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2016年7月19日火曜日

船尾白幡遺跡 墨書土器出土の年代分布から帀(アマ)をみる

2016.07.18記事「船尾白幡遺跡 帀(アマ)の年代別分布」で墨書文字(祈願文字)帀(アマ)の年代別分布を見てみました。

帀(アマ)はこの遺跡(開発集落)の心理面における求心性を持つような代表的な文字ですから、その出土状況の変化を子細にみると集落社会の変化の様子を知ることができると考えました。

そこまで考えた時、そもそも墨書土器全体の出土状況を十分に把握していないことに気が付きました。

3か月間地名検討に熱中してしまい、墨書土器検討のカンが大分鈍ってしまっていたようです。

そこで、この記事では改めて船尾白幡遺跡の墨書土器の出土状況を年代別に観察して、その中で帀(アマ)を見直してみることにします。

船尾白幡遺跡の帀(アマ)に関する検討を徹底して行い、もしなにかの蓋然性の高い情報を得ることができれば、帀(アマ)と同じように開発集落の人心をリードするような祈願語である鳴神山遺跡の大(オオ)、白幡前遺跡の生(セイ)などについて、さらに理解を深めることが可能になると考えます。

1 年代別竪穴住居軒数・墨書土器出土数・墨書土器「帀(アマ)」出土数

船尾白幡遺跡の年代が推定されている竪穴住居軒数・墨書土器出土数・墨書土器「帀(アマ)」出土数をグラフにしてみました。

船尾白幡遺跡の年代が推定されている竪穴住居軒数・墨書土器出土数・墨書土器「帀(アマ)」出土数

竪穴住居軒数及び墨書土器出土数はⅤ期(9世紀第3四半期)がピーク、墨書土器「帀(アマ)」出土数はその前のⅣ期(9世紀第2四半期)がピークであることがわかります。

このグラフだけではわかりずらいので、竪穴住居軒数と墨書土器出土数の関係、墨書土器出土数と墨書土器「帀(アマ)」出土数の関係をもう少し詳しくみてみます。

2 竪穴住居軒数と墨書土器出土数の関係

竪穴住居1軒当たり墨書土器出土数を求めてみると次のようになります。

船尾白幡遺跡 竪穴住居1軒当たり出土墨書土器数

墨書土器を使った祈願は個人が自由勝手におこなっていたのではなく、集団の組織活動として行われていたと考えます。

生業に関わる社会集団が特定の祈願語を共有して、生業の発展を祈願していたと考えます。

そのような社会集団による祈願行為がピークになるのが、竪穴住居1軒当たり出土墨書土器数が最も大きくなるⅣ期(9世紀第2四半期)であると考えます。

Ⅳ期(9世紀第2四半期)までは社会の成長は順調であったと考えます。

Ⅴ期(9世紀第3四半期)になると竪穴住居1軒当たり出土墨書土器数はその値が若干減ります。

この現象から、集団が生業の発展を祈願語を共有して祈願するという活動が若干陰りを見せていることがわかります。

集落社会崩壊の前兆を見てとれます。

次に、竪穴住居分布と墨書土器分布の空間的関係を年代別にみてみます。

Ⅰ期(8世紀前葉)の竪穴住居分布と墨書土器分布

墨書土器出土数は1つだけです。

Ⅱ期(8世紀後葉~9世紀初頭)の竪穴住居分布と墨書土器分布

竪穴住居分布と墨書土器分布がほぼ一致します。

Ⅲ期(9世紀第1四半期)の竪穴住居分布と墨書土器分布

Cゾーンを除くと、竪穴住居分布と墨書土器分布がほぼ一致します。

Ⅳ期(9世紀第2四半期)の竪穴住居分布と墨書土器分布

竪穴住居分布と墨書土器分布がほぼ一致するような印象を受けます。


Ⅴ期(9世紀第3四半期)の竪穴住居分布と墨書土器分布

竪穴住居分布と墨書土器分布がほぼ一致するような印象を受けます。

Ⅵ期(9世紀末~10世紀前半頃)の竪穴住居分布と墨書土器分布

墨書土器は出土しません。


以上の空間分析から、竪穴住居分布と墨書土器分布はほぼ一致することが判りました。

集落全体でⅠ期からⅤ期に向かって出土墨書土器数が増え、1軒あたりでみるとⅣ期がピークであり、空間的には竪穴住居分布と墨書土器分布の間に大きな食い違いは無いということになります。

