花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.305 西根遺跡 支配氏族 丈部と大生部
西根遺跡の上流部から氏族名「大生部」「生部」が書かれた墨書土器が出土し、その上流部は船尾白幡遺跡の住民が利用していたと考えますから、船尾白幡遺跡の支配氏族は「大生部」「生部」であると考えます。
西根遺跡の中下流部から「丈部」が書かれた墨書土器が出土し、その中下流部は鳴神山遺跡住民が利用していたと考えます。また鳴神山遺跡から「丈部」の墨書が出土しています。したがって、鳴神山遺跡の支配氏族は「丈部」です。
戸神川を境に右岸と左岸で支配氏族が異なります。
また戸神川谷津の利用もはっきりとした棲み分けが行われています。
この関係をイメージすると次のようになります。
戸神川を境に対峙する二つの氏族
戸神にも船尾にも宗像神社があり、もともと古墳時代に九州の宗像海洋族が入植した場所であると考えます。
しかし、蝦夷戦争に備えて律令国家が大規模な地域開発をこの地で行った時、律令国家の采配で支配者(支配氏族)が赴任し、その支配者の下で地域開発が始まったと考えます。
支配者はもともと戸神なり船尾なりに存在した在地リーダーを使ったと考えますが、地域開発に参加する人間の多くは外部から来た新住民であったと考えます。
元々、戸神なり、船尾に存在した在地リーダーが鳴神山遺跡なり、船尾白幡遺跡の地域開発の真のリーダであったとは考えません。
支配氏族は宗像神社の信仰を否定するようなことはしなかったけれど(だから現在まで存在している)、地域開発の旗印に宗像三女神を立てるようなことはせず、全国のどこから来ても受け入れてもらえる大国主神や天照大御神を旗印にしたと考えます。
同時に鎮護国家の観点から仏教寺院の建立(鳴神山遺跡)も行ったと考えます。
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