2015年5月1日金曜日

八千代市白幡前遺跡 寺院と接待施設のセット性確認で深まる遺跡理解

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.120 八千代市白幡前遺跡 寺院と接待施設のセット性確認で深まる遺跡理解

2015.04.29記事「八千代市白幡前遺跡 ハマグリを食った場所はどこか」でハマグリ(貝層)分布の偏在性を検討し、最大のハマグリ出土遺構がP138土壙(井戸)であり、その消費場所がH066掘立柱建物(3間×3間総柱構造)であることを探り当てました。

H066は寺院中心施設より規模が大きく、中央貴族のための接待施設だったと考えました。

そして、H066は寺院(H069掘立柱建物(3間×2間四面廂付総柱構造)を中心施設として周溝で区画される遺構群)とセットであることもあぶり出しました。

H066とH069を中心施設とする寺院施設群の配置

H066とH069がセットで使われた気配がきわめて濃厚であることから、「八千代市白幡前遺跡-萱田地区埋蔵文化財調査報告書Ⅴ-本文編」(1991、住宅都市整備公団首都圏都市開発本部・財団法人千葉県文化財センター)ではH066を寺院の「収納施設」と考えた程です。
また同報告書では、周辺竪穴住居の年代等から「H066についてもH069と同時期に存在していたと考えられる」としています。

さて、H066(接待施設)とH069を中心とする寺院施設群が同時期のものであり、かつセットで運用されていたと確認すると、それが思考補助線となり、次々と遺跡理解を深めることができましたので、その概要をメモしておきます。

●H066とH069のセット性に関する思考メモ

【H066とH069のセットが存在する白幡前遺跡の意義】
・白幡前遺跡のある場所は花見川筋との船越に近い印旛浦最上流部であり、蝦夷戦争における都から陸奥国へ向かう東海道水運支路の要衝です。

・兵員や軍需物資を陸奥国へ運ぶ上で水運は欠かせないものでした。

・花見川と平戸川の間に存在する船越は東京湾と香取の海を結び、この船越を通過していよいよ常陸国平津までの香取の海の内海航海が始まります。

・白幡前遺跡のある場所は香取の海内海航海の出発地点であり、この場所に軍事兵站・輸送基地が建設されました。

【寺院設置の意義】
・律令国家は鎮護国家(※)を祈願する観点から、軍事兵站・輸送基地内に寺院を計画的に配置したと考えます。古代山城と寺院がセットで存在しているのと同じだと思います。

※ちんごこっか[鎮護国家]
天変地異や内乱,外敵の侵入にあたって,仏教経典を講読祈願したり,真言密教による秘法を行って国家を守護することをいい,広く仏法によって国家を護〘まも〙る意味に使用される。鎮国ともいう。
『平凡社 改訂新版 世界大百科事典』 日立ソリューションズ

・ですから、「千葉県の歴史 通史編 古代2」に「民間仏教の広がり」という項目があり、その項目内で白幡前遺跡の寺院が扱われていますが、これは白幡前遺跡の寺院の本質を見誤っていると考えます。

・白幡前遺跡の寺院は「土地の一般住民が望んで村落内に生れた慎ましやかな寺院」というイメージの「村落内寺院」などでは全く無く、律令国家が蝦夷戦争勝利のために設けた、兵站基地機能強化のための寺院であると考えます。(このことは、多量に出土する墨書土器による祈願が仏教とほとんど無関係であると考えられることからも裏打ちされます。)

【接待施設設置の意義】
・鎮護国家を標ぼうする律令国家から派遣される貴族(中央の高級官僚)の移動ルートも東海道水運支路を使ったものと考えます。陸路の東海道には伝馬などが備えられていますが、中央の貴族一行が陸奥国へ向かう場合水運路を利用したものと考えます。水運路なら、時間はかかりますが、多人数が一緒に移動でき、陸路よりはるかに「楽」です。風がなければ労働力を動員して曳舟をさせることもできます。

・陸路東海道ではなく、東海道水運支路を使うとなれば、香取の海航海の出発点となる萱田地区(白幡前遺跡)に移動中継拠点(登山におけるベースキャンプみたいなもの)が必要になります。その移動中継拠点がH066です。

・相模湾や東京湾を渡ってきた貴族がH066で休息し、同行部隊の態勢を整えるために逗留したと考えます。

【寺院と接待施設のセット性の意義】
・貴族逗留場所は「鎮護国家」推進の象徴である基地内寺院の傍をおいてありません。

・貴族逗留場所近くに寺院があるという関係は、偶然ではなく、必然です。平城京に寺院を集めたのが鎮護国家標榜の必然であり、国府の近くに国分寺を配置したのも鎮護国家標榜の必然であることと同じことです。

・H066に中央貴族が逗留する時には、その場所が擬似的に臨時政府みたいな機能を果たしたのだと思います。寺院は擬似的臨時的政府機能の小道具としての役割を担っていたと考えます。
そして、連日連夜宴会が開かれ、膨大なハマグリが貴族一行に振る舞われ、その殻が古井戸(P138)に捨てられたということです。

・寺院や接待施設が蝦夷戦争のために機能していたのですから、蝦夷戦争における東国動員が収束するとともにその施設が廃絶してしまうことは道理に合う現象です。寺院は「村落内寺院」でも「民間に広まった仏教」の証でも無かったのです。

・寺院と接待施設は、ひいてはそれを含む基地全体(萱田遺跡群そのもの)が律令国家中央の意思で計画的に作られたものと考えます。

・蝦夷戦争の時代は、花見川-平戸川筋全体が兵站基地ゾーンであり、それを中央政府の直轄領みたいなイメージでとらえることが大切だと思います。

白幡前遺跡と船越の位置

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