これで、墨書土器全体の年代別変化の概況が判りました。

次に、これと帀(アマ)との関連を見てみます。

3 墨書土器出土数と墨書土器「帀」(アマ)出土数との関係

墨書土器「帀」(アマ)の墨書土器全体に対する出土割合をグラフにしてみました。

船尾白幡遺跡 墨書土器「帀」(アマ)の出土割合(%)

帀(アマ)の割合はⅣ期(9世紀第2四半期)がピークで26.2%になります。集落の祈願文字の4つに1つが帀(アマ)であったということになります。

帀(アマ)は天照大御神を意味していて、外部から集落に移住してきた人々ともともと集落にいた人々の間を取り持つ絆の役割をする祈願語です。

ですからⅣ期までは年代毎に外部から移住してきた人ともともと集落にいた人々の間の関係が深まっていた時期であると想定できます。

Ⅴ期になると帀(アマ)の割合はⅣ期の半分以下に急減します。

ですからⅤ期には新住民と旧住民の一体感を生むような、集落全体の求心性が急速に減少したと考えられます。

よく言えば多様性が、悪く言えばバラバラ感が生まれていたと考えます。

帀(アマ)の割合が減少したのですから、その減少した分を埋めた別の祈願語があったはずです。

その帀(アマ)と入れ替わった祈願語がどのようなものであるかは次の記事で検討します。


集落全体での帀(アマ)割合の年代変化が判りましたので、次にそれが空間的にどうであったか検討します。

年代別に墨書土器分布と帀(アマ)分布を対照して観察してみます。

Ⅰ期(8世紀前葉)の墨書土器分布と帀(アマ)分布

帀(アマ)の分布はありません。

Ⅱ期(8世紀後葉~9世紀初頭)の墨書土器分布と帀(アマ)分布

Fゾーンでは墨書土器と帀(アマ)が対応します。

Dゾーンでは墨書土器が多数出土するのに帀(アマ)は1点だけです。

恐らく、帀(アマ)を祈願語とした人々(新住民)はDゾーンには少なかったのだと思います。

想像に想像を重ねれば、Dゾーンで帀(アマ)を祈願語としたのは転勤族として赴任した官人かもしれないと考えます。

Dゾーンの人々がどのような祈願語を使っていたか、次の記事で検討します。

Ⅲ期(9世紀第1四半期)の墨書土器分布と帀(アマ)分布

Fゾーンでは墨書土器と帀(アマ)分布が対応します。Fゾーンは外来の新住民による集落であったと考えます。

DゾーンはⅡ期と同じような状況であり、このゾーンは旧住民(おそらく宗像神社の氏子)の居住域であったと考えます。

Ⅳ期(9世紀第2四半期)の墨書土器分布と帀(アマ)分布

各ゾーンともに墨書土器の出土数が増え、それに対応して帀(アマ)も分布します

船尾白幡遺跡の集落社会が最も発展して、かつ社会の求心力が備わっていた年代です。

Ⅴ期(9世紀第3四半期)の墨書土器分布と帀(アマ)分布

墨書土器分布はⅣ期とあまり変わらないのですが、と帀(アマ)はFゾーンとDゾーンだけに限定されていまいます。

各ゾーンで帀(アマ)が使われなくなり、別の祈願語が使われるようになったことが判ります。

Ⅴ期に使われた祈願語を分析すれば、崩壊直前の、あるいは崩壊しつつある社会の祈願語が判りますから、社会の様子を祈願内容から推し量ることができる可能性があります。

次の記事で検討します。


Ⅵ期(9世紀末~10世紀前半頃)になると集落は崩壊し、墨書土器出土はなくなります。


2016年7月18日月曜日

船尾白幡遺跡 帀(アマ)の年代別分布

船尾白幡遺跡を代表すると考えられる墨書文字帀(アマ)を年代別に検討してみました。

墨書文字 帀(アマ)の例


1 Ⅰ期(8世紀前葉)

