花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.310 宗像神社参拝
船尾と戸神の宗像神社に参拝してきました。
船尾の宗像神社
次のような詳しい由緒が書かれた看板がありました。
船尾の宗像神社由緒書
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宗像神社
御社名
御社名は、宗像神社(むなかたじんじゃ)と申し上げます。大社は福岡県宗像市に鎮座する「宗像大社」であります。大社においては三神がそれぞれ辺津宮(へつみや・本島)、中津宮(なかつみや・大島)、沖津宮(おきつみや・沖ノ島)へそれぞれ祀られております。
胸肩・胸形・宗形神社と称する神社もあるが、宗像神社は全国においても数は少数である。しかし宗像系の神社となると全国有数(5位)の神社数となる。厳島神社も同じ祭神であります。
御祭神
宗像神社は天照大神の三柱の御子神をおまつりしています。三女神のお名前は田心姫神(たごりひめのかみ)、湍津姫神(たぎつひめのかみ)、市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)と申し上げ、この三女神を総して「宗像三女神」と申します。
古事記においては、誓約において、天照御大神が須佐之男命(すさのを)の十拳剣を譲り受けて生んだとされており、須佐之男命の物実(ものざね…天の真名井ですすぎ、ロで噛みくだいてキリとして吐き出した)から化生したので須佐之男命の子としている。
また、日本書紀には、宗像三女神が「道主貴(みちぬしのむち)」、すなわち国民のあらゆる道をお導きになる最も尊い神として崇敬を受けていたことが記されています。「貴」とは最も高貴な神に贈られる尊称です。道主貴(※宗像三女神)以外には、伊勢神宮の大日靈貴(おおひるめのむち)(※天照大神)、出雲大社の大己貴(おおなむち)(※大国主命)のみですので、宗像三女神が皇室をはじめ人々からいかに篤い崇敬を受けられていたかがうかがえます。'
御神徳
船尾宗像神社の創建年代は不詳です。三女神で、航海治水・交通安全の神です。また、天照大神より皇室のご繁栄を祈ることが、国民の繁栄に通ずる道であることを明示された、国の平安、家内安全の神であります。
宗像三女神の一柱、市杵島姫神は美女の代名詞・弁天様ともいわれ、美容・開運・金運・芸能・知恵などの信仰も深い。
船尾の宗像神社は印西八ヶ村の総社といわれました。元文2年7月21日に、旧京都の吉田殿より正一位宗像大明神の宣旨を給わりました。
【宗像大社・神勅】
天照大神が宗像三女神を高天原(たかまがはら)から筑紫の国にお降しになりましたが、その時に授けられたのが左記の神勅です。
神勅とは『古事記』『日本書紀』に記述されている天照大神の勅命(神様の出されたご命令)のことです。「筑紫の国に降り、沖津宮・中津宮・辺津宮に鎮まりなさい。そして歴代天皇のまつりごとを助け、丁重な祭祀を受けられよ」と示され、皇室のご繁栄を祈ることが、国民の繁栄に通ずる道であることを明示されたのです。
宗像大社・神勅
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説明文の中に「日本書紀には、宗像三女神が「道主貴(みちぬしのむち)」、すなわち国民のあらゆる道をお導きになる最も尊い神として崇敬を受けていたことが記されています。「貴」とは最も高貴な神に贈られる尊称です。道主貴(※宗像三女神)以外には、伊勢神宮の大日靈貴(おおひるめのむち)(※天照大神)、出雲大社の大己貴(おおなむち)(※大国主命)のみです」という記述がありますが、このブログで考えていること「墨書土器「大」「天(則天文字)」の意味」と何か通じるところがあるような気がして、うれしくなります。
参考 墨書文字「大」「天(則天文字)」の意味(2016.03.13検討)
戸神の宗像神社は交通の便から、土地の人以外はあまり訪れない場所にあります。
戸神の宗像神社
由緒書の看板がありました。
戸神宗像神社由緒書
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宗像神社
鎮座地
千葉県印西市戸神九二十番地
御祭神
田心姫命 湍津姫命 市杵嶋姫命の宗像三女神を祀る。
御由緒
鎮座年歴不詳。創設以来、幾度か改修されたものと思われますが、大正十一年三月不慮の火災により諸記録が焼失してしまいました。
約一千年程前、印旛沼、手賀沼、利根川、牛久沼、霞ヶ浦等この一帯が未だ内海であった頃、印旛沼、手賀沼沿岸に、宗像神社十三社、鳥見神社二十社、麻賀多神社十七社が、全国的に類を見ない特異な形態で配祀されました。こうした状況から「三神社」共ほぼ同一年代に鎮座されたものと考えられ、当地宗像神社も九世紀後半期に創設されたものと推定されます。
更には、この地に集落が出来た上代に遡るとも考えられます。以来、戸神武西両区産土神社として尊崇され、代々に亘り氏子崇敬者の生活の安全と繁栄とを見守って来られました。
平成十六年鞘屋殿、幣殿、拝殿が再建され合わせて境内整備が行われました。
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私がこの神社に抱いているイメージと異ならない由緒が書かれています。
鳴神山遺跡の開発が行われる前(古墳時代)からこの神社は存在したと考えます。
鳴神山遺跡の開発が行われた奈良時代・平安時代には、この神社を祀る宗像海洋族の末裔住民と全員外来者である開発地新住民の共存関係があったと考えます。
戸神の宗像神社からの眺望は圧巻です。
戸神の宗像神社からの眺望
戸神川が印旛沼(現在の神崎川)に注ぐ空間をパノラマで見ることができます。
古墳時代の初期に、この印旛沼にはるばる九州からやってきた宗像海洋族が、この眺望のよい場所に信仰の拠点を設けたと考えます。
宗像神社参拝の後、近くの西根遺跡(跡)を見学しました。
西根遺跡(跡)
そばの水田あぜ道で土器破片を拾いました。
拾った土器破片
西根遺跡と鳴神山遺跡・船尾白幡遺跡の位置関係や距離を体感することができました。
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