花見川河川争奪(河道逆行争奪)の証拠第1として水系パターン異常を示します。
次の図は現在の花見川水系の谷筋線を抜き出したものです。
現在の花見川水系谷筋線
基図は旧版1万分の1地形図(大正6年測量)
この谷筋線図から次の水系パターン異常が読み取れます。
1 緑に塗った部分は東京湾側水系ですが、印旛沼側水系領域に凸になって食い込んでいます。
2 同時にその部分の谷筋末端はほとんど全て北方向を向いています。
3 緑に塗った部分の谷筋は北方向の印旛沼側の谷筋に連続しています。
1、2、3は東京湾側水系がもともと存在していた印旛沼側水系の谷津パターンを丸ごと奪ったことを証拠だてています。
つづく
2012年5月31日木曜日
2012年5月30日水曜日
河川争奪(河道逆行争奪)の5つの証拠
花見川河川争奪(河道逆行争奪)の証拠を少なくとも5つ用意できるので列挙し、記録しておきます。
検討を進めていけば、さらに加えて別の証拠も見つけることがあるような予感がしています。
1 人工改変以前の花見川の姿
江戸時代の印旛沼堀割普請、戦後印旛沼開発で花見川の姿が大きく変わりました。
その人工改変の影響を除去して、花見川本来の姿を認識しておくことが以下の検討の大前提になります。
花見川水系の本来の姿は次のようにイメージできます。(2012.4.27記事「印旛沼堀割普請前の花見川と古柏井川の谷中分水界」参照)
人工改変前の花見川水系
この人工改変前の花見川水系が、最初からこのような姿で形成されたものではなく、最初存在していた印旛沼水系の谷津(河川)を東京湾側水系が谷津(河道)を丸ごと奪ったという証拠を5つ列挙します。
2 花見川河川争奪(河道逆行争奪)の5つの証拠
5つの証拠を一覧表で示します。
花見川河川争奪(河道逆行争奪)の5つの証拠
*2012.2.29記事「小崖2に起因する谷津パターン」参照
花見川河川争奪(河道逆行争奪)の5つの証拠
上記証拠の一つ一つを記事を改めて詳しく検討していきます。
つづく
検討を進めていけば、さらに加えて別の証拠も見つけることがあるような予感がしています。
1 人工改変以前の花見川の姿
江戸時代の印旛沼堀割普請、戦後印旛沼開発で花見川の姿が大きく変わりました。
その人工改変の影響を除去して、花見川本来の姿を認識しておくことが以下の検討の大前提になります。
花見川水系の本来の姿は次のようにイメージできます。(2012.4.27記事「印旛沼堀割普請前の花見川と古柏井川の谷中分水界」参照)
人工改変前の花見川水系
この人工改変前の花見川水系が、最初からこのような姿で形成されたものではなく、最初存在していた印旛沼水系の谷津(河川)を東京湾側水系が谷津(河道)を丸ごと奪ったという証拠を5つ列挙します。
2 花見川河川争奪(河道逆行争奪)の5つの証拠
5つの証拠を一覧表で示します。
花見川河川争奪(河道逆行争奪)の5つの証拠
番号
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項目
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説明
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1
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水系パターン異常
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水系の方向が北に向かっており、印旛沼水系のパターンになっています。近隣の水系は全て印旛沼水系となっていて、それと対比して、花見川は異常であり、河道逆行争奪の証拠となります。
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2
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下総上位面を刻む浅い谷の存在
|
花島の谷津や柏井の2つの谷津(前谷津、後谷津)の上流部に、下総上位面を刻む浅い谷が存在していて、それを東京湾水系の特徴である深い谷が切っています。河道逆行争奪の証拠となります。
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3
|
印旛沼側に連続する河岸段丘の存在
|
下総下位面(浅い谷)、古柏井川谷底が河岸段丘となり、花島-柏井付近から流域を越えて印旛沼水系側に連続分布しています。河道逆行争奪の有力な証拠です。
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4
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断層地形(小崖1)を花見川が切っている事実
|
近隣水系の観察から、印旛沼水系は小崖1形成前に形成され変形していますが、花見川は小崖1を切っています。河道逆行争奪の一つの証拠です。
