2016年11月18日金曜日

上谷遺跡学習のふりかえり

上谷遺跡学習を7月29日にスタートして一昨日までに71記事を書いてきました。

最初は手探りで、少しずつ遺跡の概要が判ってきたのですが、その検討経緯全てを覚えていることは不可能です。

そこで、途中ですが、一度全部の記事を読み返し、ふりかえり、今後の学習方向を確認してみました。

1 当初の学習方針

2016年7月29日の学習方針は次の通りです。

この学習方針は今でもその通りだと思っています。

特段の変更は行いません。

……………………………………………………………………
●花見川-平戸川筋遺跡に関して深めている興味

ア 奈良・平安時代新規開発地が印旛浦に立地した理由(蝦夷戦争との関連、交通との関連)

イ 奈良・平安時代新規開発地の生業

ウ 奈良・平安時代の新規開発地が9世紀末頃に一斉に衰退、廃滅した理由

エ 墨書土器活動の新規開発地での意義(生業や「祭祀」からみた文字の意味等)

上谷遺跡学習ではこのような興味をさらに深める方向で学習したいと思います。

具体的な学習方針は次のように設定します。

●学習方針

ア 分析対象を奈良・平安時代の墨書土器及び土器以外の遺物等に絞って検討する

イ 遺構・遺物の具体情報を徹底してGISデータベース化してGIS空間上で分析検討する

ウ 既学習近隣遺跡との比較を検討の各段階で行い、奈良・平安時代新規開発地の特徴を考察する。
……………………………………………………………………

2 学習経緯

学習経緯は次の通りです。

上谷遺跡 ブログ記事一覧

ブログ記事の概要をとりまとめて確認検討しましたが、そのメモは省略します。

3 今後の課題

これまでの学習で残された主な課題、生まれた主な興味(検討課題)を次にまとめました。

上谷遺跡 ブログ記事のテーマと検討課題

今後これらの課題に順次取り組みたいと思います。

課題が有限になりましたので、また右も左もわからないことがらは課題にはなっていません。

ある程度成算の見込める課題ばかりですので、取り組みを楽しみたいと思います。

4 今後の活動

これらの課題学習が一通り終わった段階で、上谷遺跡検討(学習)の区切りをつけます。

その後、総とりまとめを行い、上谷遺跡学習をまとまったコンテンツに仕上げるつもりです。

学習方針にある近隣遺跡との比較はさらにその後、改めて行うつもりです。

萱田遺跡群、鳴神山遺跡、船尾白幡遺跡について上谷遺跡と同程度のGIS適用を伴う再検討(学習)を行い、できるだけレベルを合わせて上谷遺跡と比較検討を行う予定です。


5 感想

当初は8月一杯くらいで形を付けるつもりだった学習も、すでに5ヵ月となりました。

GIS適用により多大の知見が得られるようになり、学習が面白くなったためです。

残された課題を効率的に学習し、再びできるだけ早く萱田遺跡群に戻って、GIS適用による学習をしたいと思っています。

GIS適用学習により、過去の萱田遺跡群学習における不十分さを是正するとともに、これまでとは比較にならない深いレベルの情報が得られると考えています。


2016年11月16日水曜日

上谷遺跡 竪穴住居敷地内における墨書文字「得」「万」のヒートマップ

被熱ピットが存在していることから小鍛冶遺構であると推定しているA102a竪穴住居について、ミクロな検討を続けています。

この記事では墨書土器文字「得」と「万」の出土分布ヒートマップを作成して、この遺構と集落内集団との関係を考察します。

1 墨書土器文字「得」「万」の集落内における出土領域

上谷遺跡では代表的な墨書文字として「得」「万」「竹」「西」の4つがあげられます。

これまでの検討で、これら4つの代表的墨書文字は居住地を異にする別々の生業集団と対応していると考えてきています。

「得」「万」「竹」「西」を代々伝える4つの集団が上谷遺跡付近集落を構成していたと考えています。

その4つの文字概略分布は次のように図化することができます。

上谷遺跡 代表的墨書文字の出土領域と存被熱ピット竪穴住居

A102a竪穴住居は「得」出土領域と「万」出土領域の中間に位置しています。

またこの付近の存被熱ピット竪穴住居(小鍛冶遺構想定)はほとんどが「得」領域に分布しています。

墨書文字「得」と「万」の出土領域は空間的に棲み分けしていますが、小鍛冶遺構は「得」と「万」二つの集団が合同で運営していたような印象を持つことができる分布になっています。