Ⅰ期(8世紀前葉)の帀(アマ)分布

Dゾーンに3軒の竪穴住居があり、それは古墳時代から継続してきている集落の一部であると考えます。

8世紀前葉では帀(アマ)は出土しません。

2 Ⅱ期(8世紀後葉~9世紀初頭)

Ⅱ期(8世紀後葉~9世紀初頭)の帀(アマ)分布

8世紀後葉~9世紀初頭は蝦夷戦争時代であり、下総国では各地で兵站基地(新規開発集落)が建設されました。

船尾白幡遺跡も兵站基地(新規開発集落)建設場所です。


この年代に入ると、Dゾーンの竪穴住居が急激に増え、同時にA、B、Fゾーンにも新たに竪穴住居が作られました。

この時代になった初めて帀(アマ)が出土します。

しかもDゾーンとFゾーンの2個所で出土します。

Dゾーンは既存集落が高密度化したところで、兵站基地建設にあたり、支配(行政)拠点として建設されたと考えます。

Dゾーンが支配(行政)拠点であったことは、この年代を含め、Dゾーンからのみ銙帯(官人が着用)が出土していることから証明できます。

参考 船尾白幡遺跡 銙帯出土状況 1

参考 船尾白幡遺跡 銙帯出土状況 2

Fゾーンは蝦夷戦争のために全く新規に開発されだした場所です。

帀(アマ)が集落支配に関わる拠点と新規開発場所の双方から同時に出土していることから、この墨書文字が蝦夷戦争の兵站基地建設と関わっていることが類推できます。

蝦夷戦争兵站基地建設を主導したのは律令国家ですから、墨書文字帀(アマ)は律令国家が備える思想や文化などと密接に関係するものであると考えます。

つまり、帀(アマ)は律令国家によってこの場所に持ち込まれた祈願語であると考えます。

帀(アマ)が天照大御神を表し、その背景にこの付近の宗像三女神信仰との関連性があるというこのブログの考えと、合う(矛盾しない)結果となりました。

3 Ⅲ期(9世紀第1四半期)

Ⅲ期(9世紀第1四半期)の帀(アマ)分布

9世紀第1四半期は蝦夷戦争が終わり、その動員圧がなくなり、集落が大発展し出す最初の時期です。

この年代ではFゾーンで竪穴住居が増え、その場所で前代に始まった帀(アマ)出土が増えます。

Dゾーンでも帀(アマ)が引き続き出土します。


4 Ⅳ期(9世紀第2四半期)

Ⅳ期(9世紀第2四半期)の帀(アマ)分布

各ゾーンで竪穴住居が増え、集落の最盛期に近づいているとともに、帀(アマ)も各ゾーンで増えます。

8世紀後葉~9世紀初頭にまかれた帀(アマ)という文字の種が集落全体に広がって育ったというような様子としてみることができます。

帀(アマ)が祈願語として集落全体で使われていたこの時期は、心理面(感情面)で集落に求心性があったと想像します。


5 Ⅴ期(9世紀第3四半期)

