2018年6月23日土曜日

イノシシ・シカ頭部出土が多い意味

大膳野南貝塚後期集落出土獣骨の中で頭部骨の割合が多い事実の意味について感じていることをメモしておきます。

1 頭部骨の割合が多い事実
大膳野南貝塚発掘調査報告書では獣骨の中で頭部骨の割合が多い事実を指摘し、次のように解釈しています。
出土部位の偏りを見ると、上顎骨や下顎骨および遊離歯は多く出土しているが、四肢骨の出土量は少ない。これはシカの場合も同様である。シカの上腕骨遠位部にイヌの咬みキズが明瞭に残されている例があり写真に示した。これらの他にもイヌの咬みキズを持つ骨が多く見られることから、この遺跡のシカやイノシシの骨はイヌの餌にされていたと推測される。四肢骨が少ないのは、それらがイヌに与えられたためであろう。なお、骨に咬みキズを加えた動物が何であるかの判断は、ネズミでは切歯の形態、イヌ科では犬歯や上下の裂肉歯の形から推定したものである。イヌは肉片の付いた骨を与えられても骨そのものを食べるのではなく、骨を齧って骨膜や軟骨・骨髄を食べるのであって、その結果、骨の腐食・消滅を促進していたことになる。

参考例 獣骨最多出土土坑(254号土坑)の種別部位別動物遺体

参考 254土坑のデータベース画面

竪穴住居、土坑、貝層などから出土する獣骨における頭部骨の割合が一様に高くなっています。またイノシシ、シカのみならずタヌキなども頭部骨の割合が高くなっています。
この理由は発掘調査報告書で解釈しているとおり、四肢骨は犬に与えてあらかた砕かれて消失し、頭部骨は犬に与えずに人のみが扱い、最後に遺構に投入されたことを示しています。

2 頭部骨が犬に与えられなかった意味
頭部骨が最後まで犬に与えられなかった理由は、獣頭部が送り祭祀の対象となっていたからだと推定します。
新津健著「猪の文化史考古編」(2011、雄山閣)では次のようなチャートで縄文人がイノシシ祭祀を行ったことが述べられています。

猪への祈りのまとめ 「猪の文化史考古編」(新津健 2011 雄山閣)から引用
縄文時代では獣の頭部と胴体の祭祀上の役割はいつも別々に捉えられ、全く異なっていたと理解します。
頭部は祭祀(獣送り祭祀)の対象であったので、「犬に与えて消費する」ことなく祭祀の重要アイテムとして使われたと考えることができます。

3 検討課題
3-1 出土獣骨における頭部骨と四肢骨の割合推定
獣骨は遺構別に詳しい悉皆調査結果が発掘調査報告書に掲載されていますので、この情報を分析すれば遺構別等に頭部骨と四肢骨の割合を計算することが可能だと判断しています。定性的に「頭部骨の割合が高い」ではなく、定量的に「頭部骨と四肢骨の割合は○:○」と把握できれば、その次に犬に与えられて消失した骨の量の推計とか、近隣遺跡との比較などが可能になります。
大膳野南貝塚の獣骨出土量は他遺跡と比べて貧弱のようですから、恐らく四肢骨のほとんどは犬に与えられてしまったのではないかと想像します。大膳野南貝塚では焼骨がほとんど出土しませんが、その理由は焼骨をつくる素材となるべき骨が全て犬の餌になってしまって、なかったことによると想像します。

3-2 イノシシ等頭部をアイテムとした祭祀について
イノシシ等の頭部が出土する遺構は廃屋墓、竪穴住居廃絶祭祀跡、貯蔵土坑廃絶祭祀跡、送り場土坑などです。このことから獣頭部を使った獣送り祭祀はそれ自体が独立した祭祀というよりもより高次の祭祀の一環として営まれたと推測します。イノシシ等の頭部をアイテムとして使った祭祀とそれが含まれる高次祭祀について想像を膨らませたいと思います。
なお、大膳野南貝塚ではシカ頭骨列が出土していて何らかの祭祀に関わる遺構であると考えることができます。その位置が集落北縁であることから、狩猟場へ通じる道路に建てられた狩猟に関わるシカ頭骨モニュメントではないかと空想しています。

1号鹿頭骨列


2018年6月20日水曜日

下総縄文人の画期的発明 神聖純白固化材-漆喰

大膳野南貝塚後期集落から多出する竪穴住居内漆喰炉・漆喰貼床、屋外漆喰炉の意義について感じていることをメモしておきます。

1 漆喰の意味についての発掘調査報告書の記述
大膳野南貝塚発掘調査報告書ではじめて白色粘土状物質が貝を素材とする漆喰であることが明らかになりました。これは大膳野南貝塚発掘調査の特筆すべき成果です。一方、発掘調査報告書では漆喰出土の意味について次のように記述しています。
漆喰が何を目的として精製され、どのような理由で炉に使用されたのかといった根源的な問題点については明確な回答を導き出せていないのが現状であり、その解明にあたっては今後の研究課題とせざるを得ない。

