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2020年5月19日火曜日

環状石斧穿孔用礫石錐の存在を知る

縄文石器学習12

2020.05.19記事「縄文草創期石錐(103図-13)(多古町一鍬田甚兵衛山南遺跡) 観察記録3Dモデル」の学習をする中で環状石斧穿孔用礫石錐という道具が存在していることを知りましたのでメモします。

環状石斧穿孔用礫石錐(弥生時代)
鈴木道之助著「図録石器入門事典縄文」(1991、柏書房)から引用加筆
この図書には次のような説明があります。
「弥生時代中期の所産であるが、環状石斧の中央部の穿孔のために使川された礫石錐がある。大阪府池上遺跡で検出されたもので細長い捧状の礫を錐としたもので、薄い円盤に大きな穴を穿孔するのに適していたのであろう。縄文時代の例は未検出であるが、磨石などと混同しやすい石錐であり、今後、注意する必要がある。」

次のような弥生時代環状石器、縄文時代環状石斧・環石も敲打で凹みをつけられた後、礫石錐で穿孔されたものと考えます。

弥生時代環状石器展パンフレット表紙

環状石斧
上野原遺跡発掘調査報告書から引用

環石
上野原遺跡発掘調査報告書から引用

縄文時代の環状石斧・環石穿孔用礫石錐がまだ見つかっていないのかどうか、調べたいと思います。
同時に、縄文時代環状石斧・環石が掲載されている発掘調査報告書を読む(見る)場合、その石器図録の中に環状石斧・環石の穿孔に使われたと考えられるような礫石錐が含まれていないかどうか気をつけて読む(見る)ことにします。発掘調査報告書を読む(見る)楽しみが一つ増えました。

なお、環状石斧・環石の機能は罪人を制裁あるいは処刑する刑罰具であると想像しています。
2020.05.16記事「環状石斧について アドバイスで入門知識が増大」参照

2019年8月27日火曜日

千葉市土気あすみが丘プラザ展示室の観覧

縄文土器学習 247

千葉市土気あすみが丘プラザ展示室が8月10日にリニューアルオープンしたとの報に接し、観覧してきました。リニューアルの報以前にはこのような施設の存在自体を知りませんでした。

土気あすみが丘プラザ展示室の全景 中央にあるのは土気地区ジオラマ
へたな博物館をその展示内容の質の高さからはるかに凌駕する、素晴らしい施設です。緑区のコミュニティ施設内部にこのようなへたな博物館以上の展示があることに驚きました。

土気地区は旧石器時代及び縄文時代における千葉県最重要の狩猟場です。列島規模でみても本州中央部付近の極めて有数な狩猟場の一つと考えられます。
旧石器時代と縄文時代展示は狩猟という観点から設計されているように感じられます。
旧石器時代は石器が縄文時代は土器(18点)が展示されています。展示物は圧巻といえるものです。さらに解説パネルに書かれていることがまさに研究最前線の最新知識であるように感じられ興味が尽きません。

旧石器時代展示 植刃器製作復元資料が展示され参考になります

縄文時代展示 縄文時代初期の土偶も展示されています

古代の展示も南河原坂窯跡群に関連するもので遺跡の復元模型や多数の出土物があり、以前から深い興味をもって何回もブログ記事を書いてきています。しかし、今回の観覧では自制しておざなりの写真撮影程度にし、意識のほとんどを旧石器と縄文に割り振りました。

リニューアルの考え方のパネルがあり、この展示施設は単純な地域住民向け広報ではなく、今後の土気地区研究のための出発点としての意義があることがわかります。

リニューアルを終えて

なお関連するパンフレットや資料は展示施設にはありませんでした。
次の千葉市ホームページに情報が掲載されています。
土気あすみが丘プラザ展示室リニューアルオープン

展示18点の縄文土器について3Dモデル作成用撮影を行いました。移入土器である十三菩提式土器などもあり、学習の楽しみ素材が増えました。


2018年12月13日木曜日

千葉県遺跡分布地図帳 縄文時代遺跡分布 2

私家版千葉県遺跡DB地図帳 5 縄文時代遺跡分布 2

私家版千葉県遺跡DBの全レコード(20130)のうち縄文時代遺跡6680レコードを対象に時期別分布図を作成しました。

1 縄文時代時期別遺跡数

縄文時代時期別遺跡数
(2018.12.17訂正)
草創期遺跡は6遺跡にとどまります。縄文時代草創期遺跡がこの6遺跡以外に千葉県に存在することは後出掲載資料で確認できます。
早期の方が前期より遺跡数が少しだけ多くなっています。中期になると遺跡数が急増します。後期には若干遺跡数が減少しますが早期、前期より高い値を示します。晩期になると遺跡数は急減します。

