2015年12月11日金曜日

鳴神山遺跡の鉄製品出土状況

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.243 鳴神山遺跡の鉄製品出土状況

鳴神山遺跡の竪穴住居から出土する生産・生活に関連する鉄製品(紡錘車、穂積具、鎌、鉋、斧、鍬、釘、鍵、不明品)の出土遺構を調べると次のような分布になります。

鉄製品出土遺構

遺跡全体に分布しているように観察できます。

個々のアイテムは限られているけれども、鉄製品全部の出土分布は広がっているように見えます。

このような分布は刀子出土遺構の分布と類似しています。

参考 刀子出土遺構

生産・生活に関するすべての鉄製品と刀子の分布が類似しているということは、当時の社会にあって刀子というものが特殊的に普及していたことを表現しています。

刀子は武器でもあり、同時に万能工具でもあった特殊な重要性をもっていたものと考えます。

逆に考えると、生産や生活のための個々鉄製品の普及は進んでいなかった状況を感得できます。

対人殺傷兵器である鉄鏃は鉄製品全体と比較すると、その出土は限られますが、それでも数が多く、生産や生活にかかわらない兵器の出土割合の高さに驚きます。

参考 鉄鏃出土遺構

鉄の使い道として、刀子や鉄鏃など武器が第一であり、生産や生活の効率性向上のための鉄利用は二の次であったことがわかります。

刀子や鉄鏃が社会活動において必須であった環境が存在していたのだと思います。

奴隷や下層人の使役、反抗(反乱)に対する備え、盗賊に対する備え、集団間のいさかいなどに対処するために刀子と鉄鏃は必須品であったと考えます。

鳴神山遺跡の竪穴住居を対象に鉄製品等の出土遺構数を調べると、生産・生活のための鉄製品出土竪穴住居数より刀子出土竪穴住居数の方が上回ります。

鳴神山遺跡 鉄製品等出土竪穴住居数

鉄製品等出土数も刀子の方が上回ります。

鳴神山遺跡 鉄製品等出土数

なお、参考までに上グラフと同じ方法で萱田遺跡群(白幡前遺跡、井戸向遺跡、北海道遺跡、権現後遺跡)について集計図化すると次のようになります。

参考 萱田遺跡群 鉄製品等出土数

萱田遺跡群では生産・生活のための鉄製品出土数の方が刀子出土数より上回るので、鳴神山遺跡より社会の鉄利用が進んでいたと考えます。

鉄製品の種類も萱田遺跡群の方が多様となっています。

鉄利用の面からみて、萱田遺跡群の方が鳴神山遺跡より豊かであったと考えます。

萱田遺跡群の方が鳴神山遺跡より、より効率的な社会活動が行われていたと考えます。

2015年12月10日木曜日

鳴神山遺跡の羽口等出土状況

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.242 鳴神山遺跡の羽口等出土状況

鳴神山遺跡から羽口片および椀型鉄滓が出土しています。

羽口等出土遺構

5軒の竪穴住居跡と道路遺構から羽口片11点と椀型鉄滓2点が出土しています。

報告書の記載からはそれらの出土遺構の場所で鍛冶が行われたという証拠はないようです。

出土遺構そのものが鍛冶遺構であったということではないのですが、その近くに鍛冶場があった可能性は濃厚であると考えます。

次の図は鉄鏃出土遺構分布からみた特徴的な場所(イメージ)です。

参考 鉄鏃出土遺構分布からみた特徴的な場所(イメージ)

羽口等出土遺構場所をこの図と照らし合わせると、羽口出土場所はC地点(遺跡の政治拠点想定)とF地点(生産活動拠点想定)に該当します。

遺跡(集落)にとって鍛冶場は重要機能ですから、支配拠点(C地点)にその本体を置いたのだと思います。

生産拠点であると想定しているB地点には鍛冶場が無く、F地点には鍛冶場が有ることから、B地点とF地点の特性に差異があることが想定できます。

F地点は鉄器の補修を自前で行える立場にあり、B地点は鉄器の補修を自前で行えない立場にあり、そこで働く集団に優劣が存在していた可能性を感じます。

2015年12月9日水曜日

鳴神山遺跡の銙帯出土状況

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.241 鳴神山遺跡の銙帯出土状況

鳴神山遺跡から銙帯が4点出土しています。

その分布を次に示します。

銙帯出土遺構

4点とも遺跡中央部付近から出土しています。

2015.12.08記事「鳴神山遺跡の鉄鏃・刀子出土状況」で着目したC地点(政治拠点想定)、D地点(食糧倉庫想定)、E地点(被服倉庫想定)から各1点出土し、残り1点はCDE地点付近から出土しています。

