2017年11月15日水曜日

7~10世紀下総国の出来事 印西船穂郷の謎(2/11)

2 7~10世紀下総国の出来事

鳴神山遺跡と船尾白幡遺跡を理解する背景知識が必要であると考え、7世紀から10世紀までの下総国の主な出来事を年表にまとめてみました。
646年大化の改新、663年白村江の敗北を経て国家の進出方向が東北に向かい、そのために鹿島神宮が重要な出撃拠点となったことを学習しました。
そして、8世紀前半から中頃にかけて下総国を東北進出巨大兵站基地にするために律令国家が開発ノウハウとパワーを投下したことを学習しました。
国府・国分寺の建設、東海道駅路の建設、馬牧・牛牧の建設、域内道路・舟運路・開発集落の建設が総合的にかつ有機的連携的に建設された様子は現代大規模開発と比べても見劣りしない構想力・企画力と巨大な建設パワーを感じることができ驚きます。
8世紀初頭に下総国兵站基地総合開発が始まったときから鳴神山遺跡と船尾白幡遺跡がスタートします。

蝦夷戦争の時代下総国から膨大な物資や資材が東北へ向かったことを学習しました。兵站基地として下総国はその役割を大いに果たしたことを学習しました。

9世紀初頭蝦夷戦争が終結すると下総国開発集落は一斉に大発展します。鳴神山遺跡、船尾白幡遺跡も例外ではありません。
私は、戦争終結により国営開発集落が地元氏族に構成員ごと無償で払い下げられたような印象を持ちます。

その後開発集落は9世紀中ごろをピークに衰退傾向が顕著になり、9世紀末から10世紀初めにはほとんどの開発集落が衰滅してしまいます。

8世紀前半から中頃、下総国総合開発が歴史的画期であったことをこのように文字でまとめました。
鹿島神宮(地理的位置は常陸国)に記紀神話が適用されて東北出撃基地としてイデオロギー的にも整備され、それと連動して兵站基地インフラが総合整備されました。

東海道駅路網のうち武蔵国から市川(国府所在)を経て東京湾沿いに千葉方面に向かう本路を建設し、それを軸にそこから準幹線道路・舟運路を整備し、さらにその交通ネットワークに牧を貼り付けるという構想は現代地域開発の思考と変わりありません。国土計画思考の原点が8世紀にあることがわかります。

この図は墨書土器の分布を表したものですが、墨書土器風習は開発集落における労務管理、教化活動の一環であったと考えられますから、開発集落の活発さを表現しているとも言えます。
神様に言葉を口から発して祈願しても、その瞬間に言葉は消えてしまいますが、祈願の内容が消えないで記録されるという「文字」を始めて知った人々の感動はとても大きなものであったと考えます。

下総国が国家的観点による兵站基地であったことが、「東北移民大作戦」に下総国が含まれていないことからも判ります。
下総国の地名が東北に無いことは下総国からの移民が少なかったからだと考えます。
下総国は兵站基地を建設し、そこで多量の食糧や物資・資材を生産することが求められ、多くの人員を必要としていたと考えます。俘囚や全国の浮浪人等を受け入れる場であり、人材を外に出す(移民を出す)場ではなかったと考えます。

年表作成に役立った図書です。「日本の神々11」は「こういうことが知りたかったんだ」と思わずつぶやいてしまった、私にとって有用な図書です。

つづく
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パワーポイントスライドを利用して次の11話を連載しています。
1 発掘調査報告書GIS学習 印西船穂郷の謎(1/11)
2 7~10世紀下総国の出来事 印西船穂郷の謎(2/11)
3 鳴神山遺跡と船尾白幡遺跡の概要 印西船穂郷の謎(3/11)
4 鳴神山遺跡の牧と漆、墨書文字「大」「大加」集団 印西船穂郷の謎(4/11)
5 小字「大野」の出自、「大」の意味と氏族、養蚕 印西船穂郷の謎(5/11)
6 船尾白幡遺跡の養蚕、漆と麻、「帀」の意味と氏族 印西船穂郷の謎(6/11)
7 鳴神山遺跡直線道路 印西船穂郷の謎(7/11)
8 鳴神山遺跡は典型古代牧遺跡 印西船穂郷の謎(8/11)
9 「鳴神山遺跡=大結馬牧」仮説 印西船穂郷の謎(9/11)
10 大結馬牧(仮説)の領域 印西船穂郷の謎(10/11)
11 古代開発集落が滅びた理由 印西船穂郷の謎(11/11)