2 私家版千葉県遺跡DB地図帳 縄文時代遺跡時期別分布

私家版千葉県遺跡DB地図帳 縄文時代草創期遺跡分布 019
(2018.12.17訂正)

私家版千葉県遺跡DB地図帳 縄文時代早期遺跡分布 021

私家版千葉県遺跡DB地図帳 縄文時代前期遺跡分布 023
(2018.12.17訂正)

私家版千葉県遺跡DB地図帳 縄文時代中期遺跡分布 025
(2018.12.17訂正)

私家版千葉県遺跡DB地図帳 縄文時代後期遺跡分布 027
(2018.12.17訂正)

私家版千葉県遺跡DB地図帳 縄文時代晩期遺跡分布 029

私家版千葉県遺跡DB地図帳 縄文時代(時期未記載)遺跡分布 031
(2018.12.17訂正)

3 千葉県縄文時代草創期遺跡例
「千葉県の歴史 資料編 考古1(旧石器・縄文時代)」(千葉県発行)掲載事例に縄文時代草創期遺跡事例として次の13遺跡の詳しい情報が掲載されています。

「千葉県の歴史資料編」縄文時代草創期遺跡
千葉県では旧石器時代→縄文時代草創期→縄文時代早期と途切れることなく原始人の生活・活動が存在していて、それらの遺跡が時間連続的に存在していると推察できます。

4 メモ
・早期→前期で遺跡高密度分布域が東→西、南→北に移動するように観察できます。遺跡高密度分布域の変化を詳しく分析すれば有用な情報を得ることができそうです。
・前期→中期で遺跡高密度分布域が西→中央部に移動するような様子が見えます。その変化を詳しく分析すれば有用な情報を得ることができそうです。
・中期→後期で遺跡分布が各所で凝集して密な部分と疎な部分に分かれるような印象を受けます。その変化を詳しく分析すれば有用な情報を得ることができそうです。
・後期→晩期で遺跡数が急減しますが、晩期遺跡分布は等間隔的印象をうける疎ら分布であり、後期に各所で凝集した遺跡高密度域の究極の終着段階のような印象を受けます。その変化を詳しく分析すれば有用な情報を得ることができそうです。
・千葉県縄文時代時期別遺跡分布図はこの記事掲載地図が最初であり、過去には存在していないと考えますので、学習素材として大きな価値があると考えます。

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記事を修正しました。(2018.12.17)

2018年7月12日木曜日

脱皮感覚を意識する

縄文時代学習に関して自分が突然脱皮し出したような感覚を意識しましたので記録しておきます。
ブログ「芋づる式読書のメモ」2018.07.09記事「縄文時代はどのように語られてきたのか」で山田康弘・国立歴史民俗博物館編「縄文時代 その枠組み・文化・社会をどう捉えるか?」(2017、吉川弘文館)第1章の感想を書きました。自分自身の縄文時代知識の基本が1960年代のものであることを自覚したので「1960年代頃の時代が形成する縄文時代観・文化観はもうお払い箱に入れなければならないということです。」と自分自身に語り掛けました。

山田康弘・国立歴史民俗博物館編「縄文時代 その枠組み・文化・社会をどう捉えるか?」(2017、吉川弘文館)表紙
この図書の「1 縄文時代はどのように語られてきたのか 山田康弘」で紹介されている次の図書も早速読み始めました。

kindle版「つくられた縄文時代」(山田康弘、新潮社、2016)

おそらく自分の意識「自分の知識はまるで古い」がある閾値を超えて強まったのでこのような記事を書いたのだと思います。
そして昨日書店に入ると次の図書が目に入りました。

