1 鏡味完二によるタドコロとミヤケの検討
鏡味完二(1981)「日本地名学(上)科学編」(東洋書林)では鏡味完二の1954年地理学評論論文を引用して、地名タドコロとミヤケについて検討しています。
その検討結果を次に引用します。
引用した検討結果は60年前のものですから、現代の知識からみてどれだけ通用する(生きている)ものがあるか、大いに疑問です。
しかし、残念ながら自分の基礎知識は虚弱であり、評価できませんので、とりあえずそのまま学習しておき、知識が増えた時に、鏡味完二の記述を批判したいと考えます。
鏡味完二はミヤケとタドコロを対応させて次のように記述しています。
……………………………………………………………………
タドコロとミヤケの分布
(d)屯倉と田荘
屯倉の屯は〓[竹冠の屯](トン)(穀を盛る器)の略字である。
屯倉こついては垂仁紀に「屯倉此云弥夜気」とある。
しかしこのMiyakeには時代によって種々異った漢字が宛てられている。
屯倉(垂仁紀以下),屯家(記仲哀段),官家(神功紀以下),三宅(仁徳紀以下),屯宅(安康紀以下),弥移居(欽明紀以下),御宅・三家(播磨風土記),正倉(出雲風土記)があるが,地名として現存するものは殆んど"三宅"である。
恐らくこの宛字がMiyakeの発音に最も近いから,時代的淘汰をうけて残されたのであろう。
Miyakeは古代国家の統一過程に於ける国家的な,経済的軍事的基礎であった。
太宰府に管轄された防人も,平時は食料田の耕作に従事して自給生活を行っていたし,任那官家の管地には重要地点に城があり,その城に駐屯する兵士たちは平時には農耕をやっていたことから,これらは何れもMiyakeに外ならなかったのである。
そして盛んにこのMiyakeが増設されたのは,大規模な水利工事や開墾の行われた応神・仁徳朝の頃(5世紀前半)であった。
然し更に時代が下って,大和朝廷の朝鮮経営の消極化に伴い,国内支配の充実へと政策転換を行った欽明朝以後,即ち6世紀の初期から中期にかけて,急激にMiyakeの拡大設置がみられた。
もっとも皇室がその一族に,名代,子代といった形で屯倉を固定していったこともあり,屯倉にあって開墾に従事した田部は朝廷の奴隷であったが,後に自営農化して子代,名代と同じカテゴリーに上進するものもあったから,品部と屯倉との間には横の関連も浅くはなかったことを知る。
しかし多くの品部の地名よりも,概してMiyakeの地名の時代が下っているわけであるが,"三宅"の地名の個数が割合に少ないために,両者を比較することは困難である。
しかしFig.69には明らかに近畿に集中分布し,この地名が大和国家中心に発達したものであることをよく示している。
大化直前における屯倉の分布は,記紀・風土記・倭名鈔から推定されるところによれば,畿内に18,北陸3,東山10,東海26,山陰6,山陽20,南海18,西海8となるようである。
(井上教授による)この数字からみると,畿内には相対的に少くなっていて,これを上述の分布図と比較すると可なり大きな相違であるようにみえる。
しかしそれは畿内以外のMiyakeは,唯に課税地区としての機能しかなく,またそれらは最も後期,大化直前に至って急速に発展したものである(井上教授による)から,近畿以外ではMiyakeの地名となって残るほどのものが少なかったためかと思われるが,倭名妙の郷名をみると,九州10例(大宅・下宅の例をそれぞれ1つづつ加えて)あるのが注意をひく。
田荘は以上に対して豪族の領する所で,荘園とは異りVila的なものであった。
(井上教授による)現存地名には"田所"が最も多く,田処・田床も少々見られる。
その分布は西南日本に多く,むしろ近畿に少いことは,Miyakeの場合と異り,田荘が豪族の私有地であったので,文化の早くひらけた西南日本に多くの豪族が先住し,従って彼らの所有地である田荘がこのような分布形態をとったものと思われる。
鏡味完二(1981)「日本地名学(上)科学編」(東洋書林)の「Ⅷ 品部、名代、子代、部民、屯倉、田荘の地名 -古代前期の地名研究-」から引用
(初出は鏡味完二(1954)同名論文、地理学評論27-11)
……………………………………………………………………
タドコロ、ミヤケともに古代前期の開発地名であることが詳しく説明されています。
鏡味完二の地名データは5万分の1地形に記載されている地名(大字)であり、千葉県に該当するものはありません。
2 タドコロとミヤケの千葉県小字データベース検索結果
タドコロは次の2件検索されました。
船橋市古和釜町 田所(読み記述なし)
睦沢町岩井 田所(タドコロ)
ミヤケは次の2件検索されました。
茂原市長尾 三宅谷(ミヤケヤツ)
同 三宅前(ミヤケマエ)
三宅は同じ大字内にあるものですから、小字(関連小字)は2つでも、元来存在したと思われる小字(純粋小字としての「三宅」)は1つであったと考えます。
「タドコロ」「ミヤケ」の分布
千葉の古代前期開発地のうち、豪族の私有地的開発地であるタドコロが2カ所、国家の経済的軍事的基礎となる開発地ミヤケが1カ所、合計3カ所の存在が、小字によりイメージすることができました。
0 件のコメント:
コメントを投稿