」や「ハナ-ワ」などと同族であり、自然地形・環境に関わるものと考えてきました。
そして、ハナシマのシマは別の地形を想定していました。今回、本当の「島」を発見して、地名の真の由来がここにあると考えるようになりました。
花島の姿

オ 平坦面の人為起源について
平坦面(段丘面)が実は人為的起源ではないかとのご指摘は十分に検討することが必要である大切な検討事項であると思います。今後検討したいと思います。
私は、地形面を利用して生活の場とし、その地形面を多少改変することはあると思っています。しかし、地形面(と観察できるような地形)を最初から造成して、生活の場とするようなことはほとんどないと考えて差し支えないと思っています。

2011年11月14日月曜日

ボーリング柱状図の解釈など

花見川河川争奪を知る41 花見川河川争奪の成因検討3 クーラーの説16
oryzasan氏コメントに対する感想1

oryzasan氏から2011.11.8に3回目のコメントをいただき、このブログの「ページ」に全文掲載してあります。
このコメントの中で、oryzasan氏からボーリング柱状図やその解釈など、とても有益な情報を提供していただきました。改めて感謝申し上げます。

このコメントに対する私の感想を記事にして2回掲載します。
ブログ記事としては、微細すぎるかもしれない検討もありますが、花見川に対する認識を深めるために必要であると思いますので、ご容赦ください。

次の項目について述べます。
1 地質学的事実の裏付けの重要性
2 横戸の「谷状地形」について
3 ボーリング柱状図の解釈について
4 河岸段丘のでき方について

*    *     *

1 地質学的事実の裏付けの重要性
コメントの中でoryzasan氏より地質学的事実の裏付けの重要性についてご指摘がありました。
このご指摘については、全く異論のないところです。
河川争奪の全体像を真に明らかにするためは地質学的事実の裏付けが不可欠だと思います。
地質学的事実の裏付けをどのような方法でとるのか、今後検討していきたいと思います。
現在私が検討している事柄は地質学的事実の裏付けを取る前の予察作業であるといっても過言ではありません。
そういう意味で、今回のコメントはとても興味深いもので、ありがたいです。
oryzasan氏のご指導をよろしくお願い申し上げます。

2 横戸の「谷状地形」について
ア「谷状地形」について
言葉尻を捉えるようですが、(川側から順番に)盛土斜面があって、平坦面と急斜面があるのであり、確かに谷状ですが、もともとの谷があるわけではありません。
千葉第Ⅰ段丘に連続する地形面(平坦面)があるのです。
ですから、その地形面を構成する堆積物を調べることができれば、その上部には(千葉第Ⅰ段丘と同じ層序の)関東ローム層の存在が想定されます。
「しかしそのような古い谷が、その後のローム層の降灰によって埋められることが無く、残っているものだろうかという疑問も感じます。」は勘違いと思います。

イ 横戸の花見川東岸の露頭
千葉第Ⅰ段丘に連続する平坦面は演習線路鉄橋跡付近で西岸の方向に向かってしまい、oryzasan氏のおっしゃる通り、露頭位置にはこの平坦面は存在しないと思います。
なお、この露頭位置の斜面は戦後の印旛沼開発工事で掘削されています。その影響で、本来関東ローム層の上に乗る普請掘削土が現場ではたまたま観察できなかったのだと思います。
そのため柱状図には掘削土が記載されていないのだと思います。

平成3年の夏にこの斜面で山火事があり、斜面全体の地層が見えた時期がしばらく続いていたことを覚えています。

3 ボーリング柱状図の解釈について
ア B-A断面の別解釈
実際の地層観察をしていない私が、柱状図の解釈について考えを述べるということもいかがなものかと思いますが、お叱りを覚悟の上、一つの解釈をさせていただきます。

B-A断面の柱状図の対比を赤線のようにすることができないだろかということです。
B-A断面の別解釈

oryzasan氏の対比では、12175の2層の青層(粘土層)のどちらが、12180の1層の青層に対比されるか判然としません。
そこで、下部の青層が対比されると考えると、高度との関係も良くなり、対比がスムーズになるような気がします。
また12175のローム層の方が12180より厚くなっています。
そこで、赤線で示したように、12175の地層の途中(上部青層付近とローム層下部)が12180では欠落していると対比させたとします。
このように対比させると、地形面(段丘面)の発達解釈と整合的になります。
常総粘土層の最上部と関東ローム層の一部を削り込む地形面(段丘面)の存在を想定することになります。