小林謙一・工藤雄一郎・国立歴史博物館編「増補 縄文はいつから!? -地球環境の変動と縄文文化-」(新泉社)
以前にも何度も見かけたことはありますが、購入にまでは至らなかった本です。しかしページをめくってみると、全て自分の知識の古さをより一段と意識させ、同時に最新情報にアクセスできるキッカケとなりそうな本であると直観できました。
次の図は旧石器時代から縄文時代にかけての自分の1960代知識を全面改訂する入口になりそうですし、情報の出典が豊富であることに学習意欲が刺激されます。

過去5万年間の出来事の年表

西根遺跡や大膳野南貝塚などの発掘調査報告書分析活動で得られた知識(オリジナル情報)が膨大になり、そのとりまとめ作業をはじめたことが主因で、自分の背景知識の古さを折に触れて実感でき、最新背景知識の枯渇を感じることができたのだと思います。
縄文時代学習の深まりと背景知識の古さの間のバランスがこれ以上とれなくなったともいえます。
自分の趣味活動において縄文時代最新知識獲得活動を集中的におこない、1960年代知識から脱皮して、自分の背景知識が2010年代のものだと意識できるようになりたいと思います。

2018年4月13日金曜日

メモ 縄文時代遺構から破壊土器片が出土する意味

縄文時代遺構から破壊土器片が出土する意味を一つの共通思考で明らかにできることがわかりましたのでその概要を忘れないうちに、粗々の全体像としてメモしておきます。

1 縄文時代炉穴、竪穴住居、土坑、ミナトなどの生活必須施設の廃絶場所から破壊された土器片が出土する
1-1 炉穴
炉穴を廃絶する時廃絶祭祀を行い、その祭祀行為の一環として手持ち土器片を投げ込み破壊したことが観察できます。(土器片を踏みつける、棒でたたくなどで壊す。)

大膳野南貝塚 早期 3号炉穴の出土土器 大膳野南貝塚発掘調査報告書から引用

1-2 竪穴住居
竪穴住居を廃絶する時廃絶祭祀を行い、その祭祀行為の一環として手持ち土器片を投げ込み破壊したことが観察されます。(土器片を強く地面に打ち付ける、壊してばら撒くなど)

大膳野南貝塚 前期 J56号竪穴住居の出土土器  大膳野南貝塚発掘調査報告書から引用

1-3 土坑
土坑を廃絶する時廃絶祭祀を行い、その祭祀行為の一環として手持ち土器片を投げ込み破壊したことが観察されます。(壊して投げ込んだ)

大膳野南貝塚 後期 189号土坑出土土器 大膳野南貝塚発掘調査報告書から引用

1-4 ミナト
ミナトを廃絶する時廃絶祭祀を行い、その祭祀行為の一環として廃用巨大土器を破壊したことが観察されます。

西根遺跡 加曽利B式期 破壊された土器集積 西根遺跡発掘調査報告書から引用

2 生活施設廃絶に土器破壊が伴う意味
2-1 土器片破壊は犠牲と同じ意味を持つ
生活施設(炉穴、竪穴住居、土坑、ミナト)を廃絶するときに廃絶祭祀(施設の送り)が行われます。その廃絶祭祀(施設送り)を視覚的に表現するためには何らかの象徴的活動が必要です。その象徴的活動が廃絶施設内における手持ち土器破片の送り(破壊)であったと考えます。

「王が死んだとき臣下が一緒に死ぬことにより王が本当に送られる(天国に行ける)という思考」つまり殉死(犠牲)という概念が古代にあります。この殉死という古代思考と類似の思考が縄文人の生活施設廃絶思考(送り思考)に組み込まれていたと考えます。
縄文人は施設を廃絶するために、つまり施設を送るためにはそれなりの犠牲が必要であり、その犠牲を手持ち土器片の破壊という形式で行ったのだと考えます。

土器片は経済の状況によって多寡はあるとしても誰でもいつでも所持できている財産です。土器片は現実に皿や容器等と同じ機能を備えた道具として利用されていたと考えることができます。この各人が持てる財産としての土器片を廃絶施設内に持ち込み、その場で破壊する活動により施設を送ることができると考えられていたと想像します。

縄文社会では土器片入手は誰でも容易であると考えられますから、施設送りのアイテムの一つして土器片を使うことは社会運営を円滑に進めるという点で合理的なことであったと考えられます。