2 漆喰に関する意味 メモ
ア 漆喰は破砕貝(純白パウダー)とともに下総縄文人が発明した純白性(すなわち神聖性)を具備した製品で、破砕貝と異なる点は固化材であることです。
イ 漆喰は純白性(神聖性)を有する固化材ですから、祭祀が行われる空間の炉や床などの「建材」として使われたと考えます。
ウ 漆喰を使った(使うことが許された)のは漁労に関わった集団だけであったと考えられます。
エ 漆喰炉を日常生活で使っていると汚れが目立ち純白性が減じるようになるので、祭祀活動を滞りなく実行するために炉維持管理活動が行われたと考えられます。その維持管理活動が炉内面の漆喰上塗りです。漆喰上塗りが行われることにより内面の純白性が再び復活したと考えます。繰り返し漆喰上塗りが行われた結果、炉は徐々に埋まっていったと考えられます。この結果、発掘時の炉断面には漆喰の積層が観察されます。
オ 漆喰は漆喰炉で製造されたと考えます。
カ 柄鏡形(敷石)住居の「敷石、石組炉」と「漆喰貼床、漆喰炉」は素材は異なりますがその意味は同じであると考えます。「漆喰貼床、漆喰炉」は石の入手が困難な下総ならではの画期的発明であったと考えます。

漆喰貼床
大膳野南貝塚発掘調査報告書から引用

漆喰炉
大膳野南貝塚発掘調査報告書から引用

2018年6月19日火曜日

縄文遺構出土貝殻の態様

「大膳野南貝塚学習中間とりまとめ 5 貝殻・獣骨・土器片出土の意義」のとりまとめのために若干の補足作業を行います。この記事では貝殻について補足作業を行います。

1 貝殻の出土が完形貝だけではないという事実に着目する
大膳野南貝塚発掘調査報告書を繰り返し読むと、貝層、地点貝層、竪穴住居、土坑などから出土する貝殻は完形貝だけではなく破砕貝、漆喰が登場します。発掘調査報告書記述では破砕貝出土箇所が多いため完形貝出土が特記事項になるほどです。
貝殻の3態様…完形貝、破砕貝、漆喰の様子を観察すれば貝殻出土意義の一端が判る可能性があり、着目することにします。
破砕貝とはイボキサゴやハマグリを砕いたものです。わざわざ貝殻を砕くという労力を投入してつくる産物ですから、それを使うことには必ずや解釈可能な意味があると考えます。
さらに漆喰とは貝殻を砕いて粉にして焼いて、それに水を加えたものです。破砕貝以上に労力とエネルギーを投入してつくった産物です。漆喰を使うことは破砕貝以上に特別な意味があるはずです。
このような観点から貝殻出土について観察分析すれば、縄文人の活動の一端を解明・解釈することができると考えます。

2 土坑を例とした貝殻3態様の出土状況
後期集落土坑を例に貝殻3態様の出土状況の統計をとりました。

貝殻態様別土坑数 1(重複有)
貝殻が出土する土坑は全部で78ありますが、そのうち破砕貝が出土する土坑が63(約80%)、完形貝が出土する土坑が36(約46%)、漆喰が出土する土坑が12(約15%)となります。
完形貝が出土する土坑よりも破砕貝が出土する土坑の方がはるかに多いという事実は大変興味深いものです。
この統計をより詳しくみると次のようになります。

貝殻態様別土坑数 2
貝殻の出土とはイボキサゴやハマグリの破砕貝出土を最初にイメージすべきであり、完形の姿の貝殻出土はむしろ少数派であるということになります。
縄文人は貝殻を遺構に収めるとき、完形の貝を収めるよりも、それを砕いて白いパウダー状の製品にして収めたことの方が多いということになります。
遺跡全体における完形貝と破砕貝の量的割合はまだわかりませんが、土坑を例にすると、土坑数という統計では破砕貝が完形貝を圧倒します。

3 遺構断面における貝殻3態様の様子
土坑と竪穴住居をそれぞれ1例取り出して貝殻3態様の分布をみてみました。
3-1 土坑断面における貝殻3態様の様子

146号土坑 貝殻の態様
貯蔵土坑が廃絶祭祀により貝殻堆積した例です。
下層では漆喰がわずかに出土し、中層では2層に分かれて完形貝が出土し、上層では破砕貝が蓋をするような形状で出土します。
漆喰という特別な製品が最初に投入されたことには意味があると考えます。
ついで、土坑を充填する本体は完形貝、蓋をするのは破砕貝というイメージを持つことができます。
なお、まだデータにしていませんが、破砕貝と完形貝が同時に出土する土坑の多くで破砕貝が蓋のように堆積していることが観察できます。
破砕貝と完形貝はむやみやたらに投入されたのではなく、一定の順番で、つまり儀式の順番に則り投入されたことが判ります。

3-2 竪穴住居断面における貝殻3態様の様子

J77竪穴住居 貝殻の態様
見やすいようにデフォルメした断面に色を塗っています。
この竪穴住居では漆喰貼床・漆喰炉があり、その上に完形貝が乗り、最上部の一部(柄鏡形住居の張出部と本体を結ぶ付近)に破砕貝が乗ります。
破砕貝が儀式の最後に投入されたことは146号土坑と同じであり、破砕貝の意義を考える上で重要な情報です。
漆喰貼床・漆喰炉は祭祀を実行するために貼られたもの、あるいは祭祀行為として貼ったものであると考えています。
白い床を漆喰でつくり、炉を漆喰で埋めつくし、その場で祭祀を行い、さらにその場を完形貝で埋め尽くし、最後に破砕貝の白パウダーを投入したというプロセスを観察できます。

