また、2016.05.19記事「小字「ハニ」「ハネ」に関する補足考察と訂正」でイラ・エラの分布について触れました。
しかし、イラ・エラの意味は「洞穴」ということであり、それが地域開発に具体的にどのようにかかわるのか、十分な理解が欠如したまま、これまで来てしまいました。
イラ・エラの全国分布図(鏡味完二による)
ところが、このためではない次の読書で、疑問が解けたように感じることができ、さらに自分の最重要テーマである花見川に関する東海道水運支路仮説との関わりまで思考をつなげることができました。
その思考(想像)をメモしておきます。
1 地名イラ・エラの分布と関わりがあると感じた記述(瀬川拓郎(2016):「アイヌと縄文-もうひとつの日本の歴史-」(ちくま新書))
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北海道で出土したト骨
ところで、南島産の貝製品が北海道でも多数出土している事実については、弥生時代中期に日本列島を南北にむすぶ物流が成立しており、そこに専業的な海運集団がかかわっていたとする指摘もあります(加藤同前)。
これとかかわって興味深いのは、弥生時代の海民の問題にとりくんでいる山浦清の説です。
山浦は、弥生時代になると九州北部の海民が各地に進出していったとのべ、続縄文時代前期の道南の遺跡では、鈷頭などの骨角器にこの九州北部の海民の影響がうかがえるとしています(山浦1999)。
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道南の続縄文文化の成立にあたって、縄文人の特徴をとどめていた九州北部など西日本日本海沿岸の海民がかかわっていたのはまちがいなさそうです。
弥生時代中期には日本列島を南北にむすぶ物流が成立し、そこには専業的な海運集団がかかわっていたとする説を紹介しましたが、この流通を担った海民は、各地で潜水漁などの漁撈や海獣狩猟もおこなっていました。
縄文人的特徴をもつ海民が列島規模で活動を繰り広げていた事実は、水稲耕作をめぐって語られる弥生文化とは異質な、もうひとつの弥生文化があったことを物語っているのです。
瀬川拓郎(2016):「アイヌと縄文-もうひとつの日本の歴史-」(ちくま新書)から引用
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この図書では北海道や東北北部を視野にいれて縄文人、アイヌ人、弥生人等の関係が織りなす歴史を最新情報に基づいて解説しています。
その中で、弥生時代の九州北部の海民が全国規模で展開して、北海道を含む全国の流通に関わり、同時に各地の潜水漁などの漁撈や海獣狩猟を広めていったことが記述されます。
その弥生時代海民と地名イラ・エラが関わると直観します。
同時に、その弥生時代海民とは、房総で海人(あま)と呼ばれる人々で、私が潜水漁などの漁撈専業者としてだけのイメージで捉えてきた人々です。
私の海人(あま)イメージは半分欠けていたようです。
海人(あま)は漁撈専業者の側面とともに、流通専業者(交易専業者)の側面もあったようです。
なにしろ、弥生時代に海人(あま)が九州から北海道(!)までの水運網を築いていたのです。
海人(あま)については次の記述があります。
2 地名イラ・エラの分布とかかわりがあると感じた記述(「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行))
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「海人」(あま)は古来、漁業と航海に習熟した海辺の民の総称として用いられている。
古代の文献では、「日本書紀」応神三年十一月の条に、各地の「海人」が命に従わないため阿曇連の祖大浜宿禰を派遣して平定させ、海人の宰(みこともち)としたことが記されているのを始め、王権に海産物を貢納し、あるいは水先案内をつとめる海人の記事が散見される。
応神五年八月の条には諸国に令して海人と山守部を定めた記事があり、山林を管理して山の幸を貢納する山守部とともに王権の下に統制されたことがうかがえる。
王権の各種行事、神マツリに海産物が不可欠であり、その安定した供給が必要であったことを反映しているといえよう。
王権の下に編成された海人は、やがて海部・阿曇部などの品部として史料に現れ、「和名類聚抄」に見える海部郷・海部郡は律令制に組み込まれた海人の存在を裏付ける。
古代史料に海人・海部・大海・凡海部などと表記される海洋民集団は、列島各地に分布し、畿内から東では伊勢・尾張・三河・遠江・上総・信濃・若狭・越前・能登・越中に見られる。
日本海沿岸の海蝕洞穴墓が海上交通を掌握した海人たちの墓であったように、房総・三浦半島の洞穴墓も古東海道を支配した海人の墓であったと考えられる。
伊豆・房総半島の海岸の狭い低地帯には、紀伊半島と同じ地名が散在し、海運による広域な交流がうかがえる。
一方、伊豆半島・伊豆七島・房総半島の南端には「海の祭祀」跡が集中し、古墳時代から奈良時代にわたって青銅鏡や多量の石製・土製祭祀具を用いたマツリが行われており、航海の安全や大漁を祈願した海人の足跡をたどることができる。
「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)から引用
太字は引用者
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この図書でも海人(あま)が古東海道を支配していたと明確に記述してます。
以前同じ文章を読んだときは、海人(あま)=漁撈専業者の固定観念が強く、「古東海道を支配していた」という文章に注意を払うことはありませんでした。
2つの図書を読んで、古代地名イラ・エラが海人(あま)の活動拠点を表現していて、それが、漁撈の拠点あるいは流通(交易)の拠点(つまり古代のミナト)、あるいはその双方を表現しているということが、あらためて理解できました。