この銙帯出土状況から次の想定をすることができます。

1 銙帯出土は官人が駐在したことを示していると考えます。それは律令国家が直接押さえておくべき重要な機能が存在していたことを示すと考えることができます。

C地点は遺跡全体(集落全体)を支配する政治拠点であったと想定していますから、この場所から銙帯が出土することは合理的に捉えることができる事象です。

同様にD地点(食糧倉庫想定)とE地点(衣服倉庫想定)も兵站基地の根本機能である軍需物資集積発送機能の場所ですから、この場所から銙帯が出土することも合理的に捉えることができる事象です。

2 銙帯出土がない場所は官人が駐在していなかった可能性が濃厚であり、それは律令国家が直接官人により押さえておくべき必要が存在していなかった可能性を暗示します。

A地点は寺院想定場所ですから、その付近から銙帯出土がないことは極自然なことです。

B地点は多量の打ち欠き墨書土器や鉄鏃・刀子等が出土し、極めて活発な活動拠点であったことは確実です。この場所から銙帯出土がないということは、B地点の性格を考える上で大変重要な情報であると考えます。

北に広がる台地上で行う麻栽培労働、印旛浦における水運労働、印旛浦から台地を超えて手賀沼方面と結ぶ運輸労働などの現場労働拠点がB地点であったと想定します。

そのような現場肉体労働の監督は官人の下に組織された現場監督集団が行っていたものであり、現場には官人が駐在しなかったと考えると、B地点付近から銙帯出土がないことを理解できます。

参考再掲 鉄鏃出土遺構分布からみた特徴的な場所(イメージ)

なお、銙帯出土数から見た鳴神山遺跡の意義を2015.09.07記事「銙帯出土情報から考える鳴神山遺跡の意義」で既に検討しています。

参考 銙帯出土集中圏域と鳴神山遺跡

2015年12月8日火曜日

鳴神山遺跡の鉄鏃・刀子出土状況

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.240 鳴神山遺跡の鉄鏃・刀子出土状況

竪穴住居遺構を対象にして、鳴神山遺跡の鉄鏃と刀子の出土状況を見てみました。

鉄鏃は34遺構から合計48点、刀子は60遺構から合計95点出土しています。

竪穴住居合計に対する鉄鏃出土率は11.3%、刀子出土率は20%になります。

鳴神山遺跡 鉄鏃出土遺構

鳴神山遺跡 刀子出土遺構

鉄鏃は対人殺傷兵器であり、それ以外の使い道は考えられませんから、奈良時代の鳴神山遺跡では居住者の約1割が武装していた可能性があるとイメージします。

鳴神山遺跡は軍事兵站・輸送基地ですから居住者全員が軍属であったと考えますが、その場所に存在した鉄鏃は居住者に対する威圧や逃亡防止、倉庫荒らしに対する備えとして機能していたことは確実です。

刀子は対人殺傷兵器としての意味だけではなく、万能工具として生活の中で使われていたと考えます。刀子の分布が鉄鏃より広がっていることは、それが生活必需品であったことを物語っていると考えます。

対人殺傷兵器以外の使い道のない鉄鏃の出土分布から鳴神山遺跡の特徴的な場所を次にイメージしてみました。

鉄鏃出土遺構分布からみた特徴的な場所(イメージ)

Aには掘立柱建物群が存在し、寺院であったと考えています。
2015.10.23記事「鳴神山遺跡の墨書文字「寺」「佛」の分布」参照

この場所付近から鉄鏃が出土しないことは、逆にこの場所が武器による威圧を必要としない寺院域であったことを鉄鏃分布が物語っています。

Bは多量の打ち欠き墨書土器が出土する遺構が密集していて、生産活動の拠点であり、労働集団の祭祀の場所であったと考えられるゾーンです。

ここに鉄鏃が集中して出土することは労働集団の中に鉄鏃で武装した人間が含まれていたことを示していて、労働集団に対して 武器による威圧が存在していたことを暗示させます。