4 感想
縄文人にとっての貝殻は祭祀において清め機能を有する重要なモノであったと考えます。それを製品化して効能を増幅させたものが破砕貝(白いパウダー)と漆喰(祭祀の場を白くするための固化材)であったと考えます。
完形貝を製品(破砕貝、漆喰)にすることで純白をつくることができ、清め機能増幅と神聖性演出ができたと考えます。



2018年6月17日日曜日

貝塚・集落の構造

大膳野南貝塚学習中間とりまとめ 4 貝塚・集落の構造

大膳野南貝塚学習中間とりまとめを次の10項目に分けて行っています。
1 漆喰貝層有無2集団の関係
2 諸磯・浮島2集団の関係
3 集落消長の理由
4 貝塚・集落の構造
5 貝殻・獣骨・土器片出土の意義
6 埋葬の様相
7 竪穴住居祭壇の様相
8 狩猟方法イメージ
9 個別テーマ
10 背景学習

この記事では「4 貝塚・集落の構造」の説明素材を集めて、まとめペーパーの材料を作りましたので掲載します。
なおここでは遺構からみた後期集落の構造の意義を学習します。

1 集落構造を知るための指標と方法
貝塚と後期集落の関係及びその全体構造を知るために次の指標を設定して、指標別分布図をオーバーレイしてその重なりを分析しました。

1-1 集落構造を知るための指標
●漆喰貝層有竪穴住居関連指標
・貝層
・地点貝層
・漆喰貝層有竪穴住居
・廃屋墓・ヒト骨出土竪穴住居
・環状焼土・特殊遺物出土竪穴住居
・装身具出土竪穴住居
・屋外漆喰炉
・漆喰貝層が出土する送り場土坑
これらの指標は貝を扱った人々(漆喰貝層有竪穴住居住人)の居住と祭祀に関する活動を表すものです。

●漆喰貝層無竪穴住居関連指標
・漆喰貝層無竪穴住居
・廃屋墓・ヒト骨出土竪穴住居
・装身具出土竪穴住居
・漆喰貝層が出土しない送り場土坑
これらの指標は貝を扱わなかった人々(漆喰貝層無竪穴住居住人)の居住と祭祀に関する活動を表すものです。
なお、「漆喰貝層が出土しない送り場土坑」はすべて漆喰貝層無竪穴住居住人がつくったものであると仮定しました。

●漆喰貝層有竪穴住居と漆喰貝層無竪穴住居に分けられない指標
・貯蔵土坑
貯蔵土坑が漆喰貝層有竪穴住居住人と漆喰貝層無竪穴住居住人の間でどのように使い分けられていたのか、あるいは一緒に使っていたのかまだわからないので、別建ての指標(中立指標)としました。

1-2 分析方法
各指標の分布図を作成してオーバーレイしてその重なり具合により分析しました。
指標分布図はGIS上で点情報として扱っている指標と面情報で扱っている情報の重なりを視覚化するためと、重なり具合を強調・模式化して判りやすくするために、全ての指標に2mバッファ(拡張領域)を加えました。
「重なり具合」の分析は、分布図を同色の淡色(透過度20%)で作成してオーバーレイすることにより生まれる色の濃淡を使いました。指標分布の重なりが多い部分では色が濃くなり、それは活動が活発であったことを示すと考えます。指標分布の重なりが少ない部分では色が薄くなり、それは活動があまり活発でなかったことを示すと考えます。

2 指標分布図
次に指標分布図を掲載します。

指標分布図 漆喰貝層有竪穴住居関連指標 1

指標分布図 漆喰貝層有竪穴住居関連指標 2

指標分布図 漆喰貝層無竪穴住居関連指標

指標分布図 漆喰貝層有竪穴住居と漆喰貝層無竪穴住居に分けられない指標

3 オーバーレイ分析
3-1 漆喰貝層出土遺構
漆喰貝層出土遺構をオーバーレイすると次のようになります。

漆喰貝層出土遺構オーバーレイ
全体が円環状を呈する分布となり北貝層と南貝層で濃色となり活動が活発であったことが判ります。
居住に利用された住居の場でその廃絶祭祀が行われ、同時に埋葬の場となり、さらにそこに貝塚が築造されたという一連の活動が円環状ゾーンのなかで行われたことが判ります。

3-2 漆喰貝層非出土遺構
漆喰貝層非出土遺構をオーバーレイすると次のようになります。

漆喰貝層非出土遺構オーバーレイ
漆喰貝層出土遺構オーバーレイと比べると、分布が遺跡区域全体にバラけていて明瞭な秩序を感得することができません。
漆喰貝層出土遺構オーバーレイとの関連でみると、その外側の分布する部分と内側に分布する部分に分けて捉えることは可能です。

3-3 全遺構
全遺構をオーバーレイすると次のようになります。

全遺構オーバーレイ
この図は、漆喰貝層出土遺構による円環状構造とその外周と内周に分布する漆喰貝層非出土遺構の姿、つまり集落構造を表現しています。
次に、この図を模式化してわかりやすくします。