12176と12175は台地面の、12180と12177は台地を削る地形面(段丘面)の地層柱状図であり、12177ではローム層上部が掘削と盛土により攪乱されていると解釈します。

イ 112489の解釈
112489のoryzasan氏の柱状図解釈は一つの優れた専門的見識だと思います。
盛土に埋没した地形面について考えている自分にとって「援軍来る」という感じがします。

一方、oryzasan氏には大変失礼だとは思いますが、ボーリングポイントは盛土部を後世に開削した場所です。
またローム層が分厚いことなどから、斜面掘削とその後のローム二次堆積を示している柱状図であると解釈することも捨てられません。
逡巡しています。

(つづく)

2011年11月13日日曜日

古柏井川の地形

花見川河川争奪を知る40 花見川河川争奪の成因検討3 クーラーの説15

これまでの記事ではモデル断面を例に古柏井川の横断形について復元検討をしてきました。 この考えを平面形に敷衍して、古柏井川の地形復元図(想定)を作成しました。
古柏井川地形復元図(想定)
基図は旧版1万分の1地形図使用

復元想定した要素は、谷壁斜面上端線と谷底・平坦面です。

次の図は沖積面(河川争奪後に古柏井川の谷底・平坦面を刻んだV字谷の沖積面)も加え、古柏井川の地形復元を模式的に示しました。
古柏井川地形復元模式図(想定)
基図は旧版1万分の1地形図使用

*    *    *

横断的検討、平面的検討により、古柏井川の古地理・古地形の復元をしてみましたが、わかった主要事項を次に整理しました。

ア 谷壁斜面上端線の確認
現在の地形に惑わされることなく、古柏井川の谷壁斜面上端線の復元を行うことができました。

イ 谷底・平坦面(段丘)の分布把握
柏井付近と下横戸付近の現在の河岸段丘の存在・形状から外挿的に発想し、また古文書(断面図、透視絵図)による情報を拠りどころにして、谷底・平坦面の分布を復元しました。

ウ 谷底高度の把握
古文書(断面図、天保期堀割普請後の資料)、古地図、印旛沼開発工事資料等から人工改変以前の古柏井川谷底高度を復元把握しました。

エ 古柏井川を刻む沖積地形の把握
古文書から柏井付近と下横戸付近で古柏井川の谷底を刻む沖積地形の存在を把握しました。(柏井付近…水田利用、下横戸付近…溜池利用)

なお、古柏井川の谷底と平坦面(段丘)が柏井付近・下横戸付近の河岸段丘とどのように対比されるのか、仮想案はつくりましたが、実証できていません。

(oryzasan氏コメント2011.11.8に対する感想を次記事以降で述べたいと思います。)

2011年11月12日土曜日

3期・4期の地形横断変遷

花見川河川争奪を知る39 花見川河川争奪の成因検討3 クーラーの説14
3期地形横断復元7

次に、3期・4期の地形横断変遷をモデル断面について、時間を追って見てみます。

1 3期(河川争奪後~普請前)の地形
3期地形横断

柏井で前谷津と後谷津を花見川に争奪されているため、空川になっている古柏井川の地形横断想定です。
空川となっている谷底面は、北柏井の集落の乗っている段丘面に対比される地形面であり、勝田川河岸段丘の千葉第Ⅱ面に対比されるものとして仮想しました。
その高さは12~15mと想定されます。
西岸寄りに段丘面(15~18m)の存在が想定されます。
この段丘面は柏井付近より南の高位段丘、勝田川の千葉第1段丘に対比されるものとして仮想しました。
川幅(谷津の台地浸食幅)250m程度、川の深さは10m~13m程度の谷であったと想定されます。

2天明期普請後の地形
天明期普請後の地形横断

享保期の普請と天明期の普請後、自然地形の谷底を3~5m程度掘り下げ、その土を主に西岸河岸段丘の上に捨土したと考えられます。
この地形横断は天保期普請の工事書類から判明しました。