参考 印西船穂郷の謎講演レジメ(pdf) 12M

2017年11月14日火曜日

発掘調査報告書GIS学習 印西船穂郷の謎(1/11)

「奈良・平安期に開発した印西の船穂郷(戸神・船尾)の謎 ~大結馬牧の姿が見えてきた~」という表題で次の順番で話をします。

1 発掘調査報告書GIS学習の概略
2 7~10世紀下総国の出来事
3 戸神・船尾開発集落の生業
4 鳴神山遺跡直線道路
5 鳴神山遺跡が典型古代牧遺跡であること
6 「鳴神山遺跡=大結馬牧」仮説
7 古代開発集落が滅びた理由

1 発掘調査報告書GIS学習の概略

鳴神山遺跡を例にするとこのような発掘調査報告書を学習対象としています。
いずれも分厚い図書です。
図書館でコピーしてそれを家に持ち帰り、学習作業にとりかかります。

どの古代集落遺跡でも発掘調査報告書情報の8割程度が竪穴住居とそこからの出土物記載であるような印象を受けています。
発掘調査報告書の情報は遺構番号、文章記述、出土物一覧表、遺構・出土物図面などから構成されています。

学習に使う主なソフトはExcelとQGISです。Excelは表計算ソフト、QGISは世界で使われているフリーソフトのGIS(地理情報システム)です。QGISは高機能で絶えずバージョンアップされていて、高価な市販ソフトに見劣りするところはないと言われています。

実際の学習は発掘調査報告書の様々な項目の情報を遺構別に読み取り、Excelに入力することから始めます。
読み取る項目は種類別土器数、刀子・鉄鏃・紡錘車・・・などの出土物種類別数、墨書文字別数などなど。
Excel表の縦方向に竪穴住居番号が数百、横方向に項目が数百ならびますから巨大なExcel表をつくることになります。
次に竪穴住居の位置情報(緯度、経度)をしらべ、Excel表に追記します。
Excelで位置情報を含む遺構・遺物リストが出来上がりました。
この情報ができると、それをGISソフトにプロットすることができます。
単に分布図をつくるだけでなく、項目の重ね合わせや相互関係の分析、結果のグラフ分布図作成など高度な分析作業を極めて短時間にできるようになります。
GISソフトを使うことにより手作業では事実上不可能であると考えられるような手間のかかる作業が瞬時にできるようになります。

つづく
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パワーポイントスライドを利用して次の11話を連載しています。
1 発掘調査報告書GIS学習 印西船穂郷の謎(1/11)
2 7~10世紀下総国の出来事 印西船穂郷の謎(2/11)
3 鳴神山遺跡と船尾白幡遺跡の概要 印西船穂郷の謎(3/11)
4 鳴神山遺跡の牧と漆、墨書文字「大」「大加」集団 印西船穂郷の謎(4/11)
5 小字「大野」の出自、「大」の意味と氏族、養蚕 印西船穂郷の謎(5/11)
6 船尾白幡遺跡の養蚕、漆と麻、「帀」の意味と氏族 印西船穂郷の謎(6/11)
7 鳴神山遺跡直線道路 印西船穂郷の謎(7/11)
8 鳴神山遺跡は典型古代牧遺跡 印西船穂郷の謎(8/11)
9 「鳴神山遺跡=大結馬牧」仮説 印西船穂郷の謎(9/11)
10 大結馬牧(仮説)の領域 印西船穂郷の謎(10/11)
11 古代開発集落が滅びた理由 印西船穂郷の謎(11/11)

参考 印西船穂郷の謎講演レジメ(pdf) 12M

2017年11月13日月曜日

印西船穂郷の謎 講演レジメ

2017年11月12日に印西地域史研究会で講演させていただきましたので、そのレジメを参考までに掲載します。

講演題目は「奈良・平安期に開発した印西の船穂郷(戸神・船尾)の謎 ~大結馬牧の姿が見えてきた~」です。

これまで3年程前からこのブログで学習してきた鳴神山遺跡、船尾白幡遺跡の2つの遺跡の奈良・平安時代を対象に話をさせていただきました。

主な内容は次の通りです。
1 発掘調査報告書GIS学習の概略
2 7~10世紀下総国の出来事
3 戸神・船尾開発集落の生業
4 鳴神山遺跡直線道路
5 鳴神山遺跡が典型古代牧遺跡であること
6 「鳴神山遺跡=大結馬牧」仮説
7 古代開発集落が滅びた理由