3-4 模式的把握
3-4-1 漆喰貝層出土遺構 模式的把握
漆喰貝層出土遺構の円環状ゾーンを模式的に表現すると次のようになります。

漆喰貝層出土遺構 模式的把握

3-4-2 漆喰貝層非出土遺構 模式的把握
多少の無理を伴いますが、漆喰貝層非出土遺構の分布を模式的に表現すると次のようになります。

漆喰貝層非出土遺構 模式的把握

4 集落構造
漆喰貝層出土遺構模式的把握と漆喰貝層非出土模式的把握をオーバーレイすることによって集落構造を単純化して把握することができました。3重円環構造となっています。

集落構造

集落構造の意義
集落主体ゾーンと名付けたゾーンは漆喰貝層有竪穴住居住人の居住の場、祭祀の場、埋葬の場であり、貝塚建設の場です。
一方、外周ゾーン、内周ゾーンと名付けたゾーンは漆喰貝層無竪穴住居住人の居住の場、祭祀の場、埋葬の場です。このゾーンでは貝塚は建設されません。
なお、集落主体ゾーンと外周ゾーン・内周ゾーンが重複している部分があります。この重複は「漆喰貝層無竪穴住居住人の活動」(古)→「漆喰貝層有竪穴住居住人の活動」(新)という時間差により生じているものです。

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次の資料を公開しました。(2018.06.17)

pdf資料「貝塚・集落の構造 要旨

pdf資料「貝塚・集落の構造

上記資料を含めて私の作成した主な資料・パワポはサイト「考古と風景を楽しむ」にも掲載しています。

2018年6月14日木曜日

集落消長の理由

大膳野南貝塚学習中間とりまとめ 3 集落消長の理由

大膳野南貝塚学習中間とりまとめを次の10項目に分けて行っています。
1 漆喰貝層有無2集団の関係
2 諸磯・浮島2集団の関係
3 集落消長の理由
4 貝塚・集落の構造
5 貝殻・獣骨・土器片出土の意義
6 埋葬の様相
7 竪穴住居祭壇の様相
8 狩猟方法イメージ
9 個別テーマ
10 背景学習

この記事では「3 集落消長の理由」の説明素材を集めて、まとめペーパーの材料を作りましたので掲載します。
なおここでは後期集落だけを対象とします。
この材料は次の補足検討に基づいて、想像力を駆使してまとめたものですから想像的記述といえるものです。

2018.06.13記事「貝塚集落がたち行かなくなった時の身の振り方
2018.06.12記事「「中期後半の衰退」期における集落立地
2018.06.11記事「漁場消失による貝塚集落終焉のデータ
2018.06.10記事「大膳野南貝塚後期集落 消長シナリオ
2018.06.09記事「大膳野南貝塚集落消長と千葉県貝塚変遷の対応

1 大膳野南貝塚後期集落が最初に立地した頃の縄文社会情勢
大膳野南貝塚後期集落が最初に立地した頃は「中期後半の衰退」(「千葉県の歴史 通史編原始・古代1)」(千葉県発行)の概念)と言われる時代で中期中葉の貝塚集落が全て廃絶して、新たな貝塚集落がその近隣に立地した時期です。
大膳野南貝塚後期集落はこの時代に新たに立地した貝塚集落です。
旧貝塚集落が全て廃絶し、新貝塚集落が立地した様子を「千葉県の歴史 資料編考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)では次のように記述しています。
Ⅳ期に多数存在した通年定住型の集落は、加曽利EⅡ期の終わりから加曽利EⅢ期の始まりにかけて、すべて消滅したものとみられている。Ⅴ期には、わざわざ集落の故地を避けて、分散的に居住するようになる。

大膳野南貝塚後期集落の時期別竪穴住居軒数グラフと千葉県時期別貝塚分布図を略対応させると次のようになります。

集落立地の背景検討
大膳野南貝塚後期集落の立地は「中期後半の衰退」期における集落置き換わりで生まれた新集落であることが確認できます。
そして、集落置き換わりは集団入れ替わりを意味しますから、大膳野南貝塚後期集落は新集落であるとともに新集団による集落です。

大膳野南貝塚付近の新旧貝塚集落を示すと次のようになります。

新旧貝塚集落の分布
旧集落(有吉北貝塚・有吉南貝塚、草刈遺跡)は海の近くに分布していますが、新集落(上赤塚遺跡、木戸作貝塚、小金沢貝塚、六通貝塚、大膳野南貝塚)は台地主部縁に分布し、大膳野南貝塚などは海から離れてもお構いなしに立地しています。旧集落と新集落の集落立地原理が異なることは、新旧集落が新旧集団の違いに対応していることを表現しています。
旧集落廃絶→新集落創始のプロセスは新集団が旧集団の猟場・漁場・堅果類採集場を奪い(つまり新集団が旧集団を征服して)、旧集落を廃絶に追い込んだと解釈することができます。旧集団の人々は新集団の下層に組み込まれたと考えられます。大膳野南貝塚ではその下層の人々(旧集団の人々)が漆喰貝層無竪穴住居住人であり、支配上層の人々(新集団の人々)が漆喰貝層有竪穴住居住人であると考えられます。