2 A102a竪穴住居内の「得」「万」分布

A102a竪穴住居 墨書土器「得、万」分布図

この遺構から「得」と「万」の双方が出土していることが一つの特徴です。

同時に「万」は覆土層の上層から出土していて、「得」は「万」より上層に位置していることが読み取れます。

「万」の遺構内持ち込みの後に「得」の持ち込みがあったように観察できます。

3 「得」と「万」のヒートマップ

墨書土器文字「得」と「万」の出土平面位置分布ヒートマップを示します。

上谷遺跡 A102a竪穴住居 墨書土器「得」分布ヒートマップ

上谷遺跡 A102a竪穴住居 墨書土器「万」分布ヒートマップ

得、万ともにその分布は出入り口ピット(西側)付近から竪穴住居に降りて、穴の壁沿いに半周した範囲に多いように観察できます。

竪穴住居中央部に祭壇とか祈祷を行う機能が存在していて、その場所を避けて墨書土器を埋めたと仮想します。

4 A102a竪穴住居から墨書土器文字「得」と「万」が共伴出土する理由

1、2、3から、A102a竪穴住居で墨書土器文字「得」と「万」が共伴出土する理由を次のように空想します。

・小鍛冶機能(鉄器修繕、鉄器流通)は得集団と万集団が共有して所有(運営)していた。その主導権はA102aがその機能を有していた頃は得集団であった。

・小鍛冶機能を有する有力家であるA102a竪穴住居が廃絶したので、その有力家が属する得集団が廃絶跡地の祭祀を行っていた。


・【ケース1】しかし集落全体が衰退する中で「得」集団が衰退して祭祀を行うエネルギーが無くなり、最後の祭祀は「万」集団が代わって挙行した。

・【ケース2】しかし、「得」集団と「万」集団の力関係が変化して、A102a竪穴住居付近が全て「万」集団の支配域となり、最後の祭祀開催権を「万」集団が「得」集団から奪った。


2016年11月15日火曜日

上谷遺跡 小鍛冶遺構出土鉄製品の解釈変更

上谷遺跡A102a竪穴住居の中央には被熱ピットがあり、小鍛冶遺構であると考えています。

この竪穴住居から12点もの鉄製品が出土しています。

その出土状況を平面図でみると住居の縁辺部に多いのですが、断面図を見ると床面から出土している物は少なく、住居廃絶後の祭祀で持ち込まれ覆土層に埋まったものと考えていました。

ところが、発掘調査報告書掲載の平面図・断面図を子細に対照してみると、この認識が間違っていることが判りました

次の図は鉄製品と石・土製品(土器を除く)の平面図と断面図を対照させたものです。

上谷遺跡 A102a竪穴住居 (存被熱ピット住居)
鉄製品の殆どが床面・ピット・壁から出土

平面図と断面図を対照して線で結ぶとA-A’断面近くの出土物は床面及び出入り口ピットの底から出土している物が確認できます。

それ以外の遺物はA-A’断面に「投影」して表現されています。

A-A’断面に「投影」していますので、見かけ上は覆土の中にあるようにこれまで誤解していたのですが、実際に確実に覆土層中にあるものは35、36の刀子と31の鞴(羽口)の3点だけです。

それ以外は床面・壁・壁に掘り込んだピット(物入れか?)などから出土していて、全て「非覆土層」であることが判明しました。

鉄製品のほとんどが、この住居がアクティブであった時に由来するものであることが判明しました。

住居中央の被熱ピットで小鍛冶が行われ、紡錘車、刀子、鏃、斧などが修繕されていたと考えます。

溝状でえぐりを有する軽石が出入り口ピットから出土していますが、刀子や鏃を研ぐ道具だったと考えられ、この住居が小鍛冶遺構であることを重ねて示しています。

12点の鉄製品には略完形の紡錘車2、鏃2が含まれていますので、この住居が廃絶するときこれらの鉄製品等が意識的に残されたものと考えます。

この場所は墓ではありませんが、墓に副葬品を納めるように、廃絶した小鍛冶機能を有する有力家の住居跡に鉄製品を意識的に残し、弔ったあるいは思い出の場所にしたと考えます。

