イ 測量技術発達的特徴
前記事の「(再掲)双子塚の位置」図を見て、そして17世紀中ごろから現代まで伝わる柏井町の領域界の分布、特に鷹之台カンツリー倶楽部を斜めに横切る、特徴的な柏井町と横戸町の境の線を何度も見ていました。
17世紀中頃の柏井内野の境と現代柏井町と横戸町の境の対応
そうすると、次のような強いイメージが私の脳裏に浮かびました。
脳裏に浮かんだイメージ
印旛沼側社会(横戸村)が、双子塚を境界杭みたいに利用したことは大変興味深いことですが、さらに、ゴルフ場を斜めに横切る境界線の先にも、もう一つ境界杭となるような地物があるのではないか?というイメージです。
このイメージが浮かんですぐに資料をしらべたら、
本当に、もう一つの境界杭として利用したと考えられる地物がありました。それも古墳です!
千葉県埋蔵文化財分布図(3)を見ると、高台南古墳が予想した場所にあります。
双子塚の北方向の町丁目界線延長付近に高台南古墳がある
千葉県埋蔵文化財分布図(3)№31習志野(千葉市域、部分)
平成11年3月千葉県教育委員会
早速、双子塚と高台南古墳を結ぶ直線と現在の町丁目界線を比較するとともに、地形断面図を作成してみました。
古墳を結ぶ直線と現在の町丁目界線とは大きいところで50mほどのずれがあります。
現在の町丁目界線が17世紀中ごろの村界と基本的に同じものと考えることができるならば、そのずれの理由は次のように考えることができます。
つまり、領域界を設定する基本の考えは、二つの古墳のそれぞれ南側端を結んだ線分とするが、現場での杭打ちは古柏井川の谷壁と谷底が横戸村に入るように、線を結んだということだと思います。
古柏井川は印旛沼水系に注ぐ地形でしたから、その部分は直線を多少修正してでも横戸村に入れたのだと思います。
二つの古墳を結んだ地形断面
高台南古墳の高さは3m、視点の高さは1.5mとして設定
二つの古墳を結んだ地形断面図を見ると古墳上から双方を見通せることが確認できました。
印旛沼堀割普請の盛土(及び掘削)を除くと、双方の古墳の間はとても見晴がよい地形になっています。
古墳近くの樹木を伐採し、目印となる旗や吹き流しを長い竿で立てれば、双方から測量することが十分に可能です。
関連情報をもっと正確に整理すれば、少なくとも17世紀中ごろまでには、2つの古墳を測量杭のように利用して領域界が設定された事例がここにあったと報告することができると思います。
つづく
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