2 大膳野南貝塚集落が立地できた条件の一つ
大膳野南貝塚集落が立地できた条件の一つに占有漁場確保があげられます。より具体的には「地形で分節された小入り江」を占有できて、そこを漁場として漁業を行うことができました。この条件の喪失が集落衰滅の主因になったと考えます。

仮説 地形で分節された小入り江の存在が多数貝塚集落が立地できる必須条件

3 集落衰滅の主因は漁場喪失
大膳野南貝塚集落衰滅の時期は「後期中葉の衰退」(「千葉県の歴史 通史編原始・古代1)」(千葉県発行)の概念)と言われる時代で、他の多くの貝塚集落消滅と同じ時期に当たります。
大膳野南貝塚の漁場であった「地形で分節された小入り江」の様子を推察すると次の図のようになります。

4000年前の海面の推定
大膳野南貝塚の貝塚形成が4000年前頃から3750年前頃までであると仮定する(放射性炭素年代測定結果に基づく)と、貝塚形成が終わる頃と漁場が干陸化して物理的に消失する時期が略一致します。
大膳野南貝塚後期集落は占有漁場が物理的に消失したことに対応して、貝塚集落として衰滅したと捉えることができます。

4 移住先
大膳野南貝塚後期集落では堀之内1式期に急増した竪穴住居軒数が堀之内2式期には急減していますから、この間に集落集団の多数が集落外に移住していると考えることができます。移住先を直接知ることはできませんが、下総地方レベルで観察すると東京湾岸から印旛沼湾岸に移住した人々が多かったと考えられます。

Ⅵ期(後期前葉~中葉)→Ⅶ期(後期中葉~晩期前半)における貝塚集落の増減

5 狩猟民として生きる
縄文後期には海岸線の後退により「地形で分節された小入り江」がほとんどなくなり、東京湾では直線状の砂浜海岸が広がりました。
縄文人は新たに生まれたこの海岸環境を漁場として開発することはありませんでした。

次の図は大膳野南貝塚の地形上の位置を示したものです。

大膳野南貝塚の位置

大膳野南貝塚の地形断面図上の位置
大膳野南貝塚は海から谷津を伝わって4㎞はなれ、標高差は50mあります。このような場所に集落を立地させたのは狩猟を第一に考えたからであり、漁業は第二条件にすぎません。この様子から縄文人のアイデンティティは狩猟にあると考えます。

「地形で分節された小入り江」が無くなったら、その後の直線状砂浜海岸を漁場として開発すること、つまり漁民になりきることを縄文人は拒否しました。
縄文人は狩猟民であるという自分のアイデンティティを放棄してでも環境変化に対応して生き残る道はとらなかったということです。
縄文人は崩壊した漁業の代わりは自らのアイデンティティである狩猟を強化することで穴埋めしようとしました。この時期の貝塚集落の様子を「千葉県の歴史 資料編考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)では「獣骨の増加が顕著」と記述しています。
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次の資料を公開しました。(2018.06.14)

pdf資料「集落消長の理由 要旨

pdf資料「集落消長の理由

上記資料を含めて私の作成した主な資料・パワポはサイト「考古と風景を楽しむ」にも掲載しています。



2018年6月13日水曜日

貝塚集落がたち行かなくなった時の身の振り方

2018.06.10記事「大膳野南貝塚後期集落 消長シナリオ」で大膳野南貝塚後期集落の集落衰退期の様子(シナリオ)を次のように書きました。
……………………………………………………………………
●集落衰退期
・海岸線が後退して村田川河口湾内干潟の減少が著しくなった。
・集落が確保している漁場からの漁獲物は急減し、急増人口を養えなくなった。
・漁労系住人は新しい漁場(村田川河口沖の干潟)方面の新天地(村田川河口砂洲)などへ移住した。
・集落立地の重要条件である占用漁場が海岸線後退により事実上失われたことにより集落が解体した。
・堅果類採集系住人は新天地である印旛沼方面へ移住した。
……………………………………………………………………
シナリオ(半ば想像)とは言え、この記述に大きな間違いを見つけましたので訂正します。縄文人の本質を見誤っていました。
以下は想像的検討(!)です。

1 大膳野南貝塚が立ちいかなくなった時の対応策
海岸線が後退して、大膳野南貝塚からみると自分の漁場そのものが物理的に消失してしまったのですから、急増人口を養えるはずものなく、また絶海の孤島ではありませんから移住が対応策として執られたと考えます。
その際、漆喰貝層有竪穴住居住人(狩猟、漁労、採集)と漆喰貝層無竪穴住居住人(主に採集)がバラバラに移住したとしたのは間違いであると考えます。
漆喰貝層有竪穴住居住人と漆喰貝層無竪穴住居住人は上下関係があるのですから、その関係を保持したまま移住したと考えます。

2 移住先
2-1 移住先 海岸部
移住先として、「新しい漁場(村田川河口沖の干潟)方面の新天地(村田川河口砂洲)」を考えましたが、これは2つの理由から間違いであると気が付きました。
2-1-1 論理矛盾
海岸部移住仮説は自分自身の論理矛盾としての間違いでした。
海岸線が後退して漁場が消失したのですから、その場所に移住することはあり得ません。
残った漁場は周辺の有力な貝塚集落(具体的には六通貝塚)が独占しました。その周辺に移住して利用できるような漁場はありません。

