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2017年7月18日火曜日

参考 墨書土器 西根遺跡奈良時代出土物

縄文時代西根遺跡とは直接関係がありませんが、西根遺跡奈良平安時代流路5から出土した墨書土器を閲覧しましたので、この機会に過去の検討をふりかえりました。
なお墨書土器「息」は2017.07.16記事「縄文時代漆パレットと奈良時代漆パレットが同じ西根遺跡から出土」ですでに紹介してます。

1 西根遺跡の船尾白幡遺跡及び鳴神山遺跡との関連
過去の検討で西根遺跡(奈良平安時代流路5)と近隣遺跡との関わりは明瞭にゾーン区分されていることが判っていますので最初に紹介します。

西根遺跡の近隣遺跡との関わり

2 船尾白幡遺跡関連墨書土器
2-1 大生部直子猪形代

大生部直子猪形代
千葉県教育委員会所蔵

発掘調査報告書スケッチ

大生部(オオミブベ)という氏族の直(アタイ 姓)子猪(名)の形代(カタシロ 身代わり)と解釈されています。大生部直子猪の身代わりに何かをお供えしたという説明です。8世紀第3四半期のものとされています。

2-2 舟穂郷生部直弟刀自女奉 天(則天文字) 天(則天文字)

舟穂郷生部直弟刀自女奉
千葉県教育委員会所蔵
文字が薄くほとんど確認できません。

天(則天文字) 天(則天文字)
千葉県教育委員会所蔵

発掘調査報告書スケッチ

現在の地名「船尾」が少なくとも9世紀中葉までさかのぼることが確認できる資料であるとされています。
「生部」(ミブベ)は「大生部」(オオミブベ)と同じ氏族名であると考えられています。
同一氏族が100年近く同様な祭祀を行っていたと考えられています。

天(則天文字)はアマと読み、天照大御神のことではないかと想像しています。

2-3 天(則天文字)

天(則天文字)
千葉県教育委員会所蔵

発掘調査報告書スケッチ

天(則天文字)はアマと読み、天照大御神のことではないかと想像しています。

2-4 佛




千葉県教育委員会所蔵

発掘調査報告書スケッチ

鎮護国家の時代であり仏教の布教が船尾白幡遺跡で行われていたことを証明する墨書土器です。

3 鳴神山遺跡関連墨書土器
3-1 丈部春女罪代立奉大神

丈部春女罪代立奉大神
千葉県教育委員会所蔵

罪は薄っすらと読めますが全体に肉眼判読は無理です。

発掘調査報告書スケッチ

「丈部春女、罪の代わり、大神に立て奉る」と釈読される延命祭祀用墨書土器であるとされています。9世紀前半。

丈部(ハセツカベ)は氏族名です。

3-2 大


千葉県教育委員会所蔵

発掘調査報告書スケッチ

大は鳴神山遺跡の最多出土墨書文字です。

オオと読み大国主神のことであると想像しています。

4 西根遺跡墨書土器に関するこれまでの検討

長文墨書土器は次のように分布しています。

西根遺跡長文墨書土器分布

これと船尾白幡遺跡のメイン文字「天」(則天文字)と鳴神山遺跡のメイン文字「大」の分布から、次のような対応関係を想定しています。

支配氏族と代表墨書文字

代表墨書文字の背景には次のような意味があると想像しています。

墨書文字「大」「天(則天文字)」の意味


2016年11月9日水曜日

上谷遺跡 被熱ピットのある竪穴住居からの出土物の多さ

上谷遺跡に存在する17の被熱ピットのある竪穴住居は鍛冶遺構であると想定しています。

その17竪穴住居からの遺物出土量が多いので検討しておきます。

金属製品の出土数を遺構別にみると次のようになります。

上谷遺跡 被熱ピット出土竪穴住居の金属製品出土数

平均値でみると被熱ピットがある竪穴住居は全体の値の約2.4倍となります。

墨書土器の出土数を遺構別にみると次のようになります。

上谷遺跡 被熱ピット出土竪穴住居の墨書土器出土数

平均値でみると被熱ピットのある竪穴住居は全体の約3.5倍となります。

被熱ピットのある竪穴住居は鉄器修繕の場であり、その場は同時に商品としての鉄器流通の場であり、鉄器修繕リサイクル技術が存在する場であり、さらには木炭生産を指揮管理する場であったとも考えます。