この時の東岸の急斜面、西岸の河道付近の急斜面(天明期普請で掘削した斜面)、平坦面(捨土場であった段丘面)、谷上部の斜面が続保定記の絵図に表現されています。
続保定記絵図の地形表現
続保定記絵図の地形認識の断面上の対応

この断面図は水平距離を極端に圧縮して全部を一目でわかるように表現してありますが、垂直:水平=1:1にして、観察者の背丈とこの図のスケールを同一にした場合、観察者は続保定記絵図にあるような地形認識を持つことができます。

3天保期普請後の地形
天保期普請後の地形

天明期普請でつくられた古堀を約5m掘り下げ、残土を東岸の台地面縁と西岸の天明期捨土場上に捨土しました。
天保期普請では、モデル断面付近(高台付近)で東岸斜面を主に掘削して河道をつくろうとしています。
その理由として、洪水を流す線形をこの付近で東岸にカーブさせるという工学的配慮の存在が1つ考えられます。同時に天明期普請で土工量の少ない西岸段丘斜面を掘削し、その残土を段丘面上に捨土しましたが、その工事跡を触りたくなかったという事情があったと想像します。
高所にある捨土場を下から再度掘削するとなると崩れや滑りが発生し、当時の技術力では工事管理上の収拾がつかなくなることを恐れ、土工量は多少大きくなるが地山掘削の方を選んだのではないかと想像します。

4 戦後印旛沼開発工事前後の地形
戦後印旛沼開発工事前と現在の地形

戦後印旛沼開発工事前の谷底の高さは天保期の堀床の高さより3.5mほど高くなっています。その理由は土砂流入により自然に埋立が進んだものと考えられます。
戦後の印旛沼開発工事では、東岸斜面の掘削を行い河道幅を確保し、谷底を6m弱掘削しています。
天保期普請でつくられた谷地形と比較すると2mほど深く掘削しています。

2011年11月10日木曜日

ディスプレイ上の空中写真実体視

既報のとおり、1949年撮影米軍空中写真を国土地理院WEBサイトからダウンロードして、ディスプレイ上で裸眼実体視し、地形分類図を作成しました。
その感想を参考までに述べます。

下の画像は、左27インチ、右24インチのデュアルディスプレイで運用している画面の様子をプリントスクリーンで取得したものです。
空中写真裸眼実体視画面

画面右側ではフォトショップを立ち上げています。
連番2枚の空中写真のファイルを開き、それぞれ同じスケールで拡大したものです。
一方のファイル画面を移動して、自分の実体視しやすい場所に移動し、実体視します。
実体視しながら、一方の写真に(新規レイヤーを作って、その上に)界線を記入し、塗色します。
塗色は半透明にして、実体視と区分の双方の情報が判るようにします。

確かめていませんが、他の画像ソフトでも同じような作業が可能であると思います。

ディスプレイ上で実体視すると、画像の拡大縮小をその場で自由にできるので、きわめて効率的に作業ができます。
快適です。
これは印画紙による実体視では不可能です。

また、単写真では拡大しすぎて、画像が荒くなり地物の判別がしにくくなったものでも、実体視すると地物の3D像がよくわかることも初めて体験的に知りました。

このような作業がパソコンディスプレイ上で可能であることを偶然発見し、大感激しています。

画面左側ではGISソフト地図太郎を立ち上げ、千葉市から提供していただいたDMデータを表示しています。
このソフトでももちろん拡大縮小により、空中写真の表示に対応した地図表示を自由につくることができます。
この地図表示画面に新規レイヤーを被せ、画面左側で写真上に作成した地形分類図界線を等高線等を確認しながら、転写します。

このような手作業がほとんどマウスだけで出来て、結果が全て電子ファイルとして残り再利用できるということに、いまさらですが、感動しています。

*   *   *

これほど世の中が進歩したのだから、

ア 空中写真のオルソ化(GISに空中写真を取り込むための歪みの補正)を、個人のパソコンで実現したい
イ 空中写真の実体視で3D感覚できる地形起伏の量を、個人パソコンで測りたい