●参考
縄文時代に貝塚集落が立地するためには、近くに地形で分節された小入り江の存在が必須であると考えました。

仮説 地形で分節された小入り江の存在が多数貝塚集落が立地できる必須条件

2-1-2 漁業執着に対する誤解
海岸部移住が仮にあったとすれば、それは台地から低地に降りて、生業をほとんど漁業専業にすることを意味します。そのような選択肢は縄文人には無かったと考えます。
次の図は大膳野南貝塚が立地している地形上の位置です。

大膳野南貝塚の位置

大膳野南貝塚の地形断面図上の位置
大膳野南貝塚住人は海から4㎞以上離れた標高50mの台地面に集落を建設しています。この立地は漁業活動に有利だから選んだ場所ではなく、狩猟に便利であることが第1であり、その次に海にも出られる谷津のそばであることを理由にしています。つまり大膳野南貝塚住人が最もこだわっている生業は狩猟です。縄文人のアイデンティティは狩猟民であることです。
したがって大膳野南貝塚住民は仮に漁場が遠くなったからといって、海岸線付近の低地に移住することはあり得なかったと考えます。もしそのような移住があり得るならば、最初から遠い台地面ではなく、海岸線近くの低地に集落を建設していたはずです。

2-1 移住先 印旛沼周辺
次の図に示すとおりⅥ期(後期前葉~中葉)からⅦ期(後期中葉~晩期前半)にかけて東京湾岸の貝塚集落が減少し、印旛沼周辺で増加します。

Ⅵ期→Ⅶ期の貝塚集落増減
大膳野南貝塚が利用していた漁場が消失して、移住した先は印旛沼近くであったと想定することは次の理由から合理的です。
1 先住者が少なく開拓できる空間が広がっています。
2 前居住地と一連の台地に位置していることから、動物の移動ルート情報など既往知識を活用でき、狩猟環境に激変がありません。
3 汽水とはいえ漁場(地形で分節された小入り江)を占有できます。
4 母集落や東京湾岸貝塚集落との社会関係を維持できる空間に位置します。

なお、九十九里方面は東京湾と同じく海岸線が後退して単調な砂浜海岸となり、縄文人が漁労を営むことができる好適な漁場は急減していたと推定します。そのため九十九里方面への転進は無かったと考えます。


シナリオは次のように修正します。
……………………………………………………………………
●集落衰退期
・海岸線が後退して村田川河口湾内干潟の減少が著しくなった。
・集落が確保している漁場からの漁獲物は急減し、急増人口を養えなくなった。
・集落立地の重要条件である占用漁場が海岸線後退により事実上失われたことにより集落が解体した。
・ほとんどの住人は新天地である印旛沼方面へ移住した。
……………………………………………………………………

2018年6月12日火曜日

「中期後半の衰退」期における集落立地

2018.06.10記事「大膳野南貝塚後期集落 消長シナリオ」で大膳野南貝塚後期集落の貝塚集落としての最初期の様子(シナリオ)を次のように書きました。
……………………………………………………………………
●集落形成以前
・Ⅳ期集落経営が破たんして人々は新天地へ出る選択肢しかなかった。
(・Ⅳ期集落経営の破たん要因は未検討。)

●集落形成期
・このサイト(大膳野南貝塚のサイト)が漁労をメインとする集落立地に好適であることが新たに発見され、人々が入植した。
・村田川河口湾内漁場の漁業権を最初漁業者として入手できた。
・近隣に集落が少なく主食の堅果類入手も問題なく可能な土地であった。
・狩猟場(村田川源流域)へのアクセスも良好であった。
・漁労と狩猟をメインとする集落上層住人と堅果類採集等をメインとする下層住人の協働社会が最初からスタートした。
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このシナリオを想像を交えつつデータで補強します。

1 「中期後半の衰退」期頃の貝塚集落数の趨勢
「Ⅳ期には集落経営が破たんして人々は新天地に出るしか選択肢がなく、その結果Ⅴ期に多数の新規貝塚集落ができた。その一つが大膳野南貝塚である。」というのが私が考えたシナリオでした。
その実態を貝塚分布図変遷で見ると次のようになります。

集落立地の背景検討
分布図にプロットされた貝塚集落数はⅣ期75→Ⅴ期77と増大しますから、縄文社会全体が「中期後半の衰退」期にあって、数の衰退はありません。この時期には既存の貝塚集落が一斉に衰滅し、新開発貝塚集落が広域に立地します。集落の入れ替わりが行われ、従って人集団の入れ替わりが想定されます。(参考図参照)
貝塚集落だけを対象にすれば、「中期後半の衰退」とは旧集団の集落が衰退し、新集団の集落が勃興した現象のようです。
従って「Ⅳ期集落経営が破たんして人々は新天地へ出る選択肢しかなかった。」というより「Ⅳ期集落社会が破たんしてその集団は没落し、新たに流入した集団により新たなⅤ期社会が勃興した。」と言い換えた方がよいかもしれません。