Ⅴ期(9世紀第3四半期)の帀(アマ)分布

9世紀第3四半期は集落の絶頂期であり、同時に凋落の条件を既に内包している年代です。

鳴神山遺跡の検討では、この時期から治安の悪化が激しくなっています。

帀(アマ)の出土は再びFゾーンとDゾーンに限定されます。Ⅱ期(8世紀後葉~9世紀初頭)、Ⅲ期(9世紀第1四半期)と似た分布になります。

このことは、帀(アマ)を祈願語に使っていた人々が別の文字を祈願語として使いだしたことを物語っています。

祈願語からみて、社会が多様化しているということです。

集落の心理面(感情面)における求心性は減少したと考えます。

6 Ⅵ期(9世紀末~10世紀前般頃)

Ⅵ期(9世紀末~10世紀前半頃)の帀(アマ)分布

集落の竪穴住居もほとんど消滅し、帀(アマ)も出土しなくなります。



墨書文字(祈願語)帀(アマ)の消長から、集落の消長をたどることができました。

帀(アマ)だけでなく、墨書文字(祈願語)全体の年代的・空間的変化をもっと総合的に捉えると、集落消長の要因を知る手がかりを得ることができそうです。

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追記 2016.07.19
画像中の遺跡名が間違っていましたので、訂正したものに差し替えました。


2016年7月17日日曜日

船尾白幡遺跡の墨書土器検討 帀(アマ)、千(セン)、任(ミブ)、門(カド)

船尾白幡遺跡の検討を再開しますが、かなりの検討を既に行いましたので、残りは墨書土器の体系的検討ということになります。

墨書文字の体系的検討としては、主な文字についてその意味を検討することにします。

船尾白幡遺跡の全墨書土器データを「釈文」でまとめると次のようになります。

船尾白幡遺跡 全墨書土器(480) 釈文一覧

この全墨書土器について、遺構外のために出土位置が不明のものを除いた全部をプロットすると次のようになります。

船尾白幡遺跡 全墨書土器分布

図に書き込んだ○とA・B・C…は分布状況を説明するための補助として書き込んだゾーン区分です。

A、B、Cゾーンは発掘域が限定されていますから、墨書土器分布の様子はよくわかりません。

D、E、F、Gゾーンには墨書土器が多数出土する遺構が含まれています。

なお、2月の検討でD→F→Eの順に開発が進んだことが判っています。

2016.02.26記事「船尾白幡遺跡の竪穴住居と掘立柱建物」参照

墨書文字の検討は出土数の多いものから順に検討することにします。

最初に出土数の多い帀(アマ)、千(セン)、任(ミブ)について検討します。

それらに検討対象を上記表で色分けして示すと次のようになります。

帀(アマ)、千(セン)、任(ミブ)の検討対象

1 帀(アマ)の検討

まず、千葉県墨書土器データベースで使われている「帀」という漢字は便宜的に使っているもので、墨書文字とは全く無関係であることを知っておく必要があります。

実際の墨書文字の例は次のようになります。

帀(アマ)の実際の墨書文字例

現代漢字に無い文字で、天の則天文字由来であるといわれています。

私は、この文字を墨書した人々は雨(アメ、アマ)を意識して、それから雨粒(4つの点)を除いて、晴天を表し、天(アマ)を表現するというローカルなストーリーを持っていたと想像しています。

この文字を現代のテキストで表示するための苦肉の策として、形が似ている全く別の文字帀(そう、めぐる)を借用して表記しているのです。

しかし、これしか情報を伝える方法がないので、このブログでも帀をつかいます。

同時に過去の検討から帀は天照大御神を表現していると考えてきていますので、このブログでは帀(アマ)とルビを振って表現します。

帀(アマ)の分布は次の通りです。

船尾白幡遺跡 墨書文字「帀」(アマ)分布

帀(アマ)は主な墨書土器分布域であるD、E、Fゾーンに分布します。

これは帀(アマ)が集落の主な信仰対象と考えられる天照大御神を象徴しているので、多くの人々が生活改善祈願語として使ったためであると考えます。

特定の生業・職種に関わらず、多くの人々が天照大御神に向けて願い事を祈願したと考えます。



参考 墨書文字「大」「天(則天文字)」の意味(2016.03.13検討)