2-2 土器片破壊の背景に利用可能完形土器の確保がある
縄文人は、生活施設(炉穴、竪穴住居、土坑、ミナト)廃絶を表現するために土器片あるいは廃用土器をその施設内で破壊しました。この「施設廃絶-土器破壊」活動の背景には新施設が既に完成し、その新施設に関わる新品完形土器が既に確保されていることがあると考えます。
崩れて使えなくなった炉穴を廃絶しそこで土器片を破壊するときには、既に新しい炉穴が作られていてそこで煮炊きする完形土器は確保していると考えます。
住居の主人家族が没した竪穴住居の廃絶祭祀で土器片を破壊するとき、集落住人の誰もが竪穴住居を確保していて、その竪穴住居には煮炊きできる完形土器が確保されていたと考えます。
湿気やカビなどで使えなくなった土坑で廃絶祭祀を行い土器片を破壊して投げ込む時、既に新しい土坑が作られ、手元には完形土器が必要な分だけそろっていたと考えます。
海退現象でミナトが使えなくなり、ミナトの廃絶祭祀が行われ、その場で廃用巨大土器が破壊されるとき、既に下流に新ミナトが作られ、母集落には新品完形巨大土器が多数そろっていたと考えます。

このように考えると施設廃絶祭祀=「施設廃絶-土器破壊」活動は裏返せば、施設確保祭祀=「必要施設確保確認-必要土器確保確認」活動です。つまり施設廃絶祭祀は極限すれば施設や土器がそろって生活が順調であり安寧である状況を寿ぐ祭に通じます。

2-3 施設廃絶祭祀の多義性
施設廃絶祭祀は極限すれば施設や土器がそろって生活が順調であり安寧である状況を寿ぐ祭に通じると考えると、土器片破壊を伴う施設廃絶祭祀は現実には「施設を送る」だけでなく多義的な活動であったと考えます。
むしろ「施設を送る」という基礎の上に多様な意味あいの祭祀が乗っていたと考えます。
秋の収穫祭も全て施設廃絶祭祀の一環として行われたと考えます。
西根遺跡ミナト廃絶祭祀もその形式面の上部には堅果類収穫の広域秋祭りの風景が存在していたと考えます。

2-4 その他
●陥し穴
陥し穴からはほとんど土器片出土はありません。縄文人にとって陥し穴は廃絶祭祀をおこなうような生活施設でなかったと考えます。
●奈良時代遺構
鳴神山遺跡など奈良時代集落竪穴住居からも多量の破壊土器片が出土し、縄文時代と経済状況が格段に違うだけで、その場が祭祀の場であったことは同じように捉えられると考えます。下総では縄文人の風習がほとんどそのまま奈良時代まで伝わってきていると捉えられます。

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ギリシャ壺投げ映像をみて、それが自分の思考において触媒の働きをしてこのメモが生まれました。
2018.04.11記事「ギリシャ壺投げと印西市西根遺跡土器破壊」参照



2017年3月19日日曜日

縄文時代狩猟構成要素としての追い込み猟と罠猟

佐藤宏之著「北方狩猟民の民族考古学」を学習しました。
2017.03.16記事「学習 佐藤宏之著「北方狩猟民の民族考古学」」参照

その結果縄文時代陥し穴が全て罠猟として使われた可能性が高いことを学習しました。
2017.03.17記事「陥し穴は罠猟か追い込み猟か」参照

同時に、上記図書では規模の大きな追い込み猟(集団猟)と規模の小さな罠猟(個人猟)の組み合わせが狩猟の一般的姿であると何度も書いていて、縄文時代狩猟についても次の記述の通り、特にシカ猟に着目すると罠猟(陥し穴猟)はむしろ補完的であり、メインの猟法は追込み猟であることを暗示しています。