住居跡が人々の心の中で意味のある空間であったと考えます。

住居跡が人々の心の中で意味のある空間であった時間は世代を超えることは考えづらいので、長くて30年くらいと想像します。

その程度の時間の間に墨書土器をこの空間に持ち込んで行う祭祀が何回かあったものと想像します。




2016年11月14日月曜日

上谷遺跡 竪穴住居遺物分布ヒートマップ検討

このブログにおける上谷遺跡検討は花見川筋、平戸川(新川)筋の古代遺跡検討の一環です。

その古代遺跡検討は花見川-平戸川筋が古代東海道の水運路であったという「東海道水運支路仮説」の検証という大目的の元におこなっています。

そのような大目的との関わりとの直接的結びつきは一見弱くなりましたが、GISを使った古代遺跡検討方法(学習方法)の開発が進んでいて、結局は「東海道水運支路」の検証に役立つと考えられますので、現状ではかなり精細な技術的検討(技術的開発を伴いながら行う学習)を行っています。

この記事では竪穴住居の遺物分布ヒートマップについて検討します。

次の図は竪穴住居から出土した遺物の平面位置図(平面ドット図)を基に作成したヒートマップです。

上谷遺跡 A102a竪穴住居 遺物分布ヒートマップ

半径パラメータを0.5mで作成したものです。

この図では分布の具体性があまりに強いので、ヒートマップを半径パラメータ1mで作成してみました。

上谷遺跡 A102a竪穴住居 遺物分布ヒートマップ
半径パラメータ1m

この図の分布状況の抽象性が自分の思考レベルに合うと直観できますので、この図を使って検討してみます。

このヒートマップにピット等の分布図をオーバーレイしてみました。

その結果、次のような遺物出土に関する仮説を想像することができました。

上谷遺跡 A102a竪穴住居 遺物分布ヒートマップによる仮説
半径パラメータ1m

赤くなっている領域つまり遺物出土密度が高い部分が廃絶時出入り口ピットを中心とする西側に集中しています。

また廃絶時に竈があった近くにも2番目の赤い領域があります。

このことから、遺物(墨書土器や鉄製品など)を置いた人々は廃絶時出入り口と竈の双方を目印に集まってきていることが推察できます。

廃絶した住居の機能を確認して遺物を置いています。

このことから、遺物がそれ自体意味を有しない穴に投げ込んこまれたのではないことが判ります。

もし、廃棄物投棄用の穴であった場合、廃棄された遺物は穴に投げ込まれ、恐らく四方から投げ込まれ、穴中央部の遺物密度が最大になると考えます。

廃絶した住居機能を踏まえて(念頭において)遺物を置いているのですから、その住居空間ひいてはその住居に住んでいた人に対して尊重の念の存在がうかがわれます。

廃絶した竪穴住居空間とそこに住んでいた人を尊重、尊敬、尊崇していた可能性を感じとることができます。

もしその想像の的確性が高かったならば、竪穴住居中央部に簡易な祭壇が設けられたり、祭壇は無いにしても、祈祷の場になったりした可能性を想像できるかもしれません。

なお、この竪穴住居が廃絶して、その場所で祭祀が行われたとすると、周辺のどのようなところから人が集まってきたのか、知りたくて、A102a竪穴住居周辺の遺構分布図を見てみました。

A102a竪穴住居付近の遺構分布図

A102aの西側も東側にも竪穴住居が分布しています。

A102a遺構の西側に遺物が多いということと、周辺竪穴住居の分布との対応はないのかもしれません。

上谷遺跡では奈良・平安時代というくくり以上に詳しい年代検討は行われていないので、残念ながらそれ以上の検討は今後の課題となります。

直観的には、周辺の竪穴住居の分布ではなく、A102a竪穴住居の出入り口跡が大きな意味をなし、廃絶後の穴にも出入り口跡の場所から入っていったのだと考えます。

2016年11月13日日曜日

上谷遺跡 竪穴住居跡遺物出土ヒートマップ作成

2016.11.12記事「上谷遺跡 竪穴住居覆土層出土遺物は廃棄物か?」でA102a竪穴住居の遺物分布図を示し、「確実に言えることは竪穴住居の中央部に密であるという分布でないこと」と述べました。