と欲張った夢想が頭をよぎりました。

アについては、WEBで調べたところ、数十万円のソフトを購入すれば可能のようです。
イについて、WEBで調べて、日本写真測量学会に問い合わせたところ、Image Master Photoという60万円のソフトを購入すれば可能であることを知りました。
さらに、日本写真測量学会の講習会に参加すれば、無償でImage Master Beginnersというソフトを入手でき、それにも同じ機能があるとのこと教えてもらいました。

このソフトは地物の写真を周りから複数枚とって、その計測図面や3D画像を自動的に作成するもので、それを空中写真にも応用できるとのことのようです。

無償ソフトの入手にはチャレンジしたいと思いますが、ソフトの低価格化が進むまで、本格利用は待つしかないかもしれません。

3期の地形横断復元

花見川河川争奪を知る38 花見川河川争奪の成因検討3 クーラーの説13
3期地形横断復元6

ア 天明期までの普請による掘削深
天保期堀割普請ではモデル断面付近での掘削深は4.5mでした。
天明期までの掘削深は組織力や財力が劣り天保期以上の掘削は行われなかったと推測します。

そこで、このブログでは天明期までの掘削深を天保期と同じ4.5mと仮に想定します。
この場合、天保期の谷底の高さ10.44mですから、普請以前の自然地形としての谷底の高さは10.44+4.5=約15mとなります。

イ モデル断面における古柏井川地形の推測
これまでの検討で、柏井付近で、北流する流れで形成された河岸段丘が普請盛土の下に隠れ、途中18.4m、17.1mの高さに谷壁斜面が存在し、横戸付近で流れに沿う方向で連続している地形面が存在し、それが千葉面に連続するという事実を報告してあります。

この事実から、古柏井川の地形が次のように対比されるものとして、模式的関係を推測します。
地形面の模式的対比(仮想)
この模式的対比は実証したものではありません。

ウ 3期地形横断復元
上記ア、イの推測を踏まえ次に3期地形横断復元図を作成しました。
天明期盛土と3期地形横断の推測図

多くの仮定を積み重ねてはいますが、3期(河川争奪後~普請前)の地形横断復元は概念的、原理的な次元ですが、できたと考えます。

3期の地形横断は15m付近(あるいはそれより2~3m低いところ)に谷底が、18m付近(あるいはそれより2~3m低いところ)に段丘があり、西岸に広がる広い谷であったと考えられます。

天明期普請までは、土工量の少ない西岸を中心とする掘削が行われ、18m付近段丘上に盛土がなされたと考えられます。しかし、その時点まではまだ広い谷の印象をもつことができる形状であったと考えられます。

2011年11月9日水曜日

天保期普請前後の地形横断復元 続続続

花見川河川争奪を知る37 花見川河川争奪の成因検討3 クーラーの説12
3期地形横断復元5

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oryzasan氏からコメント「花見川の河川争奪に関して3」をいただきました。このコメントをページにそのままアップしましたのでお知らせします。oryzasan氏に感謝します。このコメントに対する私の感想は後日記事にしてこのブログに掲載します。(2011.11.9)
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前記事で作成した堀割断面図(標高、実際掘削深入)を左右反転し、作成してある地形横断図と同じスケールに縦、横ともに変えて、その中に入れ込みました。
地形横断図+堀割断面図

堀割断面図に示される天保期普請の掘削部分が大正6年測量旧版地形図による断面線にピタリとはまりました。
天保期の資料と戦前の地形資料の対応がつきました。

この作業図上で天保期普請の掘削部分を強調した図を次に示しました
地形横断図+堀割断面図(天保期掘削部分強調)

次に天保期普請の掘削部分のみを残して堀割断面図を消去しました。
地形横断図の中に天保期の掘削部分をプロットした図になります。
地形横断図(天保期掘削部分プロット) 天保期地形を抜き出して、地形横断図にプロットしたものが、次の図です。
地形横断図(天保期普請前地形プロット)

天保期普請前の地形が復元されたことは画期的であると思います。
この地形は天明期普請後の地形を表しています。
天明期(及びその前の享保期)普請の実態は明らかではありませんが、天保期普請の実態が明らかになったので、類推することが可能になりました。
したがって、あと1歩(天明期までの普請実態の類推)で3期地形の復元が可能となります。

