花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.304 西根遺跡 墨書文字「大」と「天」に関する空想的検討
2016.03.11記事「西根遺跡 墨書文字「大」と「天」」の続きです。
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私の場合、考えたこと(気が付いたこと)をただそれだけで済ませてしまうと、結局考えなかったことと同じになってしまうことが多いです。
考えたことを、ブログ記事に書いておけば、後日それを読んで、必ず「それは違うぞ」とか「その通りだからもっと詳しく調べたい」とか評価に関わる感想を持つことができます。
間違っているにせよ、当たっているにせよ、その時直観レベルで正しいと感じたことをブログ記事にすることは、私にとって、大いに意義があります。学習を促進できます。
そうした観点から、専門的知識がほとんど無いにも関わらず、西根遺跡の墨書文字「大」と「天」の意味を考察してみました。
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次の図は現代の宗像神社(13社)分布を示したものです。
宗像神社(13社)の分布
宗像神社は古墳時代には既に立地していたと考えられています。
2015.10.26記事「鳴神山遺跡と宗像神社の関係」参照
従って、西根遺跡の時代、つまり奈良時代・平安時代の戸神・船尾地域の住民は宗像神社を信仰のよりどころとしていたはずです。
その宗像神社の位置をこれまでの検討図に書き込んでみました。
西根遺跡流路5(奈良時代後半~平安時代) 近隣遺跡の関わりイメージ
鳴神山遺跡・白井谷奥遺跡に対応する戸神川西岸に宗像神社(戸神)が、船尾白幡遺跡に対応する戸神川東岸に宗像神社(船尾)が立地しています。
鳴神山遺跡も船尾白幡遺跡も当時の住民は宗像神社を信仰のよりどころとしていたことが直観できます。
そして、鳴神山遺跡では墨書文字「大」が代表文字であり、つまり祈願成就文字の代表が「大」であり、船尾白幡遺跡ではそれが「天(則天文字」であったといことです。
この「大」、「天(則天文字」と宗像神社の存在から、その関係を空想を交えて行い、次のようにまとめました。
墨書文字「大」「天(則天文字)」の意味(2016.03.13検討)
奈良時代後半から平安時代にかけて、古墳時代の印旛沼開発に関わった九州宗像海洋族の末裔が、その信仰を守って、ローカルで局限的な圏域を形成していたと考えます。(現代でも!)
その地で律令国家がかかわる地域開発が始まり、外部から多くの人が入り込んだと考えます。
その際、印旛浦では特殊な宗像三女神信仰を地域開発における旗印にすることが出来なかったと考えます。
そこで、苦肉の策として、宗像三女神に通じる「天照大御神」(船尾白幡遺跡)、「大国主神」(鳴神山遺跡)を地域開発の旗印にして、祈願語(墨書文字)を「天(則天文字)」、「大」にしたのだと思います。
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後日、この記事を読み返したとき、どれだけ無知識の自分にがっかりするのか、あるいは想定外のヒットではないかと喜ぶのか、生起する感情が楽しみです。
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