A102a竪穴住居 遺物分布図 2

この分布図からヒートマップを作成しより直観的に「竪穴住居の中央部に密であるという分布でないこと」を示すことができましたので、作業図を紹介します。

A102a竪穴住居 遺物分布図 のヒートマップ
GIS(地図太郎PLUS)作業画面 (ヒートマップそのものはQGISで作成)
(ちなみに、上記画面が地図太郎PLUSの画面拡大限界(1/45))

遺物出土地点の密集域は赤、密集域から離れると色が順次オレンジ、黄色、緑、青と変化し、50㎝以内に遺物出土地点がない空間は色がつきません。

カーネル密度推定における半径パラメータが50㎝(!)ということになります。

この図から、単に遺構中央部の遺物密度が密ではないという情報以外に、遺物出土域がクラスター状になっている理由など、もっといろいろな情報を引き出し、同時に各種問題意識をこの図に投影して考察したいと思います。

また、遺物種類別にヒートマップを作成することも行いたいと思います。

この竪穴住居は約5.6m×約5.6mの大きさですが、この空間を地理空間としてGISで扱うことによってヒートマップができること自体に、技術的に感動しました。


2016年11月12日土曜日

上谷遺跡 竪穴住居覆土層出土遺物は廃棄物か?

上谷遺跡の竪穴住居の覆土層から墨書土器や鉄製品などが多量に出土する例があります。

上谷遺跡に限らず、これまで検討してきた萱田遺跡群、鳴神山遺跡、船尾白幡遺跡などでも状況は同じです。

竪穴住居覆土層から出土する遺物について、上谷遺跡発掘調査報告書では「廃棄」されたものとして記述され、発掘調査担当者の方は遺物はゴミであったと考えているようです。

しかし、本当にゴミであったのか疑問をもっていますので、発掘情報を子細に分析することによってゴミであるのか、祭祀のお供え物であるのか、あるいは別の性格のものであるのか試行錯誤しながら、学習(検討)を深めたいと思っています。

この記事では、発掘調査報告書に掲載されている遺物出土分布図を子細に分析することが意味があるかどうか、予察してみました。

予察分析の対象は被熱ピットが存在していて、かつ遺物出土数が最も多いA102a竪穴住居としました。

次の図は発掘調査報告書の遺物出土分布図を土器、鉄製品、石製品別に色分けしたものです。


A102a竪穴住居 遺物分布図

この図では番号や指示線が多くて分布の様子を直観的に捉えがたいので、それらの不用物を全部取り除いて、分布が生で見れるようにしてみました。

A102a竪穴住居 遺物分布図 2

まず、全体の平面分布をみると竪穴住居境界付近に比較的密に分布し、中央部には少ないことがわかります。

確実に言えることは竪穴住居の中央部に密であるという分布でないことは確実であるということです。

今後詳しく検討しますが、竪穴住居跡が穴であり、そこが「ゴミ捨て場」であるとすれば、ゴミは投げ込まれ、竪穴住居跡中央部ほどゴミが密になると考えられます。

従って、平面分布から出土物は単純にゴミとして穴に投げ込まれたのではないと言えそうです。

さらに鉄製品の分布をみると、より明瞭に竪穴住居跡の周辺部に密になっています。

「投げた」「置いた」「埋めた」かという行為は別として、手に持った鉄製品を足元近くの竪穴住居跡に移動させたのです。

鉄製品が不要になったからといって、穴中央めがけて捨てたのでないことは、この分布からわかります。

なお断面図をみると、出入り口ピットの底に鉄製品が出土します。これは完形紡錘車です。

また床面に石製品の出土があります。これも完形紡錘車です。

これらはゴミでないことは確実です。

意図をもって使える道具(紡錘車)を置いた(埋めた)ことが推察できます。


A102a竪穴住居 墨書土器「得、万」分布図

土器のうち、墨書土器「得、得ヵ」と「万、大万」を色分けして示してみました。

平面分布は住居跡周辺部に多くなっています。

また断面をみると、「万、大万」の出土層位が「得、得ヵ」より高いところにあり、二つの文字がここに置かれた年代に差があるように読み取れます。

祈願文字として「得」を使った集団も、「万」を使った集団も墨書土器片を同じように住居跡周辺部に置いていますから、土器片をこの住居跡に置いた心性は同じで、ゴミとして投げ込んだのでないと考えられます。