2011年11月8日火曜日

余談

趣味としての花見川散歩の一環として、興味の湧き出た事柄に関する資料を古書店等から購入しています。
所持しておきたいもので、ささやかな予算に合致するものをWEBで見繕って購入します。

吉田東伍「大日本地名辞書 坂東」や織田完之「印旛沼経緯記」は影印復刻本の古書を格安で購入しました。
双方とも趣味活動に役立っており、知的好奇心を掻き立てくれます。

先日、吉田東伍「利根治水論考」をWEBで¥3100-で購入申し込みしました。
影印復刻本古書の平均的値段の半値以下です。
原本古書と比べると5分の1以下です。
カバーがボロボロとか他の古書店のラベルが貼ってあるとか、欠点が長文で書いてありました。
当然ながら、影印復刻本の状態の悪いものだと思いました。
しかしそれが最安値であり、また情報が判ればそれでよいので、躊躇なくクリックして購入しました。

本日それが宅急便で到着し、開いて驚きました。
明治43年発行の原本です。
発行所日本歴史地理学会、発売所三省堂書店、定価金一円です。
奥付には三省堂の丸印まで押してあります。書き込みなども一切ないものでした。

なにか、得はしたけれどすこし後ろめたいような、妙な感覚になりました。

古書店サイドが十分に確認しないで影印復刻本として取り扱った結果だと直感しました。
私は、発行所が日本歴史地理学会となっているので、その名称から戦後の復刻本と誤判断しました。
古書店も現物確認を怠り、同じ間違いをしたものと推察します。

拾い読みすると、天保期普請と利根川治水との関連について国策レベルの議論も書いてあり、じっくり読んでみたいと思いました。

古書を読んだ後は必ず手を洗いませう。

天保期普請前後の地形横断復元 続続

花見川河川争奪を知る36 花見川河川争奪の成因検討3 クーラーの説11
3期地形横断復元4

ウ 天保期堀割普請の実際掘削深
モデル断面の位置を続保定記の絵図で確認すると、次のようになります。
続保定記の絵図(モデル断面付近)(赤線、赤字記入)
「天保期の印旛沼堀割普請」(千葉市発行)口絵収録

図中のちょうどこの位置に次の文字が書き込まれています。

「六十二番 上口ヨリホリシキマテ 十五丈七尺五寸」(「天保期の印旛沼堀割普請」口絵4-12説明による)

モデル断面付近が62番杭の近くであることは間違いありません。

上記文字は「六十二番 上口(杭)より堀敷まで 十五丈七尺五寸」の意味だと考えられます。
堀割断面図から、上口杭から堀敷までは7丈8尺2寸ですから合いません。
堀割断面図には「上口サシ渡十五丈壹尺二寸五分」とあります。
おそらくこの東西の上口杭サシ渡の寸法と本来の数値(7丈8尺2寸程度)を取り違え、誤記したものと考えられます。

よく見ると、「上口」、「中上口」と書かれた杭と無名の杭3本が見えます。
それらの杭の古堀筋との関係は堀割断面図(鶴岡市郷土資料館寄託 清川斎藤家文書)のそれとよく一致しますので、堀割断面図が62番杭付近と対応していることを確認できます。
(逆に、この絵図に杭位置が正確に描かれていることでこの絵図の正確描写性と、この絵図に描かれているのが普請途中の姿であることが判ります。)
絵図と堀割断面の杭の対比
絵図は天地逆転してあります。

古堀筋の東岸寄りに流路を設定し、東岸の掘削の方が多いようになる杭が打たれています。この理由は追って行う検討と関連しますが、西岸より東岸の方が工事がしやすい事情があったものと推察します。
ここでは東岸と西岸の何らかの特性の違いが工事に反映しているという事実だけを指摘しておきます。
また、絵図の地形の描き方をよく見ると、山脚部の描き方が明らかに異なります。この点も追って検討します。

堀割普請直後の安政年間に三木周蔵が行った堀割精査の図解資料が残っています。
この図解資料を見ると、杭62番における掘り分と掘り残し分がわかります。
堀割精査図解資料
織田完之著「印旛沼経緯記外編」(明治26年、影印復刻版[崙書房])掲載