目から鱗が落ちるという感覚を味わいます。
房総における小字「イラ」の分布について、よりストーリー性のある解釈ができます。
3 小字「イラ」の分布に関する説得力ある解釈
次に、房総における小字「イラ」の分布図と洞穴遺跡分布図を示します。
小字読み「イラ」系統の分布
洞穴遺跡分布図
「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)から引用
2枚の分布図を重ねると、鴨川市の小字「伊良田」と館山市の小字「以良世」は洞穴遺跡地帯に存在しています。
実際に詳しくみると鴨川市の小字「伊良田」と館山市の小字「以良世」ともにすぐ近くに洞穴遺跡があります。
ですから鴨川市の小字「伊良田」と館山市の小字「以良世」ともに海人(あま)の漁撈や流通拠点と対応している事象であると直観できます。
一方、袖ヶ浦市の「以良籠」は洞穴遺跡地帯にはありません。
「以良籠」付近には海蝕崖がありますから、その場所に洞穴があった可能性はありますが、海蝕崖前の海は遠浅の干潟になっています。潜水漁を行うような場所ではありません。
ですから、袖ヶ浦市の「以良籠」は潜水漁などを得意とする漁撈専業者の拠点であると解釈するには無理があります。
しかし、九州から北海道までの水運ルートを構築した活動力・実践力のある流通交易集団の拠点であるということから考えると、袖ヶ浦市の「以良籠」を東京湾全体の流通ハブ拠点として捉えることが可能になります。
これまで、このブログでは東京湾と香取の海、東京湾と太平洋を結ぶ古代水運ルート(船越[短区間陸路]を経由する水運ルート)を幾度となく検討してきています。
同時に、海人(あま)に関係すると考えられる地名として市原市の小字「海士(あま)」(大字は海士有木)、千葉市花見川区の「天戸(あまど)」(大字)が知られています。
これらの水運ルートの想定、海人(あま)関連地名を袖ヶ浦市の「以良籠」とともに考察すると、次のような海人(あま)の活動領域を、多様な根拠を伴いながら想像することができます。
イラ・エラが古代開発とどのように関係するのか、最初はわからなかったのですが、だんだんと判ってきました。
瀬川拓郎(2016):「アイヌと縄文-もうひとつの日本の歴史-」(ちくま新書)は、私の思考に強い刺激を与えた、とても素晴らしい最新情報図書です。
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2016.05.23追記
画像「海人(あま)の活動領域(想像)」の「海人の主な漁撈域」について、銚子付近を追記しました。
海人(あま)族が房総のアワビ等の潜水漁と一般流通ルート(一般交易ルート)を完全に手中に収めていたことを想像します。
市原の海士に居住していた海人は養老川を遡上して米倉の近辺を陸路で経由し
返信削除一宮川を下降して房総半島を横断していたいんですね脱帽です
匿名さん この記事に関心を持っていただきありがとうございます。東京湾と太平洋を結ぶ水運路が古代では重要な幹線交通路であったと考えています。養老川上流の船越については次の記事も参照してください。
返信削除2016.06.01「学習メモ 古代房総部民「車持部(クルマモチベ)」と交通」
2016.06.26「車持部と轆轤(ロクロ)地名」
市原の海士有木から程近い所に磯ヶ谷という地名がありますが、おそらく縄文海進で当時は磯辺だったんでしょうね。
返信削除匿名さん コメントありがとうございます。海人が拠点を設けていたほどの場所ですから、海からそのまま船で到着できるような水面が古代には残っていたと考えられます。その場所に露岩が多ければ磯という地名があってもおかしくないと思います。養老川の露岩がむき出しの河岸風景に関連するのかもしれません。
返信削除「更級日記」に東路の道の果てより・・・と言う一節がありますけど、京の都から黒潮で太平洋沿岸を航海したら千葉県が東端になりますね上総が親王任国として大和朝廷からも重要視されるのは当然ですよね。
返信削除匿名さん コメントアップ遅れてごめんなさい。千葉(県)の日本(列島)のおける位置づけについて、現代のそれとはだいぶ違うものが歴史の大部分なので、私も興味をもっています。
返信削除纏向遺跡から雲出川を下ったら黒潮に乗って上総に行くルートがあった、と思うので私は大和朝廷が成立する当初から海人ネット・ワークを通して千葉県は深く畿内と関わってた気がします。
返信削除おっしゃるとおり弥生時代から古墳時代にかけて畿内と上総は海路で直結していたと考えます。
返信削除『房総における和名抄にみえる郷名「ベ(部)」の分布』を拝見しました
返信削除市原能満には小田部(おだっぺ)という東北弁のような地名がありますけど
かなり稀な例ですよね
匿名さん 貴重な情報ありがとうございます。小字リスト(角川)には市原市能満に「小田部(おだっぺ)」はありませんから隠れた地名(小字リストから漏れたり、より小域の小地名)だと思います。古代の部民開発に由来するものなら重要な発見です。その場所がその地名由来を想像させるような場所であるか匿名さんが調べてみたらどうでしょうか。
返信削除お返事ありがとうございます
返信削除http://fusanokuni.web.fc2.com/gendai/ichihara.htmlからの引用になるんですが
●小田部おだっぺ
江戸期は小田部村。古くは小田辺と書き、田の辺に集落が所在したことに由来する地名という。「おだ(砂地)・べ(辺)」の転訛で砂地の周辺という意味。
以上の通りなので小田部は市原能満の小字ではなく私の勘違いでした済みません
ただ養老川に近く砂地なので昔は小田部の海岸線一帯に海人のコミュニティがあった気もします
それから小田部の近くには前廣神社(三代実録)がありまして前廣(さきひろ)という地名は
先を拡げよ、とも読めますので房総の開拓民が新天地への期待を込めたのかも知れません。
シベリアから毛皮と不凍港を求めてロシア人が
沿海州に築いた都市ウラジオストック(東を征服せよ)と同じ歴史ロマンを感じませんか?