一方で墨書土器の風習を広めて文化的に感化し、酒宴を開いて土器の打ち欠きを行うとともに、一方で武器により威圧し、逃亡を防ぎ、場合によっては見せしめとして刃向かうものを殺傷していたのだと思います。

Cは政治拠点であった場所と想定しています。集中していませんが鉄鏃が出土しています。要人の警護などが想定されます。

Dは食糧倉庫群と想定している場所です。その倉庫警備兵が使ったと考える鉄鏃が出土します。

Eは被服倉庫群と想定している場所です。その倉庫警備兵が使ったと考える鉄鏃が出土します。

Fは生産生活活動拠点であった場所と想定しています。その場所に鉄鏃出土遺構が分布することから、住民に対する武器による威圧が日常的に必要な社会であったことが判ります。

2015年12月7日月曜日

鳴神山遺跡の紡錘車出土状況

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.239 鳴神山遺跡の紡錘車出土状況

鳴神山遺跡から出土する奈良・平安時代遺物には土器のほかに紡錘車、鉄鏃、刀子、他の鉄製品(釘、穂積具、鍬、斧、鉋、鎌、不明品)、羽口、瓦塔、帯金具などがあります。

この記事では紡錘車について検討してみます。

鳴神山遺跡の奈良時代・平安時代遺構から出土する紡錘車は鉄製品8、石・土製品29合計37です。

近くの萱田遺跡群の遺跡と比較すると次の表・グラフのようになり、白幡前遺跡と比べて遜色のない出土状況になっています。

紡錘車出土数

竪穴住居100軒あたり紡錘車出土数

白幡前遺跡も鳴神山遺跡も単なる奈良時代開発地ではなく、蝦夷戦争の兵站・輸送基地として計画的に配置建設された開発地であると考えています。

兵站・輸送基地であることから、その開発地に居住する住民が食べる食糧、身にまとう衣服以上の食糧・衣服を生産し、陸奥国に送っていたと考えます。

空想の域をでませんが、上記表で北海道遺跡の「竪穴住居100軒当たり紡錘車数4.4」が住民自身の衣服生産と一般調生産に必要な紡錘車数であり、それ以外の遺跡の数は陸奥国に送るための余剰生産分を含んだ紡錘車数ではないだろうかという印象を持っています。

(「竪穴住居100軒あたり紡錘車出土数」は相対指標として使ってます。当時の社会で使われていた紡錘車実数をイメージしているわけではありません。)