以上、予察的に遺物出土データを分析しましたが、そのデータから遺物がゴミとして捨てられたものか、それとも祭祀のお供え物か、あるはい別の性格があるのか、その検討に有益な情報を提供してもらえる可能性を感じ取ることができました。

今後本格的に検討してみたいと思います。

2016年11月11日金曜日

遺跡全体を見渡すGIS式学習の効果

上谷遺跡の発掘調査報告書は次の6冊が刊行完結しています。

「千葉県八千代市上谷遺跡 (仮称)八千代市カルチャータウン開発事業関連埋蔵文化財調査報告書Ⅱ -第1分冊-」(2001、大成建設株式会社・八千代市遺跡調査会)

「千葉県八千代市上谷遺跡 (仮称)八千代市カルチャータウン開発事業関連埋蔵文化財調査報告書Ⅱ -第2分冊-」(2003、大成建設株式会社・八千代市遺跡調査会)

「千葉県八千代市上谷遺跡 (仮称)八千代市カルチャータウン開発事業関連埋蔵文化財調査報告書Ⅱ -第3分冊-」(2004、大成建設株式会社・八千代市遺跡調査会)

「千葉県八千代市上谷遺跡 (仮称)八千代市カルチャータウン開発事業関連埋蔵文化財調査報告書Ⅱ -第4分冊-」(2004、大成建設株式会社・八千代市遺跡調査会)

「千葉県八千代市上谷遺跡 (仮称)八千代市カルチャータウン開発事業関連埋蔵文化財調査報告書Ⅱ -第5分冊-」(2005、大成建設株式会社・八千代市遺跡調査会)

「千葉県八千代市上谷遺跡 (仮称)八千代市カルチャータウン開発事業関連埋蔵文化財調査報告書Ⅱ -第1分冊本文編-」(2005、大成建設株式会社・八千代市遺跡調査会)

これら6冊は発掘区域の年次別に順次発行されたものです。

これら6冊の情報を通しでまとめたもの、あるいは考察した成果はありません。

このような発掘調査特性を備える上谷遺跡の学習をGISを使って進めていて、学習に遺跡全体を見渡す効果があることに気が付きました。

被熱ピットのある竪穴住居の検討を2016.11.08記事「上谷遺跡 被熱ピット等のある竪穴住居の紙上観察」で行いました。

この検討(学習)で、被熱ピットのある竪穴住居は小鍛冶遺構であるという想定を行いました。

発掘調査報告書の記載を詳しく検討(学習)した結果を記事にしたのです。

ふりかえって、発掘調査報告書の記載を再確認すると、次ようになります。

上谷遺跡 被熱ピットのある竪穴住居 発掘調査の順番と記載の特徴

上谷遺跡 被熱ピットのある竪穴住居 発掘調査の順番と特徴的記載のある竪穴住居の位置


発掘調査の最初の段階では被熱ピットを用途不明としています。

発掘調査の途中段階では被熱ピットについて「火の使用」という言葉で小鍛冶をほのめかす記載をしています。

発掘調査の最終段階では被熱ピットについて小鍛冶を想定しています。

私の学習では小鍛冶遺構としての被熱ピットを当初発掘作業では用途不明とし、出土例が増えるに従って小鍛冶遺構であるとことを疑い、最終的には小鍛冶遺構として想定したという現場担当者の認識変化があったのではないかと想像します。

発掘調査報告書が6分冊であり、そのまとめ編が存在しないという遺跡では、遺跡・遺物をGISにプロットして、空間的に遺跡全体を見渡して行う学習の効果が大あると感じました。

被熱ピット(小鍛冶)に限らず、すべての遺構・遺物に関する諸事象についても、遺跡全体を空間的に見渡してみるというGIS式学習方法が大きな意義をもっていると感じます。