2 千(セン)の検討

墨書文字「千(セン)」は次のように分布します。

船尾白幡遺跡 墨書文字「千」(セン)分布

分布がEゾーンに偏在していることが大きな特徴となっています。

Eゾーンは9世紀第3四半期に開発されてた場所です。

過去に検討した養蚕や乾漆などの主な産業との関わりがあまりない場所です。

千(セン)と共伴出土する他の墨書文字は少なく、千(セン)の意味をえぐりだすようなことができていません。

ただ、鳴神山遺跡での墨書文字「万」(マンドコロ)検討で、千万(センマンドコロ)が多く出土し、千とは銭であることを突き止めました。

千万(センマンドコロ)とは銭貨に関する財政や訴訟などを扱う拠点であると考えたのでした。

2016.02.01記事「墨書土器文字検討メモ 万(マンドコロ)」参照

船尾白幡遺跡でも「千万」が出土していますから、鳴神山遺跡検討と同じように「千」(セン)=銭、千万=銭マンドコロである可能性があります。

銀行機能(あるいはサラ金、高利貸し機能)という商業機能が9世紀第3四半期(集落発展のピーク期=最後期)の船尾白幡遺跡に生まれたのかどうか、興味が湧きます。

今後鳴神山遺跡も含めて、「千=銭」仮説が本当であるか、検討を深めるつもりです。

3 任(ミブ)の検討

墨書文字「任」(ミブ)の分布は次の通りです。

船尾白幡遺跡 墨書文字「任」(ミブ)分布

任(ミブ)の分布がFゾーンに偏在しています。

これまで「大生部」(オオミブベ)「生部」(ミブベ)とは壬生部(ミブベ)のことで、壬生部は宮城十二門の守衛に当たった門部(かどべ)だと考えてきています。

そして、任とは壬生(みぶ)の「壬」の字に「人偏」を付けて、「壬生」の業務に携わる人を表現していると考えてきています。

2016.03.16記事「船尾白幡遺跡の支配氏族 大生部」参照

そこで、門(カド)の分布を調べてみました。

船尾白幡遺跡 墨書文字「門」(カド)分布

門(カド)はGゾーンに偏在しています。またFゾーンにも分布します。

FゾーンとGゾーンは隣接しますから任(ミブ)と門(カド)は一体的に考えてよさそうです。

おそらく、任(ミブ)という墨書文字を書いて生活改善を祈願したのは壬生部所属の集団で、門(カド)と書いたのはその集団の中でも武装した集団であったと考えます。

武士の萌芽みたいなものかもしれません。

Gゾーンは船尾白幡遺跡を外敵から守る要塞的な要衝位置にあると考えます。

Fゾーンから刀子・鉄鏃が多出することから、壬生部武装集団がF、Gゾーンに存在していたことが裏打ちされます。

2016.03.23記事「船尾白幡遺跡 鉄鏃と刀子」参照

(これまでの鳴神山遺跡の検討から、武装集団の前線には武器は少なく、後方の拠点にあることが判っています。つまりお雇い武士には普段は武器を持たせず、武器は雇い主が保管していて、お雇い武士に逆に襲われることを防いでいたと考えられます。)


なお、これまでの検討から、任(ミブ)とわざわざ所属氏族名を祈願語に使う小集団は、壬生部全体(船尾白幡遺跡全体)の中でも壬生部に対する帰属感を強めたいと願っている小集団であると考えます。

おそらく、新規開発地(船尾白幡遺跡)に外部から参入した集団で、その活躍が評価されて壬生部の要職につけそうな集団だと思います。

本家筋(本流)はわざわざ任(ミブ)を祈願語に使わなかったと想像します。

なお、門(カド)はすべて、漢字構成要素の右側だけ、あるいは左側だけであり、漢字構成要素が二つとも含まれるもの(門)はありません。