62番の水面下計画掘削深は3丈2尺5寸(約9.85m)であり、実際には1丈8尺(約5.45m)を掘り、1丈4尺5寸(約4.40m)残ったことが記録されています。
55%掘ったことになります。
この結果を丸めて、モデル断面では50%の深さまで実際に掘ったと考えると、堀割断面図は次のようになります。
堀割断面図(標高、実際掘削深記入)
(鶴岡市郷土資料館寄託 清川斎藤家文書)
「天保期の印旛沼堀割普請」(千葉市発行)口絵収録

堀床の標高は5.90mであり、斜面は1割1分程度の勾配となります。

2011年11月7日月曜日

天保期普請前後の地形横断復元 続

花見川河川争奪を知る35 花見川河川争奪の成因検討3 クーラーの説10
3期地形横断復元3

イ 天保期堀割普請の計画河床高
印旛沼から東京湾に水を自然流下させる施設を作るのですから、天保期堀割普請では「計画河床高」と同じ概念で各地点の河床高を決めていることは確実です。
その値は幕府が打った杭から掘削深○丈○尺○寸で示されています。
しかし、現在となっては杭はなく、計画河床高の標高はわからないようです。

幕府は印旛沼堀割普請に先立つ天保14年(1743)に勘定組頭の五味与三郎と勘定の楢原謙十郎に印旛沼古堀筋を調査させました。
この調査報告書では平戸村印旛沼落口水底と海面との高低を取調べ、延長が9593間(17.46㎞)で「壹丈貮尺三寸餘低ク」(約3.73m低く)「勾配百間ニ付壹寸貮分」(約0.019%勾配)としています。
また印旛沼口水面と海面との高低差「壹丈六尺餘低ク」(約4.85m低く)からは、「百間ニ付勾配壹寸六分餘ニ相當リ申候」(0.026%勾配)としています。
天保14年事前調査報告書の一部
織田完之著「印旛沼経緯記外編」(明治26年、影印復刻版[崙書房])

天保期堀割普請では、この報告書による勾配を基に他の要素(渇水や干潮に対する舟の喫水深確保等)も加え、堀床の高さ(計画河床高)を決めたものと考えられます。

次の図は織田完之著「印旛沼経緯記内編」(明治26年、影印復刻版[崙書房])掲載の印旛沼開鑿線路高低実測縮図です。
印旛沼開鑿線路高低実測縮図
織田完之著「印旛沼経緯記内編」(明治26年、影印復刻版[崙書房])掲載

明治中期に織田完之が堀割普請跡を実測し、想定した水底線(計画河床高)を描いたものです。
水底線の高さは、起点となる印旛沼口では平戸の最低水(位)より下6尺4寸1分(約1.94m下)、終点となる地先海では平均干潮より下6尺(約1.8m下)としています。
渇水や干潮時の舟の喫水深を考慮して、起終点を直線で結んでいます。
その比高は7尺6寸2分(約2.3m)です。

このブログでは上記織田の印旛沼開鑿線路高低実測縮図の水底線の勾配を使って、便宜的に東京湾0m、印旛沼口2.3mを結ぶ地形縦断直線を設定しました。
その直線を基にして、東京湾からの距離を用いた内挿法により、モデル断面の標高を求め、その値を堀床標高(計画河床高)と仮定しました。
結果は次の通りです。

便宜的に仮定したモデル断面の堀床標高=1.35m

次の図は、三浦祐二・高橋裕・伊澤岬編著「運河再興の計画 房総・水の回廊構想」(彰国社刊)に掲載されているもので、天保期堀割普請の計画河床高等がグラフ化されています。
この計画河床高の算定方法はこの書には出ていませんが、このグラフから読み取れる値は、このブログで便宜的にもとめた上記の値と近似した結果となっています。
「運河再興の計画」収録グラフ
三浦祐二・高橋裕・伊澤岬編著「運河再興の計画 房総・水の回廊構想」(彰国社刊)

モデル断面の堀床標高を設定できたので、この数値をモデル断面付近であることが想定される前記事掲載の堀割断面図に反映させてみました。
堀割断面図(標高記入)
(鶴岡市郷土資料館寄託 清川斎藤家文書)
「天保期の印旛沼堀割普請」(千葉市発行)口絵収録