従って、被熱ピットのある竪穴住居で小鍛冶活動を行っていたのは集落の上層部、指導層に属する家族であったと考えます。

被熱ピットのある竪穴住居が廃絶したということは集落上層部、指導層の人間が死んだ(一家を継ぐ者がいなくなった)ことを意味します。

ですから、その住居跡(穴としての空間)で死んだ人やその人が果たした役割をしのぶ祭祀が関係者によって繰り返し行われ、そのとき金属製品や墨書土器がお供え物として置かれた(埋められた、投げられた)と考えます。

発掘調査報告書では覆土層から出土する遺物を祭祀に関わるものとは見立てておらず、ゴミ捨て場のゴミのような想定をしていますが、発掘情報を子細に分析すればそのような見方(ゴミ)は根拠のない思い込みであることが判明すると考えています。

墨書土器をわざわざ割って竪穴住居跡に置く、貴重な鉄製品等を(壊れたものであるとはいえリサイクル可能にもかかわらず)わざわざ竪穴住居跡に置く、竪穴住居跡で東京湾からわざわざ取り寄せた貴重な貝を食べその貝殻を残すことなど、出土物自体が祭祀のあったことを物語っています。

参考 上谷遺跡 被熱ピット等のある竪穴住居

2016年8月6日土曜日

上谷遺跡 墨書土器文字の鳴神山遺跡との比較

上谷遺跡墨書土器の主要文字について、白幡前遺跡に続き鳴神山遺跡との比較を行います。

上谷遺跡の墨書土器出土数は千葉県第2位1043、鳴神山遺跡は第1位1158です。


上谷遺跡と鳴神山遺跡の位置

墨書土器主要文字別出土数グラフを上谷遺跡と鳴神山遺跡について掲示します。


上谷遺跡 墨書土器 文字別出土数
千葉県墨書土器データベース(本編、補遺1、補遺2)(明治大学)から作成


鳴神山遺跡 墨書土器 文字別出土数
千葉県墨書土器データベース(本編、補遺1、補遺2)(明治大学)から作成

鳴神山遺跡と比較すると、上谷遺跡に次のような特色をみることができます。

●上谷遺跡の特色

ア 出土数が少ない文字の絶対量が少ない

釈文された墨書土器のうち上位4位までのものを除いた出土数は上谷遺跡では113ですが、鳴神山遺跡では346であり、3倍の違いとなります。

この特色は白幡前遺跡と比較したときにも検出されたものです。

特定の文字の出土が多く、多様な文字の出土が見られないということになります。

文字種類貧弱性があるということて、次の特性で逆から説明できます。


イ 主要文字の出土数が多い

釈文文字の第1位から第4位までの合計は上谷遺跡では364(全体の35%)ですが、鳴神山遺跡では296(全体の26%)です。

上谷遺跡では主要文字の出土数が多いという特性が、白幡前遺跡との比較とも共通してみてとれます。


ウ 漢字の使い方の難易度が低い

白幡前遺跡との比較では、上谷遺跡は難易度の低い漢字を使っているという特色を考察しました。

鳴神山遺跡との比較では、上谷遺跡は出土数上位4位までが全て単漢字の墨書となっていますが、鳴神山遺跡では2漢字(大加)と3漢字(久弥良)が含まれます。

単漢字より2漢字、3漢字の利用の方が文字操作としては難易度が高いと考えれますから、上谷遺跡は漢字の使い方の難易度が低いといえます。

なお、このブログではこれまで鳴神山遺跡の文字と次のように考えてきています。

大(大国主神)、大加(大国主神を信奉する集団に加勢する)、依(キヌ…絹生産)、久弥良(クビラ…金毘羅)

この解釈については今後再検討する予定です。

上谷遺跡文字の発掘調査報告書による解釈(得と万は福徳の祈願、西は方位、竹は地名に関連すると推定)と比較すると、鳴神山遺跡では神が出てくるので、鳴神山遺跡の方がより強い文化的刺激を受けているような印象を持ちます。

エ 人面・多文字墨書土器が多出する

白幡前遺跡との比較と同様に、鳴神山遺跡と比較しても上谷遺跡では人面・多文字墨書土器の多出が特徴となっています。



以上、鳴神山遺跡と比較して上谷遺跡の特徴から次のような集落特性を推察します。

・人面・多文字墨書土器は集落の支配層が書いたと考えられますから、上谷遺跡の方が鳴神山遺跡より支配層の人数が多かった可能性が考えられます。

・単文字や少数文字墨書土器は集落構成員(一般民衆)が組織活動において書いたと考えられ、それに多様性がないことから、集落構成組織は上谷遺跡の方が鳴神山遺跡より単純であった、あるいは集落存続期間が短期間であったと考えられます。

