2016年5月22日日曜日

古代地名「イラ」の追考

2016.05.15記事「鏡味完二の地名層序年表による地名型Ira Eraの千葉県検索結果」でイラ・エラの検討を行いました。

また、2016.05.19記事「小字「ハニ」「ハネ」に関する補足考察と訂正」でイラ・エラの分布について触れました。

しかし、イラ・エラの意味は「洞穴」ということであり、それが地域開発に具体的にどのようにかかわるのか、十分な理解が欠如したまま、これまで来てしまいました。

イラ・エラの全国分布図(鏡味完二による)

ところが、このためではない次の読書で、疑問が解けたように感じることができ、さらに自分の最重要テーマである花見川に関する東海道水運支路仮説との関わりまで思考をつなげることができました。

その思考(想像)をメモしておきます。

1 地名イラ・エラの分布と関わりがあると感じた記述(瀬川拓郎(2016):「アイヌと縄文-もうひとつの日本の歴史-」(ちくま新書))
……………………………………………………………………
北海道で出土したト骨

ところで、南島産の貝製品が北海道でも多数出土している事実については、弥生時代中期に日本列島を南北にむすぶ物流が成立しており、そこに専業的な海運集団がかかわっていたとする指摘もあります(加藤同前)。

これとかかわって興味深いのは、弥生時代の海民の問題にとりくんでいる山浦清の説です。

山浦は、弥生時代になると九州北部の海民が各地に進出していったとのべ、続縄文時代前期の道南の遺跡では、鈷頭などの骨角器にこの九州北部の海民の影響がうかがえるとしています(山浦1999)。

……… ………

道南の続縄文文化の成立にあたって、縄文人の特徴をとどめていた九州北部など西日本日本海沿岸の海民がかかわっていたのはまちがいなさそうです。

弥生時代中期には日本列島を南北にむすぶ物流が成立し、そこには専業的な海運集団がかかわっていたとする説を紹介しましたが、この流通を担った海民は、各地で潜水漁などの漁撈や海獣狩猟もおこなっていました。

縄文人的特徴をもつ海民が列島規模で活動を繰り広げていた事実は、水稲耕作をめぐって語られる弥生文化とは異質な、もうひとつの弥生文化があったことを物語っているのです。

瀬川拓郎(2016):「アイヌと縄文-もうひとつの日本の歴史-」(ちくま新書)から引用

……………………………………………………………………

この図書では北海道や東北北部を視野にいれて縄文人、アイヌ人、弥生人等の関係が織りなす歴史を最新情報に基づいて解説しています。

その中で、弥生時代の九州北部の海民が全国規模で展開して、北海道を含む全国の流通に関わり、同時に各地の潜水漁などの漁撈や海獣狩猟を広めていったことが記述されます。

その弥生時代海民と地名イラ・エラが関わると直観します。

同時に、その弥生時代海民とは、房総で海人(あま)と呼ばれる人々で、私が潜水漁などの漁撈専業者としてだけのイメージで捉えてきた人々です。

私の海人(あま)イメージは半分欠けていたようです。

海人(あま)は漁撈専業者の側面とともに、流通専業者(交易専業者)の側面もあったようです。

なにしろ、弥生時代に海人(あま)が九州から北海道(!)までの水運網を築いていたのです。

海人(あま)については次の記述があります。

2 地名イラ・エラの分布とかかわりがあると感じた記述(「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行))

……………………………………………………………………
「海人」(あま)は古来、漁業と航海に習熟した海辺の民の総称として用いられている。

古代の文献では、「日本書紀」応神三年十一月の条に、各地の「海人」が命に従わないため阿曇連の祖大浜宿禰を派遣して平定させ、海人の宰(みこともち)としたことが記されているのを始め、王権に海産物を貢納し、あるいは水先案内をつとめる海人の記事が散見される。

応神五年八月の条には諸国に令して海人と山守部を定めた記事があり、山林を管理して山の幸を貢納する山守部とともに王権の下に統制されたことがうかがえる。

王権の各種行事、神マツリに海産物が不可欠であり、その安定した供給が必要であったことを反映しているといえよう。

王権の下に編成された海人は、やがて海部・阿曇部などの品部として史料に現れ、「和名類聚抄」に見える海部郷・海部郡は律令制に組み込まれた海人の存在を裏付ける。

古代史料に海人・海部・大海・凡海部などと表記される海洋民集団は、列島各地に分布し、畿内から東では伊勢・尾張・三河・遠江・上総・信濃・若狭・越前・能登・越中に見られる。