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参考 佐藤宏之著「北方狩猟民の民族考古学」の縄文時代狩猟の組み合わせに関する記述
北方狩猟民の民族誌にみる罠猟
●民族考古学の視点
陥し穴に関する民族誌例は世界中の狩猟採集民や農耕民に見られることはこれまでも繰り返し述べてきた。
その意味で陥し穴は極めて普遍的な文化要素である。
従って適応システムの構造的対比という民族考古学的視点を採用しなければ、どのような解釈にも類似資料は見いだせることになる。
このような視点から見て陥し穴猟の構造を探るために、以下のような理由から北方狩猟民のシカ等の偶蹄目狩猟に注目する。
第一に、縄紋時代の狩猟システムは生態的には中緯度温帯狩猟採集民に相当するが、これに対応する現生狩猟採集民の民族誌はほとんど存在せず、わずかに北アメリカ先住民の民族誌資料に留まる。
この民族誌資料でも、集団狩猟の方法は南方よりも北方の狩猟採集民と共通する要素が多い。
第二に、縄紋時代の土器型式構造から推測される社会構造の動的安定性から見て、縄紋時代の狩猟システムは臨機的な個人・小集団狩猟を中心とする南方的なものに留まったと考えるよりも、より組織化された狩猟法に重きを置く北方型の狩猟システムにまで発達したと推定する方が合理的である。
第三に、縄紋時代の動物食糧の主体はシカとイノシシであり、陥し穴猟はこの両者を主要な狩猟対象とした狩猟システムの一部を形成すると考えられることから、シカ類を中心とする偶蹄目の組織的狩猟法の発達する北方民族例の検討は重要と考えられる。
第四に、先述したオズワルト等の検討によれば、熱帯の穀物農耕民・根菜農耕民や一部の温帯の狩猟採集民の陥し穴利用は昆虫・小動物・鳥用の小型のものが多く、縄紋期の陥し穴とは規模の点で相違する。
一部の大型獣用の陥し穴は農地防御用を主としている。
やや北方の温帯狩猟採集民や亜極北・極北の狩猟民はもっぱらシカ・トナカイを狩猟対象としており、より組織的である。
従って陥し穴の規模と構造から考えても、北方狩猟民型により近いのではないかと考えられる。

●北方狩猟民のシカの追い込み猟
北方狩猟採集民の居住する環境は広大であるが、より南の諸地域に比べて比較的単純である。
北極海を取り巻くツンドラ帯の南には森林ツンドラが分布し、さらに南にはタイガが広がっている。
東西の差よりも南北の環境格差が大きく、グリーンランドからユーラシア北方・北アメリカにかけての東西の差異は驚くほど小さい。
北方狩猟民はツンドラ帯ではトナカイを、森林帯ではエルク・ヘラジカ・アカシカ・シカ等を主に狩猟しており、狩猟対象獣の生態行動によく適応した狩猟法を発達させている。
この地域の狩猟法には非常に広範囲に共通する特徴が多い。
北方狩猟民は高度に発達した集団猟を行い、個人猟は補完的に行っていると考えられる。
彼等の主要な狩猟法はトナカイやエルク等の追い込み猟による大量捕獲である。
代表的な猟としては、シベリアにおけるポポールカ猟があり、同種の猟法はグリーンランドから北アメリカまで広範囲に見られる。
二本一組の木柵列・丸太列・石柱列・石積列等によって獣群を水辺に誘導し、水中に追い込んで動きがにぶったところを船上より撲殺・射殺・刺殺する方法である。
ツンドラか森林かで誘導施設(石か木か)に変異があり、単純に追い落とすだけのものから、逃亡防止用の射手や罠を誘導施設の途中に配置するなどの変異はあるが、シカ類の捕獲にはもっとも有効である。
ポポールカ猟と並んで北方狩猟民に大変よく使われる狩猟法は、ポポールカ猟と基本的な仕組みは同じで、追い込む先におり・囲い・大規模な窪地・狭い通路等を設けたり、崖の上から追い落とす方法である。
追い込み先の施設は必要上数メートル以上の規模をもたねばならず、縄紋の陥し穴のような小型の陥し穴が選択されることはまずない。
岩手県九戸郡山形村で観察された列島の民俗例に見られる追い込み猟でも、追い込み先に使用された穴の規模は径7メートル、深さ3~4メートルと報告されている。
これらの狩猟に使われる誘導施設の長さは通常数キロメートル単位の規模であるが、70キロメートルにもおよぶ例も報告されている(図54、55)。
いずれも大規模な追い込み猟であり、北方狩猟民にとってはもっとも重要な狩猟法のひとつであるが、さらに重要な点は、これらが罠や個人猟と無関係に存在しているわけではなく、むしろ両者が一体となって狩猟システムを構成している点である。
大規模な追い込み猟は群生し集団で移動するシカ類の生態行動に高度に適応した狩猟法であり、従って普通は越冬地への移動といったシカ類の集団移動の時に最も効果が発揮される。
このことは追い込み猟には季節性があり、他の時期や資源の獲得のためには罠猟や個人猟と相補的関係をもたねばならないことを意味している。
なおより温帯の狩猟民も、対象となる獣はバイソンや山ヤギのように異なるが追い込み猟を行っていた記録があり、先史時代には温帯でも追い込み猟が行われていたことは確実である。
図54
図55
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この図書の著者は縄文時代狩猟は集団猟としての追い込み猟と個人猟としての陥し穴罠猟から構成されると考えています。

