2016年12月25日日曜日

大膳野南貝塚と縄文海進海面との位置関係

大膳野南貝塚の学習をスタートしようと思っていますが、その前段階のウォーミングアップをしています。

図書館から借用した発掘調査報告書はまだ読み始めていません。

発掘調査報告書の学習を開始する前に位置関係、大ざっぱな地形状況の把握、縄文海進海面との位置関係、縄文時代遺跡分布図の中での位置関係などについて、頭が白紙のうちに自分のイメージをつくることにします。

自分の頭が白紙のうちに得た各種原初的イメージが訂正・修正・廃棄あるいは発展していく様子を自分で感得することが趣味活動の醍醐味の一つであると体験してきました。

この記事では大膳野南貝塚と縄文海進最盛期海面との位置関係のイメージをつくります。

大膳野南貝塚の位置を地理院地図でプロットして、その地図と同縮尺地図で検討することにします。

大膳野南貝塚の位置 地理院地図(標準地図、色別標高図の乗算表示)

大膳野南貝塚の位置 地理院地図(最新空中写真)

この付近の縄文海進最盛期の海面分布資料は必ずや作成されていると予想します。

しかしまだそうした情報収集活動をしていないので、これまでのこのブログで実施した簡易的検討結果を使うことにします。

花見川及び平戸川(新川)におけるボーリング資料を用いた検討では、現在地形等高線8mライン付近が縄文海進最盛期の最大海面分布とほぼ一致するという結果になりました。

注:縄文海進最盛期の海面上昇が8mに及んだという意味ではなく、海面上昇2-3mにより広がった海面の分布域が、その後の地殻変動による地盤上昇、沖積作用による堆積、火山灰降灰、歴史時代における農地・宅地造成による盛り土等により、結果として等高線8mラインに近似するという意味です。

次に現在地形を標高8mで2区分しました。

大膳野南貝塚の位置と標高8mによる地形区分との関係

標高8m以下(空色)域が縄文海進最盛期の海面分布であると考えて、大きな誤りは生じないと考えます。

大膳野南貝塚は縄文時代海面上昇最盛期の村田川河口湾海面から直線距離で約2.5km離れた位置にあることが判りました。

次に標高8m以上の土地について標高区分して陸域の地形を見てみました。

標高区分はGISが行う自動区分に任せたものであり、概略イメージを得るための区分です。

 
大膳野南貝塚の位置と標高8m以上標高区分との関係

大膳野南貝塚が茶色の濃い区域(40m程度以上)の西端部に位置していることが判ります。

この位置は大膳野南貝塚の東に広がる標高40m程度以上の台地における猟場縄張り確保と、村田川河口湾における漁場縄張り確保の両立を可能にする絶好のポイントであるという仮説(想定)設定(2016.12.24記事「大膳野南貝塚の位置と周辺地形概要」参照)の説明図になると考えます。

大膳野南貝塚と縄文海進海面との位置関係はイメージするこができるようになりました。

さて、東に広がる台地における狩猟場の縄張りはどこまで広がるかという問題意識が頭をよぎります。

上記地図では遺跡が関係する猟場の東の果がでているのかどうか判りません。

そこで上記地図を東域に移動させてみました。

大膳野南貝塚の位置と標高8m以上標高区分との関係 2

大膳野南貝塚は村田川北岸の土地に位置しています。

そして、村田川が台地面を東西方向に刻み、台地面が南北に連続する部分は狭くなっています。

この狭い台地面の南北連続の場所付近が、動物が下総台地と房総丘陵を往復する移動回廊であり、旧石器時代における東日本最大の狩猟場であるという記述を以前学習しました。

大膳野南貝塚縄文人の狩猟場が動物移動回廊を含めて台地面全域に広がっていたのかどうか、興味が湧きます。

あるいは九十九里浜方面には別の縄文人グループが存在していて、旧石器時代には東日本最大の狩猟場と言われた場所で狩をして、同時に九十九里の海で漁撈をしていたということであるのか?

学習の過程でこの興味・疑問を解決していきたいと思います。



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