2016年11月9日水曜日

上谷遺跡 被熱ピットのある竪穴住居からの出土物の多さ

上谷遺跡に存在する17の被熱ピットのある竪穴住居は鍛冶遺構であると想定しています。

その17竪穴住居からの遺物出土量が多いので検討しておきます。

金属製品の出土数を遺構別にみると次のようになります。

上谷遺跡 被熱ピット出土竪穴住居の金属製品出土数

平均値でみると被熱ピットがある竪穴住居は全体の値の約2.4倍となります。

墨書土器の出土数を遺構別にみると次のようになります。

上谷遺跡 被熱ピット出土竪穴住居の墨書土器出土数

平均値でみると被熱ピットのある竪穴住居は全体の約3.5倍となります。

被熱ピットのある竪穴住居は鉄器修繕の場であり、その場は同時に商品としての鉄器流通の場であり、鉄器修繕リサイクル技術が存在する場であり、さらには木炭生産を指揮管理する場であったとも考えます。

従って、被熱ピットのある竪穴住居で小鍛冶活動を行っていたのは集落の上層部、指導層に属する家族であったと考えます。

被熱ピットのある竪穴住居が廃絶したということは集落上層部、指導層の人間が死んだ(一家を継ぐ者がいなくなった)ことを意味します。

ですから、その住居跡(穴としての空間)で死んだ人やその人が果たした役割をしのぶ祭祀が関係者によって繰り返し行われ、そのとき金属製品や墨書土器がお供え物として置かれた(埋められた、投げられた)と考えます。

発掘調査報告書では覆土層から出土する遺物を祭祀に関わるものとは見立てておらず、ゴミ捨て場のゴミのような想定をしていますが、発掘情報を子細に分析すればそのような見方(ゴミ)は根拠のない思い込みであることが判明すると考えています。

墨書土器をわざわざ割って竪穴住居跡に置く、貴重な鉄製品等を(壊れたものであるとはいえリサイクル可能にもかかわらず)わざわざ竪穴住居跡に置く、竪穴住居跡で東京湾からわざわざ取り寄せた貴重な貝を食べその貝殻を残すことなど、出土物自体が祭祀のあったことを物語っています。

参考 上谷遺跡 被熱ピット等のある竪穴住居

2016年11月8日火曜日

上谷遺跡 被熱ピット等のある竪穴住居の紙上観察

2016.10.28記事「資料精査による鍛冶関連情報再ピックアップ」で被熱ピット等のある竪穴住居をピックアップして、鍛冶関連遺構の可能性を検討しました。

この被熱ピット等のある竪穴住居を詳しく紙上観察してみました。

発掘調査報告書による記述と平面図は次の通りです。

上谷遺跡 被熱ピットのある竪穴住居

上谷遺跡 被熱ピットのある竪穴住居(平面図) 1

上谷遺跡 被熱ピットのある竪穴住居(平面図) 2

発掘調査報告書ではA188について「火の使用」に注目していて、A242では小鍛冶を想定しています。

A188もA142も浅い被熱ピットです。

同様の浅い被熱ピットは別に11箇所の竪穴住居から出土しています。(上図で赤字記述)

住居中央部に存在する浅い被熱ピットは鉄器修繕のための小鍛冶場跡と考えて大きな間違いはないと思います。

浅い被熱ピットではない被熱ピットもおそらく鞴の使い方が異なる別タイプの小鍛冶場であると想像します。

しかし不確かさが増す想像となります。

浅い被熱ピットは鞴送風を炭の上からおこなうタイプ、穴を掘った被熱ピットは鞴羽口を土に埋め込み、炭の下から送風するタイプと空想しています。

被熱ピットのある竪穴住居の分布図を見ると、浅い被熱ピットのある竪穴住居の分布が2カ所に分かれるように分布していて竪穴住居や掘立柱建物の分布密集と対応します。

上谷遺跡 被熱ピット等のある竪穴住居

浅い被熱ピットのある竪穴住居はほぼ小鍛冶場であると考えて間違いないと思いますが、この分布図には恐らく8世紀初頭頃~10世紀初頭頃の200年間ぐらい(*)の遺構が全部プロットされているので、ある時間断面をとれば平均して1/6の2カ所程度の小鍛冶場が稼働していたのかもしれません。

*近隣の萱田遺跡群の例から類推(2016.11.09追記)
2016.02.11記事「鳴神山遺跡と萱田遺跡群の出土土器数比較」掲載図「萱田遺跡群の竪穴住居消長と蝦夷戦争に関する時代区分」参照