小田部をGoogle Mapで検索するとその範囲が表示されます。能満となりの現代大字でした。厳密には流域は村田川水系のようです。小字には宮田、本田、前田などがあり、なにか昔の開発と関わる大字名称だと思います。おそらくおだ(砂地)説は間違いで、御田のおだだと想像します。官のつくった大切な田(御田)の近くの(=辺)集落という意味で御田辺(おたべ、おだべ)で、意味が忘れられて小田部(おだっぺ)になったと空想します。
返信削除あるいは、御・田部で部民田部が古墳時代に開発した地域かもしれません。そのほうが確かみたいな気もしますし、面白いし…。大きな発見かも。古墳時代の水田開発は谷津の狭い谷底だったので、そのような条件に合います。
返信削除市原の島穴神社には御田植祭という神事があるので朝廷と関係ありそうですが・・・
返信削除海洋民族と海神信仰の痕跡
返信削除http://kenkoubook.seesaa.net/article/388882459.html
市原市・稲荷台遺跡 古墳をつなぐと北斗七星に 妙見信仰のルーツか
http://blog.goo.ne.jp/thetaoh/e/0ef4d301bc49ec44452b8c942a384b8c
二つの記事を読んで私は房総半島に住み着いた海人の北斗七星を拝む風習が
千葉県に於ける妙見信仰へと発展した気がします如何でしょうか?
匿名さん とても興味深い情報提供ありがとうございます。市原市稲荷台遺跡と北斗祭祀には私も興味をもち、詳しく知りたいと思っていました。提供していただいたWEB情報から自分の思考を発展できるかもしれないと楽しみです。次のような記事を書いたこともあります。
返信削除ピラミッドはオリオン座三ツ星、稲荷台遺跡は北斗七星
http://hanamigawa2011.blogspot.jp/2017/03/blog-post_12.html
いただいた情報からつぎのような思考をしました。
1海人と北斗祭祀の関わりがどのようなものか知りたい。
2海人と北斗祭祀の関わりが強いとすると、上総国府建設時代の北斗祭祀主導部隊のルーツが列島西の海人かもしれない。
3古代房総海人が北斗祭祀を持っていたか知りたい。もしその関係があれば、それが上総国府建設時代北斗祭祀の背景(素地)となったかもしれない。
疑問と興味が深まります。
海人(海民)について学習している最中なので余計に興味がわきます。
海民とアイヌ
https://imoduru.blogspot.jp/2018/01/blog-post_20.html
北斗祭祀をやってた市原稲荷台遺跡の近くに日本全国でも最大規模の上総国分尼寺跡があるんですが
返信削除男の僧寺より女の尼寺の方が立派なので母権制社会だった海人の風習の名残かと勘繰ってしまいます
匿名さん コメントありがとうございま。
返信削除旅行中のためコメントアップおくれましてすみません。
海人の風習が母権制であるのか、それが果たして奈良時代まで影響しているのか、まったく知識がないので、帰ったら考えてみます。
旅行中だったんですか
返信削除お返事ありがとうございます
上総国分寺が全国最大なのは房総半島の中部に位置する市原を支配の拠点として重要視する
朝廷の意気込みが表れたのだろう、と推測し直しました。
ローマもソウルも半島中部にありますから
奈良時代に特殊部民として再編成された海人は己が持つ航海技術を地元の現地豪族に見込まれて
後の戦国時代に活躍する里見水軍の源流になったのではないでしょうか?
匿名さん 海人の風習が母権制でそれが上総尼寺の壮大さにつながっているかもしれない説はまだ理解できませんので何か情報があれば教えてください。
返信削除上総国分寺が全国最大であることも知りませんでした。
里見水軍の知識も全くないのですが、そのルーツが海人にあるという説は大いにあり得る話で強く興味を持ちます。また房総沿岸漁民のルーツにもなります。
海人を調べれば古代以降の房総の歴史がたどれるような気がしてきました。