2011年11月7日月曜日

天保期普請前後の地形横断復元 続

花見川河川争奪を知る35 花見川河川争奪の成因検討3 クーラーの説10
3期地形横断復元3

イ 天保期堀割普請の計画河床高
印旛沼から東京湾に水を自然流下させる施設を作るのですから、天保期堀割普請では「計画河床高」と同じ概念で各地点の河床高を決めていることは確実です。
その値は幕府が打った杭から掘削深○丈○尺○寸で示されています。
しかし、現在となっては杭はなく、計画河床高の標高はわからないようです。

幕府は印旛沼堀割普請に先立つ天保14年(1743)に勘定組頭の五味与三郎と勘定の楢原謙十郎に印旛沼古堀筋を調査させました。
この調査報告書では平戸村印旛沼落口水底と海面との高低を取調べ、延長が9593間(17.46㎞)で「壹丈貮尺三寸餘低ク」(約3.73m低く)「勾配百間ニ付壹寸貮分」(約0.019%勾配)としています。
また印旛沼口水面と海面との高低差「壹丈六尺餘低ク」(約4.85m低く)からは、「百間ニ付勾配壹寸六分餘ニ相當リ申候」(0.026%勾配)としています。
天保14年事前調査報告書の一部
織田完之著「印旛沼経緯記外編」(明治26年、影印復刻版[崙書房])

天保期堀割普請では、この報告書による勾配を基に他の要素(渇水や干潮に対する舟の喫水深確保等)も加え、堀床の高さ(計画河床高)を決めたものと考えられます。

次の図は織田完之著「印旛沼経緯記内編」(明治26年、影印復刻版[崙書房])掲載の印旛沼開鑿線路高低実測縮図です。
印旛沼開鑿線路高低実測縮図
織田完之著「印旛沼経緯記内編」(明治26年、影印復刻版[崙書房])掲載

明治中期に織田完之が堀割普請跡を実測し、想定した水底線(計画河床高)を描いたものです。
水底線の高さは、起点となる印旛沼口では平戸の最低水(位)より下6尺4寸1分(約1.94m下)、終点となる地先海では平均干潮より下6尺(約1.8m下)としています。
渇水や干潮時の舟の喫水深を考慮して、起終点を直線で結んでいます。
その比高は7尺6寸2分(約2.3m)です。

このブログでは上記織田の印旛沼開鑿線路高低実測縮図の水底線の勾配を使って、便宜的に東京湾0m、印旛沼口2.3mを結ぶ地形縦断直線を設定しました。
その直線を基にして、東京湾からの距離を用いた内挿法により、モデル断面の標高を求め、その値を堀床標高(計画河床高)と仮定しました。
結果は次の通りです。

便宜的に仮定したモデル断面の堀床標高=1.35m

次の図は、三浦祐二・高橋裕・伊澤岬編著「運河再興の計画 房総・水の回廊構想」(彰国社刊)に掲載されているもので、天保期堀割普請の計画河床高等がグラフ化されています。
この計画河床高の算定方法はこの書には出ていませんが、このグラフから読み取れる値は、このブログで便宜的にもとめた上記の値と近似した結果となっています。
「運河再興の計画」収録グラフ
三浦祐二・高橋裕・伊澤岬編著「運河再興の計画 房総・水の回廊構想」(彰国社刊)

モデル断面の堀床標高を設定できたので、この数値をモデル断面付近であることが想定される前記事掲載の堀割断面図に反映させてみました。
堀割断面図(標高記入)
(鶴岡市郷土資料館寄託 清川斎藤家文書)
「天保期の印旛沼堀割普請」(千葉市発行)口絵収録

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