2016年3月5日土曜日

西根遺跡出土馬形・人形の意義

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.299 西根遺跡出土馬形・人形の意義

西根遺跡から馬形・人形が出土しています。

馬形が牧に関連するかもしれないという興味から検討してみました。

結論として、馬形と牧を結びつけることは、現時点ではできませんでした。

馬形(うまがた)・人形(ひとがた)の画像は次のとおりです。

西根遺跡出土馬形・人形

人形の顔の絵は赤外線照射で判明したものです。

樹種は人形はスギ、馬形は樹皮でおそらくスギと記述されています。

馬形・人形の出土ポイントを示します。

馬形・人形の出土ポイント

馬形・人形は8世紀後半から10世紀代の流路と考えられる流路5から重なりあって出土していて、同時期につくられた可能性が高く、人形の形状が小さいことから類推して平安時代のものであると記述されています。

馬という視点から見ると、直線距離30mほど下流から多数の馬歯が集中して出土しています。

馬形・人形出土ポイントを船尾白幡遺跡との関係でみると次のようになります。

馬形・人形出土ポイントと船尾白幡遺跡との位置関係

馬形・人形出土ポイントは船尾白幡遺跡の集落から戸神川谷津へ降りる2つの通路が合流して戸神川に当たったその場所に存在します。

発掘報告書では流路5の性格について次のように記述しています。
「流路5から出土した木製品は祭祀具(人形・馬形)、装身具(櫛)、容器類(漆塗高台杯椀・曲物・槽・
創り物容器未製品)、農耕等に関わる遺物(導水管・竪杵・箱形田下駄・横槌)と木簡状製品、板材がある。木製品は雑多な種類のものがみられ、この流路が祭り捨て場であるとともに日常品の廃棄場であつたことがわかる。」

検討
1 馬形・人形出土ポイントは祭祀の場を示していると考えます。
馬形・人形出土ポイントと船尾白幡遺跡との位置関係図からわかるように、馬形・人形出土ポイントは台地集落が谷津沖積面に降りたその場所ですから、川で何かイベントを行う場所がこのポイントです。

2 馬形・人形はこの場所に捨てられたのではなく、この場所で流された(流しびなの習俗と同じ行為)と考えます。
「この流路が祭り捨て場である」という記述には違和感を感じます。

馬形・人形がどこかで祭祀の道具として使われ、その後廃棄物として川に捨てられたという意味での「祭り捨て場」ではないと考えます。

3 馬形・人形は一体のものとしての意味があったと考えます。

次の世界大百科事典の記述が参考になりました。
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かたしろ 【形代】

人,器財,動物などを模してそれに代わるべきものを作り,種々の呪術を行う道具。人形,馬・牛・鳥・鶏・犬形,刀・剣・鉾・鏃形,車・輿・舟形,男茎形など多種にわたり,素材も紙,布,木,鉄,スズ,銀,金,土製と多様である。飛鳥時代中国から伝わり藤原宮期に確立し,奈良・平安時代に盛行し後代につづく。人形代には凶用と善用の2種がある。凶用の人形代は587年(用明天皇2),中臣連勝海が彦人・竹田両皇子の人形代を作り呪殺を謀った例,平城宮大膳職の井戸で発見された人形代に〈坂部秋建〉の名を墨書し両眼と胸に木釘を打つ例がある。憎悪の対象を厭魅〘えんみ〙し死に至らせる人形代であり,〈律〉の禁ずるところである。善用の人形代には大祓での天皇・百官使用の人形代がある。一撫一吻して罪穢・病気を人形代に移し河川に流しやり平常に回帰する目的をもつ。《延喜式》によれば,平安時代の天皇は実に年間2168枚の人形代を用いる。このほか,中世以降,夫婦の離別和合,失人盗人の発見など広い分野で多用されている。奈良時代の馬・牛形は疫神の乗物であり疫神の象徴であり,一部を損じて足留に用いたり祓い流されたが,中世にはしだいに奉献される神馬の形代が生まれる。鶏・鳥・犬形,刀・剣・鏃形はともに神に供献されるもの,舟・輿形は罪穢が移された人形代や疫神を送りやるものとして形代化された。善用の形代は寄り来る疫神や身につもる罪穢を除祓する儀式の周辺に強く根付いているのである。
水野 正好
形代は,広義には人為的に加工された神霊の憑依体をいい,その種類は多くまたさまざまな分化をとげている。形代には最初から神の表象を意図して作られたものと,本来は別の用途であったものが転用されるようになったものとがある。前者には御幣,▶削掛け〘けずりかけ〙,旗幟,棒柱,オハケ,人形,仮面,影像,神輿,山車,塚,壇,位牌,塔碑,鏡,剣鉾,玉などがあり,後者には生産具,生活用具などがある。塚や石像,石碑などは,神霊のこもる聖地としての山丘や神体としての自然物から展開した形代であり,また旗,オハケ,棒柱などは神の依り木から変化してきたものである。木串に紙や布帛を付けた御幣は,神に捧げる財物と依り代との二つの意味をもつ。後者は神霊を勧請する習俗が普及するにつれて一般化したもので,本来は手にとって動かす神霊の依り代であり,玉串などにより本来的姿をとどめており,紙の普及する以前の姿は削掛け等に認められる。
人の形を模した人形〘ひとがた〙も本来は神霊の表象で,神霊を送るために人形を作る習俗は道祖神祭り,疫病送り,虫送りなどの各種の行事にみられ,山車や屋台に作られる人形〘にんぎよう〙も神の送迎を示す形代が本来の姿であった。また雛人形や武者人形も本来は毎年流すもので,紙や土製の雛人形を作り桟俵〘さんだわら〙にのせて流す▶流しびなの習俗にそのもとの姿をとどめている。さらに▶撫物〘なでもの〙といって,紙人形を作り人体を撫で,罪や穢れを紙人形に移して川などに流す祓〘はらい〙の習俗も広く行われている。このほか丑の刻参りに代表される呪人形,採物〘とりもの〙としての人形もあり,採物としての人形は芸能化して人形芝居へと変化している。
宮本 袈裟雄
『平凡社 改訂新版 世界大百科事典』 日立ソリューションズ

太字は引用者
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この世界大百科事典の記述に基づいて考察すれば、人形は疾病を人から身代わりにもらい受けた代(しろ)であり、馬形はその疾病の人形を運ぶ乗り物であるということになります。

人形と馬形を一緒にして、草で編んだ小舟に乗せて流したものと想像します。

9世紀代頃の船尾白幡遺跡住民は、戸神川川辺で、疾病送り(疾病祓い)習俗としての人形・馬形流しをしていたものと考えます。

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メモ

人形と馬形が牧発展の犠牲(生贄)の身代わりとして見立てることができれば、面白いと空想したのですが、そのような空想は現時点では頓挫・破たんしました。

馬歯が出土していますから、川辺で馬を食ったのではないかと想像しています。また偶蹄目骨片も出土していますから、川辺で牛も食ったのではないかと想像しています。

殺牛・祭神・魚酒の世界が川辺にも展開していたと想像します。

本物の人と馬が同じ土坑から出土する白幡前遺跡、馬が土坑から出土する鳴神山遺跡の例は牧業務発展の祭祀を示している(犠牲・生贄)と考えます。



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