集団が入れ替わった時、旧集団の人々が新集団の下層に組み入れられた可能性があります。

2 新旧貝塚集落の空間関係
新旧貝塚集落の空間関係を大膳野南貝塚付近でみると次のようになります。

Ⅳ期とⅤ期の貝塚集落の分布
Ⅳ期集落分布のあり方(原理)とⅤ期集落分布のあり方(原理)は明らかに異なります。
Ⅳ期集落はそれぞれ海に近い台地に立地しています。相互の関係性は特段見られません。
それだけ集落密度が低かったということです。
ところがⅤ期集落は台地面主部(台地が広くて連続しているところ)近くに立地していて、海から離れてもお構いなしです。大膳野南貝塚などは海からかなり離れてしまい、草刈遺跡と比べて集落立地原理が明らかに異なります。また狩猟場(九十九里との分水界付近)との関係を意識して集落が立地しています。同時に集落間の関係も想定できます。それだけ集落密度が高いということでもあります。
Ⅳ期集落社会とⅤ期集落社会の空間分布原理が異なることから、社会を構成する集団が異なるとの示唆を受けることができます。

なおⅣ期の有吉北貝塚、有吉南貝塚よりⅤ期の上赤塚遺跡、木戸作貝塚、小金沢貝塚、六通貝塚の方が海側に立地しています。これは地象プロセスとしての海岸線後退現象に対応した事象です。
Ⅳ期の有吉北貝塚や有吉南貝塚は時間が経過するとともに海までの距離が長くなり集落経営上多少の不利が生れたと考えることはできます。しかし「海」は無くなっていないので、その多少の不利が集落衰退の主因ではないと考えます。Ⅴ期に多数の貝塚集落新立地が見られることから考えて、海岸線の後退(=海面低下)や海況の変化(=生物相の変化)など広い意味での気候変動を「中期後半の衰退」の主因とする考えには共鳴できません。

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参考図

貝塚分布図 Ⅳ期

貝塚分布図 Ⅴ期

貝塚分布図 Ⅵ期

貝塚分布図 Ⅶ期

2018年6月11日月曜日

漁場消失による貝塚集落終焉のデータ

2018.06.10記事「大膳野南貝塚後期集落 消長シナリオ」で大膳野南貝塚後期集落の貝塚集落としての終焉は海岸線後退による漁場の消失が主因であると書きましたが、そのデータを示します。
海面分布(海岸線)の資料は「辻誠一郎他(1983):縄文時代以降の植生変化と農耕-村田川流域を例として-、第四紀研究22(3)251-266」を使わさせていただきました。

1 大膳野南貝塚後期集落の漁場

大膳野南貝塚及び近隣貝塚の漁場とルート
大膳野南貝塚の漁場は1付近と推定できます。また漁場までのメインルートは集落の南側谷津を通るルートです。

なお、竪穴住居張出部を分析すると西貝層付近の漆喰貝層有竪穴住居住人の漁場へ向かうルートは西側谷津を通るルートになります。

竪穴住居張出部方向
西側谷津を通るルートは六通貝塚等の漁場に向かうルートであり、南側ルートから向かう大膳野南貝塚本来の漁場が半ば消失した時に近隣集落とのトラブル覚悟で使ったルートであると考えられ、自らの漁場がほとんど無くなった時の末期症状であると想定します。

2 4000年前頃の海面分布
大膳野南貝塚後期集落の年代は次の資料に見られる通り4000年前頃から3750年前頃です。

参考 年代測定結果 

4000年前頃から3750年前頃をはさむ前後の海面分布を地図にプロットしました。

5000年前の海面
この頃は漁場1には海面があります。

3500年前の海面
この頃は漁場1に海はなく陸地になっています。
つまり5000年前から3500年前の間に大膳野南貝塚の漁場が消失したことが判ります。
次に海岸線の後退が一定速度であったと仮定して、案分比例で4000年前と3750年前の海面(海岸線)の位置を推定してみました。

4000年前の海面推定
4000年前の海面は使っている谷津出口付近に丁度存在していますから漁業に利用されていたことを確認できます。
3750年前が後期集落の衰退期頃(堀之内2式期頃)と仮定すると、その頃はこれまでの漁場が陸化して使えなくなっている様子が観察できます。

このように既往資料から大膳野南貝塚後期集落で貝塚形成が終わった頃と占用漁場が消失した時期が略一致しするこを確認できます。

次の集落消長のシナリオ要点をデータで確認することができました。
●ステップ1
ある時期村田川河口湾内に好適な漁場が出現し、それに対応して立地した漁労集落(大膳野南貝塚)が栄えます。
●ステップ2
その後村田川河口湾内の漁場が消滅したため(干潟の位置が沖に移動したため)、固定されている大膳野南貝塚の位置では漁労集落を営む意義が消滅しました。

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参考

6500年前の海面


古墳時代の海面




2018年6月10日日曜日

大膳野南貝塚後期集落 消長シナリオ

現在、大膳野南貝塚学習の中間とりまとめを行っていて「3 集落消長の理由」まとめを行うために若干の追加作業をしています。
この記事では後期集落消長シナリオを掲載します。

大膳野南貝塚後期集落 消長の理由 想定シナリオ
●集落形成以前
・Ⅳ期集落経営が破たんして人々は新天地へ出る選択肢しかなかった。
(・Ⅳ期集落経営の破たん要因は未検討。)