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5
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断層地形(小崖2)に起因する先行谷津を花見川が取り込んでいる事実
|
小崖2に起因する先行谷津[*](古柏井川)を花見川水系が取り込んでいます。花見川が古柏井川河道を丸ごと争奪した証拠です。
|
花見川河川争奪(河道逆行争奪)の5つの証拠
上記証拠の一つ一つを記事を改めて詳しく検討していきます。
つづく
2012年5月28日月曜日
花見川の境界機能 その2
縦と横
1 縦
これまでこのブログで時々話題にしてきた「東京湾と香取の海の主要交流ルートとしての花見川」、「印旛沼堀割普請による利根川と東京湾を結ぶ運河築造」、「戦後印旛沼開発」などは全て、花見川の縦(縦断方向)の空間機能です。
花見川は南北方向に連結(結合)の機能を果たしています。
縦の空間機能
2 横
一方、花見川の境界機能は、横(横断方向)の空間機能です。
花見川は東西方向に境界(分断)の機能を果たしています。
横の空間機能
花見川の縦と横の機能を表で整理すると、次のようになります。
花見川の縦と横の空間機能
花見川がこのように顕著な影響を社会に及ぼした原因は、河川争奪現象(河道逆行争奪)により、東京湾側の深い谷が下総台地奥深くまで侵入したからです。
花見川河川争奪という地形現象が、古代から現代までの人社会に大きな影響を及ぼしてきていることを、今後詳しく調べることが大切であると考えます。
おわり
1 縦
これまでこのブログで時々話題にしてきた「東京湾と香取の海の主要交流ルートとしての花見川」、「印旛沼堀割普請による利根川と東京湾を結ぶ運河築造」、「戦後印旛沼開発」などは全て、花見川の縦(縦断方向)の空間機能です。
花見川は南北方向に連結(結合)の機能を果たしています。
縦の空間機能
2 横
一方、花見川の境界機能は、横(横断方向)の空間機能です。
花見川は東西方向に境界(分断)の機能を果たしています。
横の空間機能
花見川の縦と横の機能を表で整理すると、次のようになります。
花見川の縦と横の空間機能
区分
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項目
|
時代
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縦の機能=連結(結合)
(南北方向、縦断方向)
|
東京湾と香取の海の主要交流ルート
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古代
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印旛沼堀割普請
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近世
|
|
戦後印旛沼開発と流域変更
|
現代
|
|
横の機能=境界(分断)
(東西方向、横断方向)
|
土地利用ブロック境界(小金牧と六方野、習志野演習場と下志津演習場)
|
近世
現代
|
花見川がこのように顕著な影響を社会に及ぼした原因は、河川争奪現象(河道逆行争奪)により、東京湾側の深い谷が下総台地奥深くまで侵入したからです。
花見川河川争奪という地形現象が、古代から現代までの人社会に大きな影響を及ぼしてきていることを、今後詳しく調べることが大切であると考えます。
おわり
2012年5月27日日曜日
花見川の境界機能 その1
2012.5.24記事「小金牧周辺野絵図(閲覧資料)の閲覧」記事を書きながら、何か気づいたことがあるのに、思い出せないことがあるような、心理的に引っかかるものがありました。
しかし、その答えが意識に上ってくることは、その時はありませんでした。
2日後の5月25日になって、小金牧が花見川によって境されているということの重大性に気づくことができました。
次の図は小金牧周辺野絵図に花見川の河道を書き込んだものです。
小金牧周辺野絵図(部分)
「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」より引用
引用者が花見川河道と文字を記入
17世紀中葉か、千葉県立文書館所蔵
私は、この絵図を、花見川と古柏井川の谷中分水界の位置を証拠だてる資料としてみていました。
しかし、千葉県文書館で閲覧資料を閲覧した時は、そうした観点だけでなく、無心に(白紙で)この絵図をみることもしていたのだと思います。
いわば受身になってこの絵図をみていたのだと思います。それで、小金牧の端が花見川で区切られていることに気づくことができたのだと思います。
次の図は、広大な小金牧の東南端の部分(この付近は小区分として下野牧と呼ばれています)の略図を示しています。
小金牧東南端付近(下野牧)の略図