2016年11月1日火曜日

上谷遺跡 多数の「不用材焼却竪穴住居」の真相

上谷遺跡を検討している最中の感想です。

上谷遺跡の竪穴住居には、覆土層の最下部に焼土層があり、床面に焼けた木材が直接載っているものが多数あります。

発掘調査報告書ではこれらの遺構について「不用材を焼却した」という記述で統一記載されています。

「不用材の焼却」は存在せず、廃絶後ただちに埋められと考えられる竪穴住居も多数あります。

ですから、「不用材の焼却」は必ず行われる住居廃絶時イベントでないことははっきりしています。

なにか理由があって「不用材の焼却」をしたものと考えます。

「不用材の焼却」はその現場写真が掲載されていないので、もちろん発掘現場も見ていないので、自分としてはなんで「不用材」と呼んでいるのか、確実なことは言えません。

しかし、竪穴住居が廃絶して直後の焼却ですから、もともとその場所に建てられていた住居そのものか、その一部の建材であると推察できます。

ここで疑問1が生じます。

発掘調査報告書では何故「不用材」を燃やしたと判断できたのでしょうか?

1 住居そのもの(全体)が不用になって廃絶したのだから、そこの住居の部材は「不用」になったのだから、「不用材」と呼んだ。

2 「不用」と判断できるような証拠が現場にあり(それは発掘調査報告書には当たり前すぎて記述されていないが)、有用←→不用の対比における不用の意味で「不用材」と判断している。

例1 有用と考えられるような太い部材は明らかに持ち出されていて、燃やされたのが転用部材にできないような細い部材などであることが明白である。

例2 住居部材ではない燃料用薪に類するような木材が持ち込まれ燃やされている。

次いで疑問2が生じます。

発掘調査報告書では「不用材」を燃やしたと記述していますが、この焼却はごみ処理をしたという想定を発掘者がしたことになります。

竪穴住居廃絶の時、ごみ処理の焼却が必要なら、ほとんど全ての竪穴住居に「不用材焼却」跡があってもよさそうなものですが、「不用材焼却」跡は限られています。

祭祀として木材(おそらく住居そのもの)を燃やしたという可能性がなぜ論じられないのか、疑問です。

材木を別の用途に転用することは奈良時代にあっては一般的であり、おそらく古代社会では「不用材」などは存在しなかったと考えます。

古代社会とは、一旦製材された木材は次々に使えなくなるまで転用されたリサイクル社会であったと考えます。

そのリサイクル社会で有用物の木材を燃料としてではなく、焚火のように気前よく燃やして消費すのですから、理由があるはずです。

その理由とは祭祀にかかわるものだと思われてしかたがありません。

もがりなどがあり、焼却は葬送と関係するのかもしれません。


疑問1と疑問2から上谷遺跡の多数の「不用材焼却竪穴住居」の真相を検討していきたいと思います。

覆土層最下部の「不用材焼却」層の意味が本当にごみ処理なのか、祭祀の結果であるのか判明させることの意義は大きなものがあると考えます。

その意味が判明すれば、覆土層の中部とか上部に存在する焼土層の意味解明にもつながります。

覆土層中部とか上部に存在する焼土層とその周辺から、多量の墨書土器、鉄器などの遺物が出土することがかなりあります。貝層が出土することもあります。

これらの焼土と遺物がごみ処理跡なのか、祭祀跡なのか、「不用材焼却」跡の意義がわかればそれに連動してわかる可能性が高まります。


これまで、発掘調査報告書全6冊を何度も(奈良平安時代編だけですが)読み直してきて、ごみ処理としての焼却か、それとも祭祀としての焼却かは発掘情報を子細に検討すれば、さらに一定の統計処理をすれば、識別できるに違いないという感触を、素人考えですが、持ち始めています。

発掘調査報告書には出土物や覆土層別などの微細情報が平面的、断面的に満載されていて、それらの分析はおそらくだれも行っていないので、その価値をまだだれも知りません。

多量の炭化材が床面上から出土した「不用材焼却」竪穴住居の記載例 A135竪穴住居

平面図中央付近アミが焼土層 この住居の消火用覆土から鉄滓が出土している。