紡錘車の出土遺構分布は次のようになります。

紡錘車出土遺構

環状道路沿いに広く分布しています。遺跡の北側には少なくなっています。

環状道路沿いの竪穴住居で紡錘車を使った糸づくりが行われ、恐らく糸から布が作られていたと考えます。

つくられた布は環状道路がなす土地の中央にある掘立柱建物群に集められ保管され、そこから陸奥国に発送されたと考えます。

その掘立柱建物群の直近竪穴住居から墨書土器文字「依」が多量に出土します。

墨書文字「依」出土分布図

墨書文字「依」は衣服にかかわる集団の祈願語であると考えています。2015.10.18記事「墨書文字「依」の意味深考」参照

麻から糸をつくり、布にしてそれを掘立柱建物に持ち寄り、陸奥国に発送する際に酒宴を行い、文字
「依」を墨書した土器を打ち欠きしたのだと思います。

紡錘車は鉄製と石・土製があり、鉄製の方が高機能品であったと想定します。

鉄製紡錘車は衣服作成集団のなかでもランクの高い人が使っていたのではないかと想像しています。

鉄製紡錘車の出土状況

石・土製紡錘車の出土状況





2015年12月6日日曜日

2015.12.06 今朝の花見川

晴れの青空と適度な白い帯状雲と紅葉樹木の色が強いコントラストを形成し、写真の色が濃いものになりました。

花見川風景

花見川風景

花見川風景

花見川風景

花見川風景

花見川風景

花見川風景

花見川風景
落葉が進み夏には見えない弁天橋が見えるようになりました。

弁天橋から下流

弁天橋から上流

今日は日曜日ですからいつもより多くの人が花見川をジョギングや散歩で利用していました。

2015年12月5日土曜日

地名「柏(カシワ)」語源の訂正

小字地名データベース作成活用プロジェクト 44

2015.11.19記事「古代船着き場を示す「かし」」で地名「柏(カシワ)」の語源を杵場(カシバ)=船着き場であると考えましたが、次のように訂正します。

カシワはカシ+ワと考えます。

カシは杵(カシ)でありもやい杭であると考えます。

ワは河曲(カワワ)や浦和(ウラワ)のワと同じ「川などのまがりくねったあたり」という接尾語であると考えます。

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参考
かし[河岸] 
江戸時代に河川や湖沼の沿岸にできた川船の湊。古代~中世には船をつなぐために水中に立てる杭・棹を〈かし〉といい,牫牱または杵と表記した。船に用意しておき,停泊地で水中に突き立てて用いた(《万葉集》1190)。古代には〈かし〉が一種の呪力を有しており,停泊地の海底に穴をあけて清水を噴出させたり(《肥前国風土記》杵島郡の地名説話),海の向こうから国引きしてきた土地を固め立てたり(《出雲国風土記》)したという〈かし〉立て説話がある。杖の有する同じような呪力は,杖が古代的土地占有のシンボルとして大地に立てられたことに起因するが,〈かし〉も,船に乗って海辺の土地を占定していく際のシンボルであった。中世の特権漁民として有名な賀茂社神人〘じにん〙は〈櫓〘ろ〙棹〘さお〙杵〘かし〙の通路の浜〉に対する漁場占有を主張したが,その際の〈杵〉にも同様の意味が込められている。また,〈海のかし立てを限る〉という中世荘園の境界・四至表示は,〈かし〉の届く水深の水域の領有を示している。以上のように〈かし〉はもと船具を意味したが,船着場に固定された舫杭〘もやいぐい〙も〈かし〉といわれ(〈建久7年造大輪田泊太政官符〉《東大寺文書》),そこから船の荷揚場を〈かし〉というようになったのである。〈かし〉を河岸と表記するようになったのは近世に属する。
保立 道久
『平凡社 改訂新版 世界大百科事典』 日立ソリューションズ

わ【回・曲】
〖名〗 山裾・川・海岸などのまがりくねったあたり。他の語の下に付けて用いることもある。「浦回(うらわ)」「川曲(かわわ)」など。
※永久百首(1116)春「あはれしや焼野にもれし峯のわの村草がくれ雉なく也〈源顕仲〉」
『精選版 日本国語大辞典』 小学館
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つまり柏(カシワ)は船に積んだもやい杭を打って船を停泊させる、水面が曲がりくねった(いりこんだ)あたりという意味であり、端的に言えば船着き場です。

柏井(カシワイ)はカシ+ワイであり、カシは船に積んだもやい杭、ワイは「水が岸に曲がり入っている所」という意味であり、これも端的に言えば船着き場です。

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参考
わい[字音語素]
隈
いりこんだところ。ものかげ。すみ。/隈隈、界隈/岸隈、厳隈、江隈、山隈、四隈、城隈、水隈、林隈/隈澳/
『国語大辞典』 小学館

隈
●字音
ワイ 
●字義
1くま。 ア 水が岸に曲がり入っている所。 イ山の入りくんだすみ。
2また(股(コ))。またぐら。
3がけ。きし(岸)。
4ふち(淵(エン))。水が深く魚の集まる所。
5かげ。おおわれた所。
●解字
形声。阝(⻕)+畏。音符の畏(イ)は屈に通じ、かがむの意味。山や水などのまがった所の意味を表す。
『新漢語林』 大修館書店
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つまり、地名柏(カシワ)と柏井(カシワイ)は船着き場という意味であり、同義であると考えます。

以上の考察から派生して、日本語のわ【回・曲】とわい【隈】は本来同じ言葉であり、語尾のイが残ったか残らなかったの違いのように感じます。

カシワイの方がより古い用語であるように類推します。

漢字表記「柏」、「柏井」は当て字であり、漢字があてられる前から音としての地名「カシワ」、「カシワイ」が存在していたことは間違いありません。

なお、カシワとカシワイという音としての地名に同じ「柏」という漢字を当てていることは、当て字の仕方に法則性があることを想定させられます。

柏井という地名が遠方(茨城県笠間市、愛知県春日井市、愛知県尾張旭市、高知県高岡郡日高村)にもあることから、直接の影響がない場所でも一斉に同じ当て字をするという現象が存在していることが判ります。