・文字種が貧弱である分だけ上谷遺跡は鳴神山遺跡と比べて集落ミッションが虚弱であったような印象を受けます。

・恐らく上谷遺跡のほうが鳴神山遺跡より生業職種が貧弱であったと考えます。

次に記事で、上谷遺跡墨書文字特性が白幡前遺跡や鳴神山遺跡と何故異なるのか、その一つの可能性を検討します。



2016年8月4日木曜日

上谷遺跡 墨書土器文字の白幡前遺跡との比較

上谷遺跡の墨書土器文字について近隣遺跡との比較検討を行い、上谷遺跡の特色をあぶり出すことにします。

この記事では白幡前遺跡との比較を行います。

上谷遺跡の墨書土器出土数は千葉県第2位1043、白幡前遺跡は第3位832です。

上谷遺跡と白幡前遺跡の位置

墨書土器文字別出土数グラフを上谷遺跡と白幡前遺跡について次に掲示します。


上谷遺跡 墨書土器 文字別出土数
千葉県墨書土器データベース(本編、補遺1、補遺2)(明治大学)から作成

白幡前遺跡 墨書土器 文字別出土数
千葉県墨書土器データベース(本編、補遺1、補遺2)(明治大学)から作成

●上谷遺跡の特色

ア 釈文不明墨書土器の多さ

上谷遺跡では釈文不明数が462、白幡前遺跡では117と大きく異なります。この差異が出土状況そのものに起因するものか、調査手法に起因するものであるのか不明です。

釈文不明墨書土器割合が出土状況そのものに起因するとすれば、上谷遺跡では土器が最後に捨てられるときの破壊細分化が著しかったなどが考えられると思います。

調査手法が起因するとすれば、調査年代が新しくなるに従ってわずかの墨書跡も見逃さないという調査技術の精度向上があり、上谷遺跡では土器片墨書痕跡の見逃しが少なくなったということが考えられます。

あるいは墨書形状は明瞭であるが、上谷遺跡では釈文が追い付かなったということかもしれません。

今後釈文不明土器の画像を見て、上谷遺跡釈文不明土器の多さについてその理由を検討したいと思います。

イ 出土数が少ない文字の絶対量が少ない

釈文不明と記号を除いた釈文された墨書土器数のうち、出土数上位4位までの文字、人面長文、地形、記号を除いた出土少文字は上谷遺跡では113です。

ところが白幡前遺跡では出土少文字が399になります。上谷遺跡の4倍になります。

上谷遺跡では白幡前遺跡とくらべて文字の多様性が大変貧弱であるといえます。

この文字種類貧弱性は次の特性で逆からも説明されます。

ウ 主要文字の出土数が多い

上谷遺跡では上位出土数文字は1位118、2位87、3位86、4位73ですが、白幡前遺跡では1位112、2位46、3位44、4位43となっています。

上谷遺跡では白幡前遺跡とくらべて少ない文字種類が沢山出土しているという傾向を読み取ることができます。

エ 難易度の低い漢字を使っている

上谷遺跡では得、西、竹、万が出土数上位の漢字です。発掘調査報告書では得と万は福徳の祈願に、西は方位、竹は地名に関連すると推定します。

この推定が当を得ているかどうか今後検討を深めますが、もしその通りの意味であるとすると、現代人の感覚でいえば概念が具体的であり、文字の画数も少なく、そのセットは白幡前遺跡と比べて難易度が低いように感じます。

一方、白幡前遺跡では生、夫(*大と一の組み合わせ文字、大一(タイイツ))、廓、継が出土数上位の漢字です。

このブログではこれまでこれらの文字の意味を次のように考えてきました。

生(戦勝祈願 生き残る)、夫*(陰陽師による戦勝祈願)、廓(基地警備隊の戦勝祈願)、継(都と戦地をつなぐ)