しかし残念ながら縄文時代追い込み猟の記述はこの図書には全くありません。

ですからこの図書を最初にうっかりして読んでいたときは、縄文時代の猟は陥し穴罠猟だけから構成されているように錯覚してしまいました。
(そのように錯覚したので、追い込み猟自体を否定されたように受け止め、この図書の考えを受け入れるのに心理的抵抗が生まれ、時間もかかりました。)

縄文時代追い込み猟に関わる遺跡・遺構・遺物が見つかっていないから、(これまでの研究がないから)この図書では縄文時代追込み猟の記述がないのだと想像します。

大膳野南貝塚の学習を進めていく上で、縄文時代早期頃の狩猟はメインの集団追込み猟とサブの個人陥し穴罠猟から構成されていたと仮説することにします。

これまで私は、陥し穴の検討をすれば、陥し穴が使われていた頃の狩猟の全貌が判ると考えていたのですが、それは間違いだと気が付きました。

陥し穴の検討から直接導くことができるのは、それが使われていた頃の狩猟の一部事象だけであるということです。

広域的な陥し穴の検討から、間接的に集団追込み猟の情報が得られないものか、興味深く検討してみることにします。


2017年2月8日水曜日

千葉県の貝塚学習 時期対応

大膳野南貝塚発掘調査報告書の学習をするための基礎知識習得のために「千葉県の歴史 考古4 (遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)の貝塚の項を学習します。

1 全国標準時期区分と千葉県現場における時期区分の対応関係

この図書には次の縄文時代の時期区分(表)と8枚の貝塚分布図が掲載されていています。

縄文時代の時期区分
「千葉県の歴史 考古4 (遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)から引用

8枚の貝塚分布図
(図書では6ページにわたって掲載されている図を引用者が1つの画像に編集)
「千葉県の歴史 考古4 (遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)から引用

表「縄文時代の時期区分」は千葉県の縄文時代遺跡全てを見渡して総合考察した結果であると考えられます。

全国との対比で表の左端に草創期、早期、前期、中期、後期、晩期の区分がありますが、千葉県縄文時代遺跡から読み取れる「大きな変化・画期」から区分される時期はⅠ期~Ⅷ期ということになります。

縄文時代の全国標準時期区分と考える草創期~晩期区分と、千葉県現場における時期区分Ⅰ期~Ⅷ期とは1:1では対応しませんので、詳しい対応は土器形式レベルで行うことになります。

つまり否が応でも土器形式に関する知識が無ければ縄文時代の時期区分つまり縄文時代内部のでの時期的感覚、時間感覚を持つことは不可能であることを理解しました。

これまであまりに専門的過ぎて敬遠していた土器形式について、今後泥縄式になりますが学習を始めることにします。

2 大膳野南貝塚発掘調査報告書の記述時期区分と貝塚分布図との対応

大膳野南貝塚発掘調査報告書の記述時期区分と貝塚分布図(Ⅰ期~Ⅷ期区分)の対応関係を図解で整理しました。

千葉市大膳野南貝塚発掘調査報告書の縄文時代時期区分別記述と「千葉県の歴史」時期区分、貝塚分布図、古地理の略対応

大膳野南貝塚発掘調査報告書の記述を理解するために千葉県の貝塚について学習するのですが、そのためには発掘調査報告書の時期記述単位と全国標準時期区分と千葉県現場時期区分(Ⅰ期~Ⅷ期区分)の3つの時期単位を対照させる必要があります。

