2011年6月12日日曜日

トーチカ五差路(遠近五差路)

宇那谷川流域紀行10 トーチカ五差路(遠近五差路)

            遠近五差路

 戦後開拓が行われた台地上の普通の五差路です。四街道市と千葉市稲毛区の境にあります。
最初道路標識を見て、「エンキン五差路」とは珍しい地名だと関心を持ちました。そして、標識を良く見ると、「トーチカ五差路」であり、びっくりです。

            遠近五差路の標識

 調べてみると、この付近は明治の頃から下志津軍用地として砲兵の射場として利用され、遠近五差路付近は射場中央付近の着弾地点として利用された場所です。
 「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」551ページには下志津射場図(1940〔昭和15〕年3月修正 野戦砲兵学校製作『近衛師団管轄演習場規程〔別冊第一〕』)が掲載されています。この射場図の(現在の)遠近五差路付近をみると、射弾下掩蔽部の記号が出ています。
 射弾下掩蔽部(しゃだんしたえんぺいぶ)という言葉は、WEBで調べると現在の自衛隊でも使用している言葉です。その意味は「着弾状況の体感訓練及び観測訓練を行うための施設」です。敵の砲撃下の状況を実戦的に再現し、兵に体験・訓練させる施設です。これを周辺住民がトーチカと呼び、それが五差路の名称(地名)として残ったものです。
 下志津射場図の射弾下掩蔽部の記号は近くの大日山にもあります。この二箇所の記号を比較すると、この記号が位置と意味だけを示すものではなく、施設の平面的配置状況と大きさを示しているものであることが推察されます。この推察を元に、この射場図から射弾下掩蔽部の記号をGISに転記して計測すると、射弾下掩蔽部はトーチカ五差路の北250mに位置し、面積約3200平方m、周長約280mのL字型形状の施設であったと推察されます。

            下志津射場図に掲載されている射弾下掩蔽部
 「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」551ページより転載。(下志津射場図 1940〔昭和15〕年3月修正 野戦砲兵学校製作『近衛師団管轄演習場規程〔別冊第一〕』)(位置を示すために、数値地形図2500〔空間データ基盤〕の情報と現在の遠近五差路位置をオーバーレイしています)

            射弾下掩蔽部と遠近五差路の位置

 「百年以上も、この原野に撃ち込まれた砲弾類は、ばく大な量に達しているでしょう。その証拠に、最近でも、写真のような砲弾が掘り出されています。」と昭和56年2月の四街道町の町政だより記事(「地区探訪39下志津原①」)〔「地区探訪」四街道市発行〕は報じています。

            ▲畑から出た砲弾を手にした○○○の○○○○さん
四街道町の町政だより掲載写真を模写

 戦前には演習場で廃弾拾いが盛んに行われていたこともあり、また軍関係者が開拓民に転じたこともあり、古くから住んでいる人々にとって、砲弾の発見はそれほど深刻な問題ではないのかもしれません。

 しかし、この遠近五差路の近く(千葉市稲毛区域)で毒ガス弾が発見(平成21年度掘削確認調査では90mm迫撃砲弾171発発見)されました。この地域の戦後はまだ終わっていません。

 地域づくりという観点で考えると、旧軍の悪(毒ガス)は高津川流域(習志野演習場)だけでなく、勝田川流域(下志津演習場)にも深刻な負の遺産として現存しています。

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