この解釈については今後再検討する必要予定ですが、いずれの文字も概念の度合いが高く、組織が関わるような言葉であると想定されす。

同時に組文字や多画数文字であり、難易度が高い文字であると考えて間違いないと思います。

オ 人面・多文字墨書土器が多出する

上谷遺跡では人面・多文字墨書土器が多出していて大きな特徴となっています。



以上の特徴を次のようにまとめることができます。

・上谷遺跡では墨書土器出土数が特段に多く千葉県第2位である。

・上谷遺跡では白幡前遺跡と比べると人面・多文字墨書土器が多出する一方、単文字や少数文字墨書土器の文字種類が貧弱であり、その文字難易度も低い。



人面・多文字墨書土器は集落の支配層が書いたと考えられますから、上谷遺跡の方が白幡前遺跡より支配層の人数が多かった可能性が考えられます。

単文字や少数文字墨書土器は集落構成員(一般民衆)が組織活動において書いたと考えられます。

従って、集落構成組織は上谷遺跡の方が白幡前遺跡より単純であった、あるいは集落存続期間が短期間であったと考えられます。

文字種が貧弱である分だけ上谷遺跡は白幡前遺跡と比べて集落ミッションが虚弱であったような印象を受けます。

恐らく上谷遺跡のほうが白幡前遺跡より生業職種が貧弱であったと考えます。

同じ開発集落でも上谷遺跡と白幡前遺跡とはその性格が大いに異なるようです。


2016年7月31日日曜日

上谷遺跡 遺構別墨書土器出土数

上谷遺跡の遺構別墨書土器出土数について、これまで検討した近隣遺跡と比較して、特徴があるか検討してみました。

近隣遺跡の遺構別墨書土器出土数の表とグラフを示します。

上谷遺跡と近隣遺跡の遺構別墨書土器出土数 グラフ1

上谷遺跡と近隣遺跡の遺構別墨書土器出土数 グラフ2

上谷遺跡と近隣遺跡の遺構別墨書土器出土数 表

上谷遺跡は、竪穴住居から出土する墨書土器の%は他の遺跡と同様ですが、掘立柱建物から出土する墨書土器の%が高くなっています。

一般に、掘立柱建物からの遺物出土はすくないので掘立柱建物の利用目的等を知ることが困難です。

しかし上谷遺跡で全体の5.5%である57点の墨書土器が掘立柱建物から出土していますから掘立柱建物の利用状況の推察に墨書土器が利用できる可能性が他の遺跡より高まります。

なお近隣遺跡で掘立柱建物からの墨書土器出土が最も高いのは井戸向遺跡6.9%(19点)で上谷遺跡が2番目に多い遺跡になります。

3番目に多い遺跡は船尾白幡遺跡3.3%(16点)ですが、この遺跡では掘立柱建物の柱穴に「小」の墨書土器が出土し、「子」(コ)=蚕(コ)であることから、掘立柱建物の用途が繭を生産する蚕小屋であることが判明しました。