専門家から見れば眉唾の話題ばかりかもしれませんが考古歴史学習の楽しさは聴衆の皆様に伝えることができたのではないかと思います。

印西船穂郷の謎講演レジメ(pdf) 12M

講演で使ったパワーポイントに基づいて講演内容をブログ連載記事にする予定です。
講演レジメに使った画像の1枚
鳴神山遺跡四半期別竪穴住居の分布

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2017年9月24日に同じく印西地域史研究会で西根遺跡縄文時代をメインにした講演をさせていただきましたが、そのレジメも再掲します。

講演題目は「祈りの空間 戸神川谷津の隠された秘密にせまる -西根遺跡 縄文~近世の自分流学習-」です。 

戸神川谷津の秘密講演レジメ(pdf) 982KB

2017年11月11日土曜日

下総台地の古代開発集落一斉衰滅の原因

下総台地の古代開発集落は9世紀第4四半期から10世紀初頭にかけて急速に一斉衰滅します。その原因がなにであるか以前から興味があります。
一方低地の水田耕作をする集落はこの時期に逆に発展しています。

その原因のイメージについてこの2~3年サッパリ判らなかったのですが、最近おぼろげながらたとえ話風に判ってきたような気になりましたので、その感想をメモしておきます。

1 9世紀末から10世紀にかけての下総国の状況
● 律令国家の統治が弱まる(徴税・治安など)
● 台地上開発集落はほとんど全て衰滅
● 低地集落(水田集落)は逆に発展

2 私のたとえ思考
●ワンマン会社S社で経営中枢部が失踪し、権力空白が生まれる。(下総国の状況)
●S社A部門は内部が混乱し仕事継続ができなくて、組織が崩壊。(台地上開発集落)
●S社B部門は内部の統制が維持され仕事継続して、組織として発展。(低地水田集落)
●同じS社を構成していたA部門とB部門の差はそれぞれの組織特性に基づく対応力の差

3 台地上開発集落崩壊のイメージ
●開発集落の住民はリーダー層を除くと、全て新住民であり、浮浪人や俘囚などが主体であった。
●開発集落の働き手は強制力により隷属的、半奴隷的な労働に従事していた。
●国家権力の空白が生まれた時、リーダー(地元氏族)による開発集落統治が不可能となった。

4 群盗の蜂起、俘囚の反乱、僦馬の党が台地開発集落崩壊の実体
これまで群盗の蜂起、俘囚の反乱、僦馬の党(*)という事象は台地開発集落を取り巻く社会環境(社会情勢)としてイメージしてきました。
しかし、そのイメージは誤りであり、群盗の蜂起、俘囚の反乱、僦馬の党が台地開発集落崩壊の実体そのものであると判りました。

次の武器は鳴神山遺跡の牧集団(墨書文字「大」「大加」集団)が所持していたものです。

鳴神山遺跡出土鉄鏃、刀子

鳴神山遺跡出土刀子

これらの武器を所持していた牧集団は強い統制下では生産活動に従事して集落発展に寄与したのですが、統制が弱まると地道な生産活動で社会になじむ方向ではなく、略奪や不正活動など社会に従わない方向、社会を破壊する方向に向かったのだと考えます。