当て字だけでなく、そもそも同じ音の地名(同じ意味の地名)が全国に分布するという事象は、地名の成立プロセスを考える上で意識すべき重要な事象です。

お互いに影響がない場所でも一斉に同じ地名が発生する、あるいは同じ当て字が使われるという現象は生物社会の進化の様子と同じであり、興味を持ちます。

千葉県柏市の「柏」と千葉県千葉市花見川区柏井町、市川市柏井1~4丁目の「柏井」が同義であることが判りました。

参考 杵(かし…船に積んだもやい杭)である可能性が高いと私が考えている出土物

杭
千葉県文化財センター調査報告第500集 印西市西根遺跡 -県道船橋印西線埋蔵文化財調査報告書- より引用

縄文時代~平安時代までミナトであったと考えられる場所(谷津の河道)から出土したもので、報告書では同じく河道から出土した縄文時代の飾り弓とともに上記スケッチが紹介されています。

縄文時代丸木舟に積んでいた杵(もやい杭)であると考えます。

2015年12月3日木曜日

GIS版古代郡郷分布検討図作成の可能性

小字地名データベース作成活用プロジェクト 43

GIS版古代郡郷分布検討図作成の技術的可能性が生まれましたのでメモしておきます。

千葉県の古代郡郷の比定地一覧が「千葉県の歴史 通史編 古代2」に付録「古代房総三国の郡・郷・里の変遷と比定地一覧」として掲載されています。

古代房総三国の郡・郷・里の変遷と比定地一覧 のページ例
「千葉県の歴史 通史編 古代2」から引用

この比定地一覧を分布図として表現したものは見かけたことがありません。

古代郡郷分布図を見かけない理由としては、いろいろな説があるので単純に1枚の分布図にできないという理由と、現在地名との比定ができても、その地理的広がりを把握できない(境界線を引けない)という理由がその主なものであると考えます。

次の図は天野務(1986):下総国印幡郡村神郷とその故地、千葉県教育振興財団文化財センター研究紀要10に掲載されている郡郷配置図です。

下総国印幡郡及び周辺地域郡郷配置図
天野務(1986):下総国印幡郡村神郷とその故地、千葉県教育振興財団文化財センター研究紀要10から引用

この図には「「日本地理志料」をはじめとする先学による「和名抄」郷名比定地のうち、近世以前の資料にその地字名が認められる郷名比定地を図示したものである。」という説明がついています。

郡郷分布図は手堅い情報を素に書こうとすると、上記理由からどうしてもこのような地図になってしまうのだと思います。

しかし、2015.12.02記事「千葉県GIS版大字分布図作成の技術的見通し」で書いたように、明治初期の大字分布図をGISにプロットすることが可能であることが判りました。

明治初期大字分布図のGISデータ化の技術的可能性

したがって、千葉県地名変遷総覧附録「千葉県郷名分布図」(邨岡良弼著日本地理志料による)の郷名分布をGIS上に転写することは容易です。

千葉県地名変遷総覧附録「千葉県郷名分布図」の郡分布 例

千葉県地名変遷総覧附録「千葉県郷名分布図」の郷分布 例

邨岡良弼著日本地理志料の郷名分布は誤りが多くそのままでは使い物にならないという印象を持っています。

しかし、そうした史料内容の評価は別として、参考資料として邨岡良弼著日本地理志料の郷名分布を最初にGISデータ化するという意味は、蓋然性の高い古代郡郷分布図を検討する上で必要なステップであると考えます。

要するに、千葉県地名変遷総覧附録「千葉県郷名分布図」を墨刷り(基図…明治初期大字分布図)と朱刷り(邨岡良弼著日本地理志料)を丸ごとGISデータにすることによって、古代郡郷分布検討の技術的ステップが新たに切り開けることになると考えます。