2016.03.25記事「船尾白幡遺跡における養蚕を示す墨書文字「子」「小」」参照

2016年7月30日土曜日

上谷遺跡出土墨書土器の概要

上谷遺跡遺構のGIS化に時間がかかりそう(*)なので、遺跡内空間分析は追って行うこととし、最初に公開データベースを利用して出土墨書土器の概要を検討します。

*2016.07.29記事「千葉県八千代市上谷遺跡の学習検討方針」参照

1 遺構別墨書土器出土数

遺構別に墨書土器出土数を整理すると次のようになります。

上谷遺跡 遺構別墨書土器出土数

竪穴住居からの出土が多く、掘立柱建物からの出土が少ないのはどの遺跡も同じですが、今後近隣遺跡の同様統計と比較して確認することとします。

土坑や溝状遺構からの出土が少なく、その点で他の遺跡との違いがありそうです。

2 墨書土器 文字別出土数

墨書土器の文字別出土数をまとめると次のようになります。

上谷遺跡 墨書土器 文字別出土数

多く出土する文字は限られていて、得、西、竹、万が該当します。

これらの文字の意味の検討はこの記事ではなく、今後墨書土器データをGISデータベース化して空間分析できるようになってから行います。

なお、萱田遺跡群、鳴神山遺跡、船尾白幡遺跡などでは得、西、竹はほとんど出土しませんから興味が深まります。

また人面土器、長文土器が多数出土しますので、今後じっくり検討します。

近隣他遺跡と比べて文字のバリエーションが貧弱であるような印象を受けますが、本当にそうであるか、統計的に近隣遺跡と今後比較します。

文字別出土数カウントの資料を次に示します。

文字別出土数カウント資料 1

文字別出土数カウント資料 2

3 器質器種別出土数

墨書土器の器質器種別出土数を次に示します。

上谷遺跡 墨書土器 器質器種別出土数

土師器坏が圧倒的に多くなっていて、この傾向は近隣遺跡と同様の結果となっている考えますが、今後統計的に確認作業を行います。

土師器坏が祈願用に使われる個人所有食器であったと考えます。

4 墨刻別出土数

墨書土器の墨刻別出土数を次に示します。

上谷遺跡 墨刻別出土数

墨書が圧倒的多くなっています。

朱書は墨書よりも祈願に特別な意味を含ませていると考えますので、その文字等の検討を今後行います。

ヘラは焼成前に土器製造職人が書いた文字(記号)ですから、土器利用者が書いた墨書・刻書とは意味が異なります。

従ってヘラの文字(記号)等の意味について墨書・刻書等とは分けて検討するつもりです。


2016年7月19日火曜日

船尾白幡遺跡 墨書土器出土の年代分布から帀(アマ)をみる

2016.07.18記事「船尾白幡遺跡 帀(アマ)の年代別分布」で墨書文字(祈願文字)帀(アマ)の年代別分布を見てみました。

帀(アマ)はこの遺跡(開発集落)の心理面における求心性を持つような代表的な文字ですから、その出土状況の変化を子細にみると集落社会の変化の様子を知ることができると考えました。

そこまで考えた時、そもそも墨書土器全体の出土状況を十分に把握していないことに気が付きました。

3か月間地名検討に熱中してしまい、墨書土器検討のカンが大分鈍ってしまっていたようです。

そこで、この記事では改めて船尾白幡遺跡の墨書土器の出土状況を年代別に観察して、その中で帀(アマ)を見直してみることにします。

船尾白幡遺跡の帀(アマ)に関する検討を徹底して行い、もしなにかの蓋然性の高い情報を得ることができれば、帀(アマ)と同じように開発集落の人心をリードするような祈願語である鳴神山遺跡の大(オオ)、白幡前遺跡の生(セイ)などについて、さらに理解を深めることが可能になると考えます。