その3つの対照を可能にする指標が土器形式ということになります。

土器形式変遷の基礎知識が無ければ学習の進展は望めないことを思い知らされます。

次の記事から千葉県貝塚分布図の学習考察を行います。

2016年12月23日金曜日

縄文時代遺跡 大膳野南貝塚の学習を開始

縄文時代遺跡大膳野南貝塚(ダイゼンノミナミカイヅカ)の学習を開始することにしますので、その当初方針イメージをメモしておきます。

1 学習対象としての大膳野南貝塚の選定

縄文時代遺跡についての学習をするうえで、まず最近調査刊行された発掘調査報告書をテキストに、学習方法自体の検討も含めてモデル的に学習したいと思いました。

どうせ学習するなら最新発掘成果に基づいて行いたいと考えました。

学習対象遺跡の選定にあたって、縄文遺跡研究家である西野雅人先生からいくつかの遺跡についてアドバイス情報をいただき、その中から大膳野南貝塚を選びました。

大膳野南貝塚の位置

2 大膳野南貝塚発掘調査報告書

大膳野南貝塚発掘調査報告書は4冊刊行完結しています。

千葉市立中央図書館で借り出しができるので学習基盤が整います。

延長1回を含めて1か月の間自宅で利用できますから今後恐らく1年以上つづく学習のイメージが湧きます。

(現在並行して進める上谷遺跡の発掘調査報告書は全6冊のうち2冊は借り出しできる図書館がありません。必要部分をコピーしました。

その前に学習していた鳴神山遺跡の発掘調査報告書は借り出しできないことはもとより、必要部分のコピーもままならず、半分を千葉県立中央図書館で半分を国立国会図書館でコピーしました。その苦労と比較すると、大膳野南貝塚学習は極楽です。)

千葉市立中央図書館から借り出した大膳野南貝塚発掘調査報告書

3 大膳野南貝塚の概要

縄文時代中期~後期の貝塚集落がメインの遺跡です。

報告書抄録

4 縄文時代学習ステップ

縄文時代学習ステップを次のように3段階に区分し、大膳野南貝塚発掘調査報告書の学習はその第1ステップ、第2ステップに位置づけます。

第1ステップ

縄文時代遺跡学習の問題意識を形成するためのステップ。

第2ステップ

形成した自分の縄文時代問題意識に基づいて、発掘調査報告書の分析を行うステップ。

第3ステップ

発掘調査報告書の分析に基づいて獲得した知識に基づいて、花見川流域を含む下総地域の縄文時代の様子を知るステップ。

当面は第1ステップということで、縄文時代遺跡学習において、「自分が興味をもつ課題はなにか?」という点に焦点を当てて活動を進めたいと思います。

5 大膳野南貝塚発掘調査報告書の学習イメージ

・まず発掘調査報告書を最初から読んで(眺めて)みて、その概要を把握し、その後詳細な学習方針を立てたいと思います。

・恐らく貝塚集落(縄文時代中期~後期)について詳しい分析学習を行うことになると思います。

・発掘調査報告書の学習の中で不明な点や特別興味が深まった点については寄り道学習をすることにしたいと思います。その寄り道学習のなかで不足する基礎知識を得たいと考えます。

・分析学習に関する興味は現在は次の2点が重要であると考えています。

1 遺跡と地形との関係

生活において地形をどのように利用していたのか、興味が深まります。(海はどこにあり、どのように出たか。狩と地形との関係、住居と水場の関係…)

2 集落の空間構造

遺構・遺物の空間情報をGISを使って分析して、発掘調査報告書からどのような有用情報(価値ある情報)を引き出せるか、興味が湧きます。

上谷遺跡の学習とも関連しますが、遺構空間にたいして縄文人がどのような心性をもっていたのかその辺がわかり、それが古代人の遺構空間にたいする心性に引き継がれているかどうかわかれば、自分の学習意欲が一層深まります。

このブログでは大膳野南貝塚学習の様子を実況中継します。

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上谷遺跡学習、大膳野南貝塚学習を同時並行して進めます。

さらに遺跡・地名データベースに関連する学習も同時並行で進める予定です。