花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.132 組文字「大一(たいいつ)」の出土分布
2015.05.14記事「八千代市白幡前遺跡 墨書土器の文字検討 その4」で八千代市白幡前遺跡の2Cゾーンから「大一(たいいつ)」を表現する組文字が集中的に出土することに注目しました。
大一(たいいつ)とは大一星(太一星・太乙星)のことで、「北天を運行する一星。天帝神として、兵乱・禍災・生死などをつかさどるとされる。陰陽道ではとくに重要視され、その八方遊行の方角を求めて吉凶を占うのを、太一占の法という。」(『精選版 日本国語大辞典』 小学館)であると考えました。北極星そのものを指していると考えました。
組文字「大一(たいいつ)」が2Cゾーンに集中的に出土することから、2Cゾーンに陰陽師の拠点があるのではないかと考えました。
この記事では実際の組文字「大一(たいいつ)」の出土分布を見てみます。
1 白幡前遺跡における「大一(たいいつ)」の分布
墨書土器文字「大一(たいいつ)」出土地点
2Cゾーンに偏在してることが確認できます。
2 2Cゾーンにおける「大一(たいいつ)」の分布
2Cゾーンにおける「大一(たいいつ)」の分布
2Cゾーンの中でも掘立柱建物群のある場所に偏在しています。
掘立柱建物群のなかに陰陽師関連施設が存在していたと考えます。
陰陽師が所属した陰陽寮は、陰陽道を国家機密として管理していましたから、八千代市白幡前遺跡に陰陽施設があるということは、律令国家がこの場所に特別に陰陽寮の出先機関を設けたことを示しています。
2Cゾーンが遺跡(集落)のなかでも最も奥にある理由は、陰陽施設の存在が機密事項であったためであると考えます。
【参考】
律令制においては、陰陽寮の修習生に登用された者以外の一切の部外者(神官・僧侶はもちろん官人から民間人に至るまでの全て)が、天文・陰陽・暦・時間計測を学び災異瑞祥を説くことを厳しく禁止しており、天文観測や時刻測定にかかわる装置または陰陽諸道に関する文献についても、陰陽寮の外部への持ち出しを一切禁じ、私人がこれらを単に所有することさえ禁じていた。このため、律令制が比較的厳しく運営されていた平安時代の初期(9世紀初頭)まで、陰陽道は陰陽寮が独占する国家機密として管理されていたが、その後、時代の趨勢に合わせるために律令の細部を改める施行令である「格」・「式」がしばしば発布されるようになり、各省ともに官職の定員が肥大化する傾向を見せると、陰陽寮においても平安時代中期までに、かなりの定員増がはかられるようになり、その制度も弛緩した。(Wikipediaより引用)
八千代市白幡前遺跡に陰陽施設があるということは、それだけ蝦夷戦争勝利のために国家の有する総力を投入したということです。
国家から白幡前遺跡に送られた陰陽師は、呪術や占術を駆使して戦争勝利のための指針を戦地に向かう部隊や基地で働く部隊にアドバイスしていたものと考えます。
陰陽師が存在していたこと自体が、八千代市白幡前遺跡が都と戦地陸奥国の中間に位置する最大の軍事兵站・輸送基地(戦略的後方基地)であったことを物語っていると考えます。
3 下総国における「大一(たいいつ)」の分布
組文字「大一(たいいつ)」出土件数
下総国における「大一(たいいつ)」出土をみると、それは白幡前遺跡に限られているといっても過言ではない状況になってます。
陰陽道はだれでも行えるものではなく、国家機密として厳重管理していたものですから、その施設があった場所からのみその痕跡が見つかることは、当然のことです。
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