大いに信用できないという印象をもっているにもかかわらず、唯一分布図として存在する邨岡良弼著日本地理志料を仕方なしに批判的に利用して、「千葉県の歴史 通史編 古代2」付録「古代房総三国の郡・郷・里の変遷と比定地一覧」を分布図化する作業を行い、私家版郡郷分布検討図の作成を目指します。

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邨岡良弼著日本地理志料が信用できない例

【日本地理志料の誤り】
日本地理志料では、千葉郡の郷として「余部」を作郷(!)しています。つまり邨岡良弼が「余部」という郷名を新たに創作しているのです。信じがたいことです。
「原無シ。今補ヘリ。図ヲ按ズルニ、山梨・三枝・山家之中間ニ、天戸村有リ。余・天、同訓」という説明です。
「天戸(アマド)村があるから、この付近は余部(アマルベ)という郷に違いない。」という単純な発想で、それ以上の根拠なく邨岡良弼がかってに余部郷をつくってしまったのです。郷の範囲も地図とにらめっこで作図したものと考えます。

2013.08.28記事「地名「横戸」の由来と香取の海との関係」


2015年12月2日水曜日

千葉県GIS版大字分布図作成の技術的見通し

小字地名データベース作成活用プロジェクト 42

たまたま平成22年国勢調査町丁・字等別境界データを入手しGISにプロットできることを知りました。
2015.122.26記事「境界データのプロット」参照

そのデータを使って小字分布図作成方法やアドレスマッチングの見える化について検討してきました。
2015.11.28記事「境界データを利用した小字分布図作成方法」
2015.11.28記事「アドレスマッチングの見える化」

この寄り道検討の中で、事の重大性に気が付きました。

この町丁・字等別境界データを使って小字データ作成時代(昭和59年)の大字分布図がGIS上で作成できる技術的目途が立ちそうだと気が付いたのです。

小字データ作成時代(昭和59年)の大字分布図がGIS上で作成できれば、アドレスマッチングというブラックボックスを通過しないで、全部自分の目で確認しながら、小字の分布について大字分布図レベルで検討できます。

同時に、大字単位で、出現する小字の組み合わせ傾向分析など、いろいろな空間分析ができるようになります。

小字分布図の作成は現状ではまだ相当遠方にある夢ですが、小字データを大字単位でGIS空間分析することが可能であることに気がついたことは、自分にとっては重大発見です。

次の図は千葉県地名変遷総覧附録「千葉県郷名分布図」の一部です。

千葉県地名変遷総覧附録「千葉県郷名分布図」の一部

この図の墨刷り情報は千葉県管内実測全図(明治14年実測編製・明治27年出版千葉県蔵版)で、当時の町村(大字)分布を示しています。

次の図は上図と同じ範囲の町丁・字等別境界データです。

町丁・字等別境界データの一部

この町丁・字等別境界データ(面データ)はGIS上で編集データとして扱えるようになっていて、境界線を変更したり、データの一部削除等編集が可能です。

明治初期の大字分布図が存在するので、昭和59年大字分布図復元を現在町丁・字等別境界データを使って行うことの容易性が抜本的に増大しました。

戦後高度成長期以降の土地開発により大字が細分され新しい住所表示の町丁が増えていますが、その開発地について大字分布を復元することの技術的目途がこれまで立っていませんでした。

しかし、千葉県地名変遷総覧附録「千葉県郷名分布図」を使えばそれが可能であることが判ったのです。

電子化している角川千葉県地名大辞典付録小字一覧のGIS空間分析が、小字分布図作成を待たずにある程度可能であるという自分レベルの重大発見をしたことになります。

同時に、GIS版明治初期大字分布図作成が昭和59年大字分布図とまったく同じように可能であることがわかりました。

このことは、さらに増して重大意義がありますので次の記事で検討します。

つづく

花見川で太鼓を敲く人

散歩道の花見川サイクリングロードで太鼓を敲いいる人を見かけました。

軽快なリズムで、散歩が楽しくなります。

了解を得て写真を撮らせていただきました。

太鼓を敲く人

太鼓を敲く人

太鼓を敲きだすと自分の世界に入り込むとのことでした。



風景の写真写りがすっかり紅葉最終段階モードになりました。

花見川付近の風景

花見川の風景

花見川の風景

弁天橋から下流方向

弁天橋から上流方向