1 年代別竪穴住居軒数・墨書土器出土数・墨書土器「帀(アマ)」出土数

船尾白幡遺跡の年代が推定されている竪穴住居軒数・墨書土器出土数・墨書土器「帀(アマ)」出土数をグラフにしてみました。

船尾白幡遺跡の年代が推定されている竪穴住居軒数・墨書土器出土数・墨書土器「帀(アマ)」出土数

竪穴住居軒数及び墨書土器出土数はⅤ期(9世紀第3四半期)がピーク、墨書土器「帀(アマ)」出土数はその前のⅣ期(9世紀第2四半期)がピークであることがわかります。

このグラフだけではわかりずらいので、竪穴住居軒数と墨書土器出土数の関係、墨書土器出土数と墨書土器「帀(アマ)」出土数の関係をもう少し詳しくみてみます。

2 竪穴住居軒数と墨書土器出土数の関係

竪穴住居1軒当たり墨書土器出土数を求めてみると次のようになります。

船尾白幡遺跡 竪穴住居1軒当たり出土墨書土器数

墨書土器を使った祈願は個人が自由勝手におこなっていたのではなく、集団の組織活動として行われていたと考えます。

生業に関わる社会集団が特定の祈願語を共有して、生業の発展を祈願していたと考えます。

そのような社会集団による祈願行為がピークになるのが、竪穴住居1軒当たり出土墨書土器数が最も大きくなるⅣ期(9世紀第2四半期)であると考えます。

Ⅳ期(9世紀第2四半期)までは社会の成長は順調であったと考えます。

Ⅴ期(9世紀第3四半期)になると竪穴住居1軒当たり出土墨書土器数はその値が若干減ります。

この現象から、集団が生業の発展を祈願語を共有して祈願するという活動が若干陰りを見せていることがわかります。

集落社会崩壊の前兆を見てとれます。

次に、竪穴住居分布と墨書土器分布の空間的関係を年代別にみてみます。

Ⅰ期(8世紀前葉)の竪穴住居分布と墨書土器分布

墨書土器出土数は1つだけです。

Ⅱ期(8世紀後葉~9世紀初頭)の竪穴住居分布と墨書土器分布

竪穴住居分布と墨書土器分布がほぼ一致します。

Ⅲ期(9世紀第1四半期)の竪穴住居分布と墨書土器分布

Cゾーンを除くと、竪穴住居分布と墨書土器分布がほぼ一致します。

Ⅳ期(9世紀第2四半期)の竪穴住居分布と墨書土器分布

竪穴住居分布と墨書土器分布がほぼ一致するような印象を受けます。


Ⅴ期(9世紀第3四半期)の竪穴住居分布と墨書土器分布

竪穴住居分布と墨書土器分布がほぼ一致するような印象を受けます。

Ⅵ期(9世紀末~10世紀前半頃)の竪穴住居分布と墨書土器分布

墨書土器は出土しません。


以上の空間分析から、竪穴住居分布と墨書土器分布はほぼ一致することが判りました。

集落全体でⅠ期からⅤ期に向かって出土墨書土器数が増え、1軒あたりでみるとⅣ期がピークであり、空間的には竪穴住居分布と墨書土器分布の間に大きな食い違いは無いということになります。

これで、墨書土器全体の年代別変化の概況が判りました。

次に、これと帀(アマ)との関連を見てみます。

3 墨書土器出土数と墨書土器「帀」(アマ)出土数との関係

墨書土器「帀」(アマ)の墨書土器全体に対する出土割合をグラフにしてみました。

船尾白幡遺跡 墨書土器「帀」(アマ)の出土割合(%)

帀(アマ)の割合はⅣ期(9世紀第2四半期)がピークで26.2%になります。集落の祈願文字の4つに1つが帀(アマ)であったということになります。

帀(アマ)は天照大御神を意味していて、外部から集落に移住してきた人々ともともと集落にいた人々の間を取り持つ絆の役割をする祈願語です。

ですからⅣ期までは年代毎に外部から移住してきた人ともともと集落にいた人々の間の関係が深まっていた時期であると想定できます。

Ⅴ期になると帀(アマ)の割合はⅣ期の半分以下に急減します。

ですからⅤ期には新住民と旧住民の一体感を生むような、集落全体の求心性が急速に減少したと考えられます。

よく言えば多様性が、悪く言えばバラバラ感が生まれていたと考えます。

帀(アマ)の割合が減少したのですから、その減少した分を埋めた別の祈願語があったはずです。

その帀(アマ)と入れ替わった祈願語がどのようなものであるかは次の記事で検討します。


集落全体での帀(アマ)割合の年代変化が判りましたので、次にそれが空間的にどうであったか検討します。

年代別に墨書土器分布と帀(アマ)分布を対照して観察してみます。

Ⅰ期(8世紀前葉)の墨書土器分布と帀(アマ)分布

帀(アマ)の分布はありません。

Ⅱ期(8世紀後葉~9世紀初頭)の墨書土器分布と帀(アマ)分布

Fゾーンでは墨書土器と帀(アマ)が対応します。

Dゾーンでは墨書土器が多数出土するのに帀(アマ)は1点だけです。

恐らく、帀(アマ)を祈願語とした人々(新住民)はDゾーンには少なかったのだと思います。

想像に想像を重ねれば、Dゾーンで帀(アマ)を祈願語としたのは転勤族として赴任した官人かもしれないと考えます。

Dゾーンの人々がどのような祈願語を使っていたか、次の記事で検討します。

Ⅲ期(9世紀第1四半期)の墨書土器分布と帀(アマ)分布

Fゾーンでは墨書土器と帀(アマ)分布が対応します。Fゾーンは外来の新住民による集落であったと考えます。

DゾーンはⅡ期と同じような状況であり、このゾーンは旧住民(おそらく宗像神社の氏子)の居住域であったと考えます。

Ⅳ期(9世紀第2四半期)の墨書土器分布と帀(アマ)分布

各ゾーンともに墨書土器の出土数が増え、それに対応して帀(アマ)も分布します

船尾白幡遺跡の集落社会が最も発展して、かつ社会の求心力が備わっていた年代です。

Ⅴ期(9世紀第3四半期)の墨書土器分布と帀(アマ)分布

墨書土器分布はⅣ期とあまり変わらないのですが、と帀(アマ)はFゾーンとDゾーンだけに限定されていまいます。

各ゾーンで帀(アマ)が使われなくなり、別の祈願語が使われるようになったことが判ります。

Ⅴ期に使われた祈願語を分析すれば、崩壊直前の、あるいは崩壊しつつある社会の祈願語が判りますから、社会の様子を祈願内容から推し量ることができる可能性があります。

次の記事で検討します。


Ⅵ期(9世紀末~10世紀前半頃)になると集落は崩壊し、墨書土器出土はなくなります。