2016年3月7日月曜日

西根遺跡 古墳時代後期から奈良時代前半の出土物

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西根遺跡の流路4は古墳時代後期から奈良時代前半の流路であり、流路5は奈良時代後半から平安時代にかけての流路です。

この記事では流路4の出土物を通じて西根遺跡の特性を検討します。

次の図は流路4からの金属製品と石製品の出土状況を示しています。

西根遺跡 流路4(古墳時代後期~奈良時代前半)金属製品・石製品の出土位置

耳輪、勾玉、有孔円盤が出土しています。発掘報告書ではいずれも祭祀関連遺物としています。
この時期に戸神川が祭祀の場であったことがわかります。

また出土位置が比較的上流にありますから、船尾白幡遺跡集落住民がこの場で祭祀を行ったと考えてよいと思います。

次の図は流路4からの土器の出土状況を示しています。

西根遺跡 流路4(古墳時代後期~奈良時代前半)土器の出土位置

船尾白幡遺跡から離れた下流に土器出土が偏っている印象を受けます。

土器も飲食を伴うような祭祀が行われたことを示していると考えますから、金属製品・石製品の分布とくらべて、その特徴が異なります。

単純に船尾白幡遺跡住民が川に降りて祭祀を行ったということではないという直観が働きます。

実は報告書では文章記述がないのですが、図面には下流に分水堰のような遺構が存在します。

発掘調査報告書図面に出ている堰のような施設
「印西市西根遺跡 -県道船橋印西線埋蔵文化財調査報告書-」(平成17年3月、独立行政法人都市再生機構千葉地域支社千葉ニュータウン事業本部・財団法人千葉県文化財センター)から引用

堰があるということは、その場が水利権の焦点になっている場であるということです。

一般論として、川の上流と下流、あるいは右岸と左岸で水利の利害が対立し、その対立の妥協・解決の現場が分水堰ということになります。

ですから、この堰付近は船尾白幡遺跡集落だけではなく、別の集団(具体的には戸神川西岸台地の住民)の存在も考えることが必須となります。

ここまでの情報だけで船尾白幡遺跡以外の集団をイメージすることはできませんが、実は古墳時代前期にこの付近に規模の大きな分水堰があったので、その様子を知っておくことが、今後の検討に役立つと考えられますので、参考として情報を整理しました。

参考 古墳時代の分水堰

古墳時代前期の分水堰の位置

古墳時代前期(流路3)の分水堰平面図
「印西市西根遺跡 -県道船橋印西線埋蔵文化財調査報告書-」(平成17年3月、独立行政法人都市再生機構千葉地域支社千葉ニュータウン事業本部・財団法人千葉県文化財センター)から引用

本流の右岸側(北側)に分水しています。


古墳時代前期分水堰の構造
「印西市西根遺跡 -県道船橋印西線埋蔵文化財調査報告書-」(平成17年3月、独立行政法人都市再生機構千葉地域支社千葉ニュータウン事業本部・財団法人千葉県文化財センター)から引用

古墳時代前期分水堰の出土状況
「印西市西根遺跡 -県道船橋印西線埋蔵文化財調査報告書-」(平成17年3月、独立行政法人都市再生機構千葉地域支社千葉ニュータウン事業本部・財団法人千葉県文化財センター)から引用

分水堰が当時の戸神川本流から北方向(右岸側)に水を配っていたということは、右岸側の台地集落が経営する水田に水を配っていた可能性が濃厚です。

その右岸側台地には鳴神山遺跡・白井谷奥遺跡があります。

この古墳時代前期分水堰は船尾白幡遺跡と鳴神山遺跡・白井谷奥遺跡の利害調整の施設だった可能性を感じます。

この分水堰で水配分が具体化されていた、その背後にある水利権そのものは古墳時代前期には確立されていたことは確実です。

そして、その水利権は堰が存在した古墳時代前期だけに存在したのではなく、古墳時代後期、奈良時代、平安時代と引き継がれたことも当然だと思います。

従って、古墳時代後期~奈良時代前期(流路4)には規模の大きな堰はありませんが、古墳時代前期の分水堰付近から下流は船尾白幡遺跡とは別の場所(右岸側)の集団の水利権が関係していて、その集団の祭祀が行われていた可能性もあります。

流路4の情報は少ないので、これ以上の検討はできませんが、流路5では墨書土器文字が利用できますので、検討が進む可能性があります。

西根遺跡は船尾白幡遺跡との関係だけでなく、鳴神山遺跡・白井谷奥遺跡との関係も浮かび上がりそうです。



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