日本海沿岸の海蝕洞穴墓が海上交通を掌握した海人たちの墓であったように、房総・三浦半島の洞穴墓も古東海道を支配した海人の墓であったと考えられる。

伊豆・房総半島の海岸の狭い低地帯には、紀伊半島と同じ地名が散在し、海運による広域な交流がうかがえる。

一方、伊豆半島・伊豆七島・房総半島の南端には「海の祭祀」跡が集中し、古墳時代から奈良時代にわたって青銅鏡や多量の石製・土製祭祀具を用いたマツリが行われており、航海の安全や大漁を祈願した海人の足跡をたどることができる。

「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)から引用
太字は引用者

……………………………………………………………………
この図書でも海人(あま)が古東海道を支配していたと明確に記述してます。

以前同じ文章を読んだときは、海人(あま)=漁撈専業者の固定観念が強く、「古東海道を支配していた」という文章に注意を払うことはありませんでした。

2つの図書を読んで、古代地名イラ・エラが海人(あま)の活動拠点を表現していて、それが、漁撈の拠点あるいは流通(交易)の拠点(つまり古代のミナト)、あるいはその双方を表現しているということが、あらためて理解できました。

目から鱗が落ちるという感覚を味わいます。

房総における小字「イラ」の分布について、よりストーリー性のある解釈ができます。

3 小字「イラ」の分布に関する説得力ある解釈

次に、房総における小字「イラ」の分布図と洞穴遺跡分布図を示します。

小字読み「イラ」系統の分布

洞穴遺跡分布図
「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)から引用

2枚の分布図を重ねると、鴨川市の小字「伊良田」と館山市の小字「以良世」は洞穴遺跡地帯に存在しています。

実際に詳しくみると鴨川市の小字「伊良田」と館山市の小字「以良世」ともにすぐ近くに洞穴遺跡があります。

ですから鴨川市の小字「伊良田」と館山市の小字「以良世」ともに海人(あま)の漁撈や流通拠点と対応している事象であると直観できます。

一方、袖ヶ浦市の「以良籠」は洞穴遺跡地帯にはありません。

「以良籠」付近には海蝕崖がありますから、その場所に洞穴があった可能性はありますが、海蝕崖前の海は遠浅の干潟になっています。潜水漁を行うような場所ではありません。

ですから、袖ヶ浦市の「以良籠」は潜水漁などを得意とする漁撈専業者の拠点であると解釈するには無理があります。

しかし、九州から北海道までの水運ルートを構築した活動力・実践力のある流通交易集団の拠点であるということから考えると、袖ヶ浦市の「以良籠」を東京湾全体の流通ハブ拠点として捉えることが可能になります。

これまで、このブログでは東京湾と香取の海、東京湾と太平洋を結ぶ古代水運ルート(船越[短区間陸路]を経由する水運ルート)を幾度となく検討してきています。

同時に、海人(あま)に関係すると考えられる地名として市原市の小字「海士(あま)」(大字は海士有木)、千葉市花見川区の「天戸(あまど)」(大字)が知られています。

これらの水運ルートの想定、海人(あま)関連地名を袖ヶ浦市の「以良籠」とともに考察すると、次のような海人(あま)の活動領域を、多様な根拠を伴いながら想像することができます。

海人(あま)の活動領域(想像)

イラ・エラが古代開発とどのように関係するのか、最初はわからなかったのですが、だんだんと判ってきました。

瀬川拓郎(2016):「アイヌと縄文-もうひとつの日本の歴史-」(ちくま新書)は、私の思考に強い刺激を与えた、とても素晴らしい最新情報図書です。

……………………………………………………………………
2016.05.23追記

画像「海人(あま)の活動領域(想像)」の「海人の主な漁撈域」について、銚子付近を追記しました。

海人(あま)族が房総のアワビ等の潜水漁と一般流通ルート(一般交易ルート)を完全に手中に収めていたことを想像します。

0 件のコメント:

コメントを投稿