2016年3月18日金曜日

船尾白幡遺跡 古代開発地の空間イメージ

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.308 船尾白幡遺跡 古代開発地の空間イメージ

2016.03.17記事「船尾白幡遺跡 銙帯」で船尾白幡遺跡の発掘区域にはその開発地の中枢部分が含まれているけれども、鳴神山遺跡ではその発掘区域に中枢部分が含まれてるかどうか不明であるという趣旨の記述をしました。

その根拠となる思考をメモしておきます。

次の図は船尾白幡遺跡付近の旧版25000分の1地形図に関係情報を記入したものです。

船尾白幡遺跡付近の旧版25000分の1地形図

参考として古代印旛沼の水面の広がりをイメージするために、標高5m以下の土地を青く塗ってみました。

(ちなみに、印旛沼水面はこの地図では標高0.8mです。奈良平安時代の印旛沼水面の高さが標高5mであったと考えているわけではありませんが、この地図の標高5m等高線の平面位置付近に奈良平安時代の湖岸線があったと考えて大きな間違いはないと考えています。)

この図を見ると、古代印旛沼水面を見下ろすような場所に宗像神社と集落があります。この情報は現代(戦前)の情報です。

しかし、私は、古墳時代にあってもほぼ同じような場所に宗像神社と当時の集落があったと仮説します。

そして、船尾白幡遺跡と鳴神山遺跡の発掘区域はそれよりも内陸側にあります。

この現代の地図と発掘情報から、次のような空間イメージを作業仮説として持ちました。

作業仮説としての、船尾白幡遺跡付近空間イメージ

8世紀初頭に始まり、8世紀後半から9世紀初頭にかけて律令国家主導の開発が進み、9世紀に開発が大発展しましたが、その場所(新規開発地)は古墳時代から継続している奈良・平安時代の既存集落とは別の土地に立地したと考えます。

奈良・平安時代にあっては、この土地に旧住民(宗像海洋族の末裔)と新住民(律令国家が全国から集めた人材)が共存していて、空間的に棲み分けしていたと考えます。

新規開発地は既存集落と共存して、既存集落のいわば背後に作られたことは、開発の在り方を考えるときに重要な要素として把握しておく必要があると考えます。

新規開発の中枢部は印旛沼交通と便を考えて、既存集落の近くに造られたと考えます。

その場所が船尾白幡遺跡では発掘区域に含まれていると考えますが、鳴神山遺跡ではその場所が含まれていないと考えます。

従って、竪穴住居100軒当たり銙帯出土数が鳴神山遺跡では小さくなっていると考えます。

なお、新住民のリーダー(つまり開発地のリーダ)は墨書土器文字から、鳴神山遺跡は丈部一族、船尾白幡遺跡は壬生部一族であったと考えます。

新住民のリーダーは律令国家の采配で決まったものであり、近くの旧住民のリーダー出自等とは無関係であったと考えます。(現代風に考えれば、○○事務所長を国土交通大臣が人事発令するようなものと考えます。)

新住民リーダー(支配者)を補佐する官僚が配置されたと考えます。(その官僚が着帯した銙帯が出土している。)

官僚は恐らく西から転勤してきた転勤族であると考えます。新住民は全員外部からやってきたと考えます。

(鳴神山遺跡に「久弥良」(クビラ)と墨書する、当時西日本で始まってまだ時間が経過していない金毘羅信仰をもった住民がいたことなどがその状況を如実に示します。)

旧住民のリーダーは自分が支配する既存集落や信仰(宗像神社)を安堵してもらう見返りに、新規開発に協力する関係にあったと考えます。


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