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* 僦馬(シュウバ)の党 ウィキペディアから引用
僦馬の党(しゅうばのとう)は、平安期に坂東で見られた自ら武装して租税等の運輸を業とする「僦馬」による集団で、馬や荷の強奪を行った群盗。
律令制下において、地方から畿内への調庸の運搬を担ったのは郡司・富豪層であった。主に舟運に頼った西日本及び日本海沿岸に対し、馬牧に適した地が多い東国では馬による運送が発達し、これらの荷の運搬と安全を請け負う僦馬と呼ばれる集団が現れた。特に東海道足柄峠や東山道碓氷峠などの交通の難所において活躍したと見られている。
一方で8世紀末から9世紀にかけて軍団が廃止され、常置の国家正規軍がなくなると地方の治安は悪化し、国衙の厳しい調庸取り立てに反抗した群盗の横行が常態化するようになっていた。僦馬は、これら群盗に対抗するため武装し、また自らも他の僦馬を襲い荷や馬の強奪をするようになった。この背景には当時の東国における製鉄技術の発展を指摘する見解がある[1]。また、現在の東北地方から関東地方などに移住させられ、9世紀に度々反乱を起こした俘囚(朝廷に帰服した蝦夷)と呼ばれる人々も、移住先にて商業や輸送に従事しており、僦馬の先駆的存在であったと指摘する見解もある[2]。彼らは徒党を組んで村々を襲い、東海道の馬を奪うと東山道で、東山道の馬を奪うと東海道で処分した。特に寛平~延喜年間には、899年(昌泰2年)に足柄峠・碓氷峠に関が設置されたことが示すとおり僦馬の横行が顕著であった。
これらの僦馬の党の横行を鎮圧したのは、平高望、藤原利仁、藤原秀郷らの下級貴族らであった。彼等は国司・押領使として勲功を挙げ、負名として土着し治安維持にあたった。
近年、武士の発生自体を、東国での僦馬の党、西国での海賊の横行とその鎮圧過程における在地土豪の武装集団の争いに求め、承平天慶の乱についても、これらを鎮圧した軍事貴族の内部分裂によるとする見解が出されている[3]。
1^ 網野、1982
2^ 宮原、2014
3^ 下向井、2001
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2017年11月10日金曜日

大結馬牧船橋説の根拠薄弱性

鳴神山遺跡のGIS学習を深めているなかで、鳴神山遺跡が典型古代牧でありかつ国家的戦略的重要性のある牧・道路セット遺跡であることが浮かび上がりました。
同時に大結馬牧の根拠薄弱性に気が付き、その瞬間に大結馬牧印西説が生まれました。

仮説 大結道路と大結馬牧

この仮説が生まれる前に行っていた学習はあくまでも鳴神山遺跡の学習であり、大結馬牧に興味の焦点はありませんでした。従って次の「千葉県の歴史 通史編 古代 2」(千葉県発行)の情報に基づき考察をしていました。

「千葉県の歴史 通史編 古代 2」(千葉県発行)における大結馬牧の記述

学習過程では、この大結馬牧船橋説に従って、それと鳴神山遺跡との関係を次のように仮説しました。

参考 大結馬牧船橋説を信じていたころの仮説

しかし鳴神山遺跡と大結馬牧の関係を考えたので、大結馬牧について考えざるを得なくなり、その根拠薄弱性の認識に至ってしまったということです。
学習を深めれば深めるほど大結馬牧船橋説の根拠薄弱性が感じられるようになり、最後は船橋説(水海道市付近説も)を到底首肯できることはできないと結論付けるにまで至りました。

この記事では大結馬牧船橋説、水海道市付近説の根拠薄弱性についてメモします。

1 大結馬牧船橋説
1-1 概要
●大結馬牧を意富比(オオヒ)神社と関連づける。音「オオ」が同じ。
●意富比(オオヒ)神社付近に中世の荘園夏見御厨が建設され、その前身が牧であった可能性が濃い。
●延喜式に下総国から伊勢神宮に馬を献上する記載があり、それが大結馬牧からと類推すると、夏見御厨が伊勢神宮内宮領になった説明ができる。(梅田義彦)
●船橋付近から馬骨が出土する。

1-2 大結馬牧船橋説の根拠薄弱性
●大結をオオヒと読む根拠はなく、大結(オオユイ)と意富比(オオヒ)神社の関連は語呂合わせに過ぎない。
●根拠となる馬骨は夏見付近ではなく離れた本郷町方面であり、それ以外の牧を示す情報がないことから、船橋付近が大結馬牧であるとの特定はできない。
●延喜式記載順番に合わない。

2 大結馬牧水海道市付近説
2-1 概要
●大結馬牧を地名大生郷(オオウゴウ)と関連付ける。音「オオ」が同じ。
●牧を示す地名がある。古間木など。

2-2 大結馬牧水海道市付近説の根拠薄弱性
●大結を地名大生郷(オオウゴウ)と関連づけるのは語呂合わせに過ぎない。
●牧の存在を示す地名で大結馬牧の特定はできない。