「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」より引用
引用者が塗色し花見川河道と文字を記入
この略図をみると、小金牧の東南端が花見川の深い谷津の存在によって終焉していることがよくわかると思います。
花見川という地形が近世の土地利用上強い境界機能をもっていたことに意識させられました。
ここまでくると、花見川の東側に広がる六方野も花見川によって境界されていることに気づくことに時間はかかりません。
六方野開墾絵図
「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」より引用
引用者が花見川河道と文字を記入
1672年5月裁許、1765年8月写(宇那谷町内会所蔵)
花見川の境界機能により形成された近世の土地利用ブロックは、その後も2つの陸軍演習場(習志野演習場、下志津演習場)の存在などに引き継がれてゆきます。
花見川の境界機能という新たな興味対象が生まれました。
つづく
しかし、その答えが意識に上ってくることは、その時はありませんでした。
2日後の5月25日になって、小金牧が花見川によって境されているということの重大性に気づくことができました。
次の図は小金牧周辺野絵図に花見川の河道を書き込んだものです。
小金牧周辺野絵図(部分)
「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」より引用
引用者が花見川河道と文字を記入
17世紀中葉か、千葉県立文書館所蔵
私は、この絵図を、花見川と古柏井川の谷中分水界の位置を証拠だてる資料としてみていました。
しかし、千葉県文書館で閲覧資料を閲覧した時は、そうした観点だけでなく、無心に(白紙で)この絵図をみることもしていたのだと思います。
いわば受身になってこの絵図をみていたのだと思います。それで、小金牧の端が花見川で区切られていることに気づくことができたのだと思います。
次の図は、広大な小金牧の東南端の部分(この付近は小区分として下野牧と呼ばれています)の略図を示しています。
小金牧東南端付近(下野牧)の略図
「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」より引用
引用者が塗色し花見川河道と文字を記入
この略図をみると、小金牧の東南端が花見川の深い谷津の存在によって終焉していることがよくわかると思います。
花見川という地形が近世の土地利用上強い境界機能をもっていたことに意識させられました。
ここまでくると、花見川の東側に広がる六方野も花見川によって境界されていることに気づくことに時間はかかりません。
六方野開墾絵図
「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」より引用
引用者が花見川河道と文字を記入
1672年5月裁許、1765年8月写(宇那谷町内会所蔵)
花見川の境界機能により形成された近世の土地利用ブロックは、その後も2つの陸軍演習場(習志野演習場、下志津演習場)の存在などに引き継がれてゆきます。
花見川の境界機能という新たな興味対象が生まれました。
つづく
2012年5月25日金曜日
花見川河川争奪の説明イメージ図下絵作成
河道逆行争奪と名付けた花見川河川争奪の説明イメージ図の下絵を作成してみました。
簡単な線画レベルです。
河川争奪前
河川争奪後
時間を見つけて、この下絵に手を加え、また河川争奪中のシーンを加えたりして、よりわかりやすい絵にしていきたいと思っています。
簡単な線画レベルです。
時間を見つけて、この下絵に手を加え、また河川争奪中のシーンを加えたりして、よりわかりやすい絵にしていきたいと思っています。
2012年5月24日木曜日
小金牧周辺野絵図(閲覧資料)の閲覧
現在の横戸台付近に、もともと花見川と古柏井川の谷中分水界があったこと(そこが花見川の最源流部であったこと)を認識することが、花見川に関わる自然・歴史・文化・開発について考えて行くうえで必須のポイントです。
この認識なくして、花見川について云々することはできません。
その花見川と古柏井川の谷中分水界の存在を証拠だてる最大の資料が小金牧周辺野絵図です。(2012.4.27記事「印旛沼堀割普請前の花見川と古柏井川の谷中分水界」参照)
これまで、小金牧周辺野絵図は書籍の図版でだけで見ていましたが、このブログで進めている各テーマのキーとなる資料だけに、実物を確認しておきたくなり、動いてみました。
1 千葉県文書館に収蔵されていることが判明
「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」(千葉市発行)では小金牧周辺野絵図は千葉県立中央図書館所蔵となっています。
千葉県立中央図書館に閲覧を申し込んだところ、収蔵先が変わり、次の機関に収蔵されていることが判りました。
千葉県立文書館
千葉県立文書館は県行政文書と古文書の2つを収集保存し、情報提供している機関です。