●集落形成期
・このサイト(大膳野南貝塚のサイト)が漁労をメインとする集落立地に好適であることが新たに発見され、人々が入植した。
・村田川河口湾内漁場の漁業権を最初漁業者として入手できた。
・近隣に集落が少なく主食の堅果類入手も問題なく可能な土地であった。
・狩猟場(村田川源流域)へのアクセスも良好であった。
・漁労と狩猟をメインとする集落上層住人と堅果類採集等をメインとする下層住人の協働社会が最初からスタートした。

●集落発展期
・漁場から収穫できる貝・魚等が豊富で人口急増の要因となった。
・集落周辺から収穫できる堅果類等は豊富で人口急増を支えることができた。
・狩猟場の確保も引き続きできた。
・漁労系住人と堅果類採集系住人の協働社会システムが有効に機能した。

●集落衰退期
・海岸線が後退して村田川河口湾内干潟の減少が著しくなった。
・集落が確保している漁場からの漁獲物は急減し、急増人口を養えなくなった。
・漁労系住人は新しい漁場(村田川河口沖の干潟)方面の新天地(村田川河口砂洲)などへ移住した。
・集落立地の重要条件である占用漁場が海岸線後退により事実上失われたことにより集落が解体した。
・堅果類採集系住人は新天地である印旛沼方面へ移住した。

●集落消滅期
・漁業を行える要件はなくなったので漁労系住人の居住は途絶え、堅果類採集系住人の末裔だけが細々と暮らした。
・縄文時代では自分の先祖ではない人の集落跡に、新たに別系統の人が入植することは無かった(意識して避けた)と考えられるので、最後は集落自体が終焉した。

このシナリオは次の対応図に対応するものです。

竪穴住居軒数変遷と千葉県貝塚変遷との略対応

シナリオの基本は村田川河口の奥深くまで浸入した海岸線が後退(※)していく地象プロセスと、固定されている漁労集落位置との関係によるもので、要点は次の2ステップです。
●ステップ1
ある時期村田川河口湾内に好適な漁場が出現し、それに対応して立地した漁労集落(大膳野南貝塚)が栄えます。
●ステップ2
その後村田川河口湾内の漁場が消滅したため(干潟の位置が沖に移動したため)、固定されている大膳野南貝塚の位置では漁労集落を営む意義が消滅しました。

このシナリオは大膳野南貝塚だけでなくこの時期の東京湾岸各地の貝塚集落に適応可能であると考えます。
東京湾に流入する河川の河口湾前面に形成された砂洲に漁労集団が移動した可能性と、別の新天地(印旛沼方面)に非漁労集団が移動した可能性が新たな検討対象になると考えます。

※海岸線の後退…海面低下現象だけでなく河川による沖積作用も加わり海岸線は後退しました。海岸線が後退すると海岸線の複雑な屈曲がなくなり延長が短くなります。その分全ての貝塚集落の占用漁場が狭まったと考えられます。

このシナリオに沿った情報(データ)を提示することでまとめを行うこととします。次記事で情報(データ)を提示します。


2018年6月9日土曜日

大膳野南貝塚集落消長と千葉県貝塚変遷の対応

1 「3 集落消長の理由」まとめと追加学習作業
現在、大膳野南貝塚学習の中間とりまとめを行っていて「3 集落消長の理由」まとめに取り組みはじめました。このとりまとめは後期集落を対象にしています。
過去学習の記事をふりかえって学習内容を要約するだけですから、すぐにまとめはできるとタカをくくっていました。
しかし過去記事を読み返すと一般的学習記事がつづき、消長の理由に鋭く切り込む視点が少ししかありません。過去記事をまとめてもあまり面白いまとめにはなりません。
そこで、過去記事読みは止めて、「本当のところ、大膳野南貝塚後期集落はなぜ出現し、なぜ発展し、なぜ衰退したのか」じっくりと考えてみました。昨日丸1日時間を空費しました。すこし焦ります。しかし今朝の散歩中に「このようなストーリーで説明できる。」というアイディアが「向こうから」浮かび上がってきました。自宅に戻って、早速いくつかの情報を調べるとまさにそのストーリー通りになります。
このような事情があり、「3 集落消長の理由」のまとめは単純な過去記事まとめにするのは止めて、多少の追加学習作業を行い、その結果でまとめることにします。

2 「3 集落消長の理由」のまとめ方
大膳野南貝塚が置かれた社会状況からの集落消長理由検討と大膳野南貝塚自身の内部情報の両面から検討しまとめることとします。

3 大膳野南貝塚と千葉県貝塚変遷との略対応
大膳野南貝塚後期集落の消長とは竪穴住居軒数変遷にほかなりません。これと千葉県貝塚変遷との対応関係を検討してみました。

大膳野南貝塚後期集落 竪穴住居軒数変遷と千葉県貝塚変遷との略対応

竪穴住居軒数と貝塚変遷との略対応から、集落消長と縄文社会変動の連動性をみることができます。
大膳野南貝塚後期集落は自分勝手に消長しているのではなく、縄文社会全体の変動の中で自分の役割を演じていることが判りました。
つまり大膳野南貝塚後期集落の消長は地域全体に及ぶ影響要因と関連しているといえます。
その地域全体に及ぶ影響要因を絞り込み、それとの関連で大膳野南貝塚の具体データを分析することにします。

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参考 縄文時代の時期区分
「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)から引用