3 感想
船橋説、水海道市付近説に関して、次のような感想を持っています。
大結馬牧船橋説は船橋に大結馬牧が存在したと仮定すると中世の歴史(夏見御厨)の説明がしやすくなるという観点から生まれたように感じます。
大結馬牧水海道市付近説は水海道市付近に大結馬牧が存在したと仮定すると中世の歴史(平将門の乱など)の説明がしやすくなるという観点から生まれたように感じます。
ともに奈良時代の牧特性そのものに関する情報・推定からおのずと生まれた説ではないように感じます。

奈良時代牧そのものに興味の焦点を当て、その専門的情報に基づいて大結馬牧について検討した専門家は過去現在誰もいないので、中世歴史に興味のある人々が大結馬牧を自分好みに「配置」して中世歴史を説明補強した思考が定式化してしまったのだと考えます。

下総国古代牧そのものを学術的見地から検討した専門家が過去現在存在していないことは、延喜式諸国牧記載順番についての言及がどこにもないことからうかがうことができます。
下総国古代道路については学術的検討が多く、駅家の延喜式記載順番が詳しく検討され、その検討を一つの重要要件として駅路の分析が行われています。

牧に関する地名、馬骨の出土は極端に言えば下総には無数にあります。それらは恐らくすべて牧実在の跡を示します。奈良時代の下総台地は牧だらけであったと(つたない私の遺跡学習体験でも)考えることができます。
古代牧を示す情報を持って、それだけで大結馬牧を特定したことにはなりません。
大結馬牧の特定のためにはそれなりの根拠が必要であり、大結馬牧印西説は特定根拠要件を満たす可能性が極めて濃厚であると考えます。
 

2017年11月9日木曜日

大結馬牧(仮説)のゾーンイメージ

2017.10.22記事「大結仮説 鳴神山遺跡が大結馬牧であるとする新仮説」で 鳴神山遺跡こそが大結馬牧であるという仮説を立てました。

この仮説が生まれた瞬間の思考はつぎのようなものです。

「鳴神山遺跡=大結馬牧」仮説が生まれた瞬間

鳴神山遺跡の牧が国家的重要性があると気が付いたことと、大結馬牧船橋説の根拠薄弱に気が付いたことが重なったためです。
大結馬牧船橋説がしっかりしていればこの仮説がうまれる余地はありません。
大結馬牧船橋説の根拠虚弱性検討は次の記事でおこなうことにして、この記事では鳴神山遺跡が典型古代牧の様相を呈していて、国家的重要性がある様子をメモします。

1 鳴神山遺跡が典型古代牧の様相である様子
古代牧関連遺構は次の6つの施設から構成されるという研究があります。
1 牧場地区(牧本体。草原であり遺構は少ない。土塁・堀・柵列などが牧認定の根拠となる。)
2 繋飼地区(厩舎。駅路・居館・官衙・宮都・寺社などに付設される。)
3 管理地区(官衙的な事務空間(検印・礎石建物・文房具、馬具工房)、検印のための土塁・柵列など)
4 居住地区(牛馬飼育集団の居住集落。牛馬骨や馬具の出土、皮革加工などの痕跡を伴う。)
5 牧田地区(牛馬飼育集団が自営するための田畑。)
6 墳墓・祭祀地区(埋葬牛馬、牛馬殉葬、殺牛馬儀礼。)
(桃崎祐輔(2012):牧の考古学-古墳時代牧と牛馬飼育集団の集落・墓-;日韓集落の研究 弥生・古墳時代及び無文土器~三国時代(最終報告書)、日韓集落研究会 による)

この6つの施設区分の考えを鳴神山遺跡に適用すると、次のように具体例が浮かび上がり、その場所を地図に投影することができます。

●牧関連6施設の鳴神山遺跡投影
1 牧場地区(牧集団を示す墨書文字「大」分布の北側)
2 繋飼地区(直線道路行軍将兵に軍馬を支給した可能性のある総柱掘立柱建物の付近)
3 管理地区(リーダー氏族名のある墨書土器や羽口が出土付近)
4 居住地区(牧集団を示す墨書文字「大」分布域)
5 牧田地区(養蚕痕跡の濃い地域)
6 祭