小金牧周辺野絵図は次の資料の1つです。
収蔵古文書一覧等(抜粋)
千葉県立文書館ホームページより作成
2 閲覧資料の閲覧
残念なことですが、小金牧周辺野絵図現物は傷みが激しいため閲覧は停止しており、閲覧資料(スナップ写真)の閲覧となりました。
これまで利用してきた書籍図版はトリミングされており、絵図の余白がどうなっているのか(もしかしたらそこに情報があるのではないか)という疑問を解消する上で、スナップ写真であっても絵図全体を見ることができ、よかったと思います。
結果として、絵図余白等に特段の情報はありませんでした。
また、この閲覧で次のことが判りました。
ア 広大な小金牧全体の絵図であり「田」の分布が谷津谷底の分布と重なることや水場(湧水)の記述があることなどから、花見川筋に限らず、往時(17世紀中葉)の地形復元・確認資料として活用できる。
イ 「コホリ」など野馬除け施設に関する記述が、これまで気がつかなかった場所にあり、小金牧に焦点をあてた興味が膨らんだ際には貴重な資料として活用できる。
次に閲覧資料(スナップ写真)の写真を示します。
柏井内野付近
全体の1/4の姿
全体(スナップ写真のコピーの切張りのコピーを撮影)
現物を手にした時の感動的印象はありませんでしたが、私が現物から引き出したいと思っていた情報は、既に得られていたと確認ができ、所期の目的を達成しました。
この認識なくして、花見川について云々することはできません。
その花見川と古柏井川の谷中分水界の存在を証拠だてる最大の資料が小金牧周辺野絵図です。(2012.4.27記事「印旛沼堀割普請前の花見川と古柏井川の谷中分水界」参照)
これまで、小金牧周辺野絵図は書籍の図版でだけで見ていましたが、このブログで進めている各テーマのキーとなる資料だけに、実物を確認しておきたくなり、動いてみました。
1 千葉県文書館に収蔵されていることが判明
「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」(千葉市発行)では小金牧周辺野絵図は千葉県立中央図書館所蔵となっています。
千葉県立中央図書館に閲覧を申し込んだところ、収蔵先が変わり、次の機関に収蔵されていることが判りました。
千葉県立文書館
千葉県立文書館は県行政文書と古文書の2つを収集保存し、情報提供している機関です。
小金牧周辺野絵図は次の資料の1つです。
収蔵古文書一覧等(抜粋)
項目
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記述
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地区別
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東葛飾地区
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整理番号
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200
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文書名(所在地)
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綿貫家文書(松戸市)
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点数
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36点
|
概要
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小金牧の野馬奉行兼牧士支配を務めた当家伝来の文書群である。県立中央図書館から移管された。
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閲覧
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可
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2 閲覧資料の閲覧
残念なことですが、小金牧周辺野絵図現物は傷みが激しいため閲覧は停止しており、閲覧資料(スナップ写真)の閲覧となりました。
これまで利用してきた書籍図版はトリミングされており、絵図の余白がどうなっているのか(もしかしたらそこに情報があるのではないか)という疑問を解消する上で、スナップ写真であっても絵図全体を見ることができ、よかったと思います。
結果として、絵図余白等に特段の情報はありませんでした。
また、この閲覧で次のことが判りました。
ア 広大な小金牧全体の絵図であり「田」の分布が谷津谷底の分布と重なることや水場(湧水)の記述があることなどから、花見川筋に限らず、往時(17世紀中葉)の地形復元・確認資料として活用できる。
イ 「コホリ」など野馬除け施設に関する記述が、これまで気がつかなかった場所にあり、小金牧に焦点をあてた興味が膨らんだ際には貴重な資料として活用できる。
次に閲覧資料(スナップ写真)の写真を示します。
柏井内野付近
全体の1/4の姿
全体(スナップ写真のコピーの切張りのコピーを撮影)
現物を手にした時の感動的印象はありませんでしたが、私が現物から引き出したいと思っていた情報は、既に得られていたと確認ができ、所期の目的を達成しました。
2012年5月23日水曜日
高台南古墳の追加情報は得られず
2012.5.5記事「鷹之台カンツリー倶楽部内古墳の見学」で話題にした高台南古墳について、追加情報を期待して調査しましたが、結局新たな情報を得ることができませんでした。
その経緯を記録しておきます。
1 鷹の台自治会長ヒアリング
鷹の台自治会会長の原田雅男さんにヒアリングする機会を得ました。
原田さんは旧ゴルフ場跡地開拓者であり、高台南古墳の石棺が出土したときに、実見されている方です。
原田さんは、また、柏井小学校の10年誌、20年誌、30年誌を執筆され、地域の歴史にとても造詣の深い方です。
その原田さんから、これまで高台南古墳の調査記録等は見たことがなく、古墳に関わる学術的調査は行われなかったのではないかというお話を聞きました。
県教育委員会の情報では、この古墳は武田宗久が調査されたのではないかとのことでした。この情報を原田さんに話すと、原田さんは千葉高校で武田宗久先生に教わったことがあり、柏井小学校の年誌執筆に際して、地域の歴史について指導を受けたことがあるが、ついぞ高台南古墳の調査については聞いたことがないとのことでした。
2 千葉大学史学科問い合わせ
ゴルフ場地主会会長の川口幹さんが千葉大学文理学部の数学の教授であった関係で、出土した石棺等は千葉大学文学部史学科に保存されているという情報が柏井小学校年誌に伝えられてきています。
この情報にもとづいて、千葉大学史学科に高台南古墳の出土物が保管されているのか、調査記録等が存在するのか、それらは閲覧できるのか問い合わせてみました。
史学科考古学講座より次のような回答がありました。
・考古学講座の台帳には高台南古墳の記載はない。
・おそらく教養部所管の倉庫に格納されていると推測される。
・ただし、所在が不確かで、調査されたものではない表採品を精査することは諸般の事情から困難である。
とのことでした。
何かの機会に判明したら知らせていただけるとのお話はいただくことができました。
千葉大学に出土物は運ばれたけれども、結局調査はなされていないようです。
3 資料調査
3-1 「前方後円墳集成 東北・関東編」(山川出版社、1994)
次の情報と位置図が掲載されています。
この中の文献「千葉県所在古墳詳細分布調査報告書」を次に示します。
3-2 「千葉県所在古墳詳細分布調査報告書」(千葉県教育委員会、1990)
次の情報と位置図が掲載されています。
これらの資料から得られる情報は千葉県埋蔵文化財地図とほぼ同じです。
武田宗久が確認調査とあることから、現場確認を武田宗久がおこない、このリスト情報を作成し、それ以外の調査報告書類はないということがわかってきました。
双方の資料ともに住所が柏井町で間違っています。地図上の位置は正確には横戸町です。最初の調査表作成者が住所を勘違いし、それが延々と引き継がれているようです。
ということで、高台南古墳について少し動き回ってみましたが、特段の情報が得られなかったことを記録しておきます。
* * *
横戸台にある双子塚古墳について、その出土物の閲覧機会が得られることになりそうです。閲覧後、報告します。
その経緯を記録しておきます。
1 鷹の台自治会長ヒアリング
鷹の台自治会会長の原田雅男さんにヒアリングする機会を得ました。
原田さんは旧ゴルフ場跡地開拓者であり、高台南古墳の石棺が出土したときに、実見されている方です。
原田さんは、また、柏井小学校の10年誌、20年誌、30年誌を執筆され、地域の歴史にとても造詣の深い方です。
その原田さんから、これまで高台南古墳の調査記録等は見たことがなく、古墳に関わる学術的調査は行われなかったのではないかというお話を聞きました。
県教育委員会の情報では、この古墳は武田宗久が調査されたのではないかとのことでした。この情報を原田さんに話すと、原田さんは千葉高校で武田宗久先生に教わったことがあり、柏井小学校の年誌執筆に際して、地域の歴史について指導を受けたことがあるが、ついぞ高台南古墳の調査については聞いたことがないとのことでした。
2 千葉大学史学科問い合わせ
ゴルフ場地主会会長の川口幹さんが千葉大学文理学部の数学の教授であった関係で、出土した石棺等は千葉大学文学部史学科に保存されているという情報が柏井小学校年誌に伝えられてきています。
この情報にもとづいて、千葉大学史学科に高台南古墳の出土物が保管されているのか、調査記録等が存在するのか、それらは閲覧できるのか問い合わせてみました。
史学科考古学講座より次のような回答がありました。
・考古学講座の台帳には高台南古墳の記載はない。
・おそらく教養部所管の倉庫に格納されていると推測される。
・ただし、所在が不確かで、調査されたものではない表採品を精査することは諸般の事情から困難である。
とのことでした。
何かの機会に判明したら知らせていただけるとのお話はいただくことができました。
千葉大学に出土物は運ばれたけれども、結局調査はなされていないようです。
3 資料調査
3-1 「前方後円墳集成 東北・関東編」(山川出版社、1994)
次の情報と位置図が掲載されています。
この中の文献「千葉県所在古墳詳細分布調査報告書」を次に示します。
3-2 「千葉県所在古墳詳細分布調査報告書」(千葉県教育委員会、1990)
次の情報と位置図が掲載されています。
これらの資料から得られる情報は千葉県埋蔵文化財地図とほぼ同じです。
武田宗久が確認調査とあることから、現場確認を武田宗久がおこない、このリスト情報を作成し、それ以外の調査報告書類はないということがわかってきました。
双方の資料ともに住所が柏井町で間違っています。地図上の位置は正確には横戸町です。最初の調査表作成者が住所を勘違いし、それが延々と引き継がれているようです。
ということで、高台南古墳について少し動き回ってみましたが、特段の情報が得られなかったことを記録しておきます。
* * *
横戸台にある双子塚古墳について、その出土物の閲覧機会が得られることになりそうです。閲覧後、報告します。
2012年5月22日火曜日
河川争奪タイプの仮称命名 河道逆行争奪
地形学の専門書の中に河川争奪の様式区分をしているものがありましたので、その内容を紹介します。
またその内容と花見川河川争奪を対比してみました。そうしたところ、花見川河川争奪はどの様式にも含まれないので、このブログでは新たな様式を設定して、その仮称を命名しました。
1 鈴木隆介著「建設技術者のための地形図読図入門 第3巻段丘・丘陵・山地」(古今書院、2008)による河川争奪様式
この本では河川争奪様式について次のように説明したうえで、その様式を4分類しています。
「河川争奪は、分水界を共有する2本の河川の一方または両方の頭方侵食または側刻によって分水界が低下し、ついには両河川が接触したために、河床高度が高い方の河川が低い方の河川に流入して、前者の流域変更が起こる現象である。」
河川争奪様式
(表まとめは引用者)
説明図
2 花見川河川争奪の様式
花見川河川争奪は一見頭方争奪とみてしまいがちですが、そうではありません。争奪された河川(古柏井川)の水が争奪した河川(花見川)に流れ込むということは、(古柏井川の支谷津を除くと)ありません。
また、争奪の肘と呼ばれるポイント(上記説明図でEの箇所)が、花見川河川争奪ではポイントではなく、争奪した個所全体となってしまっています。
花見川河川争奪は、争奪される河川の最上流部河道から出発して、その河道を下流に向かって逆行して差別的に谷頭浸食している現象です。
花見川河川争奪は、一般的な河川争奪様式にあてはまらない、大変特異な現象であることが、確認できます。
3 花見川河川争奪現象の様式仮称命名
花見川河川争奪現象の様式は、これまで見つかっていない特異なものとして、このブログでは、新たに次のように仮称を命名します。
「河道逆行争奪」
この仮称命名は、現象を説明すれば「河道逆行型差別浸食による争奪」ということになりますので、これを完結に表現したものです。
上記表(鈴木隆介(2008)をまとめたもの)に追記すれば次のようになります。
河川争奪様式
(青字が追記部分)
またその内容と花見川河川争奪を対比してみました。そうしたところ、花見川河川争奪はどの様式にも含まれないので、このブログでは新たな様式を設定して、その仮称を命名しました。
1 鈴木隆介著「建設技術者のための地形図読図入門 第3巻段丘・丘陵・山地」(古今書院、2008)による河川争奪様式
この本では河川争奪様式について次のように説明したうえで、その様式を4分類しています。
「河川争奪は、分水界を共有する2本の河川の一方または両方の頭方侵食または側刻によって分水界が低下し、ついには両河川が接触したために、河床高度が高い方の河川が低い方の河川に流入して、前者の流域変更が起こる現象である。」
河川争奪様式
様式
|
説明
|
コメント
|
①頭方争奪
|
本流または支流の頭方侵食により、その谷頭が別の河川に接し、その河流を奪取する。
|
並走する河川間の生存競争による併合は①と②による
|
②側方争奪
|
一つの河川流域において、側方侵食によって本流が支流を争奪し、貫通丘陵を形成する。
|
|
③自動争奪
|
1本の河川の蛇行切断。
|
③と④は大規模な分水界の移動(流域面積の増減)を伴わないので、普通は河川争奪とよばれない。
|
④地下争奪
|
カルスト地域で水流の地下への吸い込みによる流量の消失。
|
(表まとめは引用者)
説明図
2 花見川河川争奪の様式
花見川河川争奪は一見頭方争奪とみてしまいがちですが、そうではありません。争奪された河川(古柏井川)の水が争奪した河川(花見川)に流れ込むということは、(古柏井川の支谷津を除くと)ありません。
また、争奪の肘と呼ばれるポイント(上記説明図でEの箇所)が、花見川河川争奪ではポイントではなく、争奪した個所全体となってしまっています。
花見川河川争奪は、争奪される河川の最上流部河道から出発して、その河道を下流に向かって逆行して差別的に谷頭浸食している現象です。
花見川河川争奪は、一般的な河川争奪様式にあてはまらない、大変特異な現象であることが、確認できます。
3 花見川河川争奪現象の様式仮称命名
花見川河川争奪現象の様式は、これまで見つかっていない特異なものとして、このブログでは、新たに次のように仮称を命名します。
「河道逆行争奪」
この仮称命名は、現象を説明すれば「河道逆行型差別浸食による争奪」ということになりますので、これを完結に表現したものです。
上記表(鈴木隆介(2008)をまとめたもの)に追記すれば次のようになります。
河川争奪様式
様式
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説明
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コメント
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①頭方争奪
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本流または支流の頭方侵食により、その谷頭が別の河川に接し、その河流を奪取する。
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並走する河川間の生存競争による併合は①と②による
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②側方争奪
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一つの河川流域において、側方侵食によって本流が支流を争奪し、貫通丘陵を形成する。
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③自動争奪
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1本の河川の蛇行切断。
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③と④は大規模な分水界の移動(流域面積の増減)を伴わないので、普通は河川争奪とよばれない。
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④地下争奪
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カルスト地域で水流の地下への吸い込みによる流量の消失。
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⑤河道逆行争奪
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頭方侵食により、その谷頭が別の河川の最上流部に接し、その河川の谷底を下流に向かって差別浸食していくことにより、その河川の谷空間を奪取する。
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事例:花見川河川争奪
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(青字が追記部分)
2012年5月21日月曜日
花見川河川争奪について
1 これから検討したい項目
これまで、花見川本川筋の河岸段丘地形を詳細に見てきました。
特に、航空レザー測量による5mメッシュを入手してから、精度の高い地形高度把握、形状把握が可能となりました。従って、それ以前では不明であったり、あやふやであった事柄がよくわかるようになりました。
その結果として、花見川河川争奪について自分が見立ててきた現象のあらましとその成因について、見立て基本の確からしさを確認することができ、さらに詳しく知ることができる目途もついてきました。また、若干の間違いを訂正(*)できることもわかりました。
* 後日報告します。
これからは、ブログ「花見川流域を歩く」のメインテーマとして、花見川河川争奪について体系的に取り組んでいきたいと思っています。
現時点で、現場で調査確認し、地図上で作業し、思考をめぐらしたい項目をピックアップすると次のようになりました。
これから検討して、ブログ記事にしたい内容(2012.5.21)
分類
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項目
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1 河川争奪現象の説明とイメージ画像による表現
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1)花見川河川争奪現象のわかりやすい説明
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2)花見川河川争奪現象のイメージ画像表現
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3)花見川河川争奪現象の地形分類上の位置づけ
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2 河川争奪現象のメカニズム
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1)地形発達基礎検討
ア花見川筋の地形発達把握
イ近隣印旛沼水系河川の地形発達把握
ウ東京湾水系河川の地形発達把握
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2)河川争奪現象発生の準備要因
ア地殻変動(小崖2、小崖1、小崖3)
イ水系による浸食力の相違(氷期の浸食基準面低下の影響が当該地域に波及するまでの印旛沼水系と東京湾水系の間のタイムラグの存在)
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3)花見川でのみ河川争奪が発生した直接要因
ア地理的位置仮説(谷津地形発達状況と東京湾水系谷頭浸食最前点との位置関係)
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4)河川争奪現象の規模(浸食量)と時間
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5)河川争奪現象後の地形変化(人工改変を除く)
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3 河川争奪現象による地形が社会に与えた影響
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1)東京湾と香取の海の主要交流ルート
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2)印旛沼堀割普請
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3)戦後印旛沼開発と流域変更
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4 印旛沼堀割普請による人工地形改変の実態
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1)戦後印旛沼開発による人工地形改変の実態
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2)印旛沼堀割普請による人工地形改変の実態
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このブログがネタ切れで記事掲載できなくなる日は、まだ当分来そうにないことがわかりました。
なお、検討とブログ記事作成は、必ずしも上記表の項目を上から順番に行うものではありません。
また、自分の認識や思考が深まれば、あるいは補正されれば、その都度同じ項目についてブログ記事化することもありますので、ご了解ください。
このブログは思考の実況中継の場であり、最終成果発表の場ではありません。
これまでに見立てた花見川河川争奪のイメージを、模式的なレベルで絵にしてみました。
花見川河川争奪前の水系イメージ(2012.5.21)
印旛沼水系古柏井川(*)と東京湾水系花見川の分水界が天戸・犢橋付近に存在していた時代があったと想定しています。
この時代を武蔵野面形成後、立川面形成前に想定しています。
*厳密には天戸・犢橋~花島には古柏井川は発達しないで、より古い時代の印旛沼水系の谷津である下総下位面(浅い谷)があったと考えます。古柏井川は花島から北に発達していたと想定しています。
花見川河川争奪区間のイメージ(2012.5.21)
花見川河川争奪とは、印旛沼水系筋の谷津を丸ごと東京湾筋の谷津に変化させた、谷津谷底を選択的に浸食した地形現象を指しています。
花見川河川争奪後の水系イメージ(2012.5.21)
印旛沼水系古柏井川と東京湾水系花見川の分水界が横戸台付近に存在していましたが、江戸時代の印旛沼堀割普請で消失しました。
印旛沼水系古柏井川は上流部を失ったので空川になりましたが、その空川も印旛沼堀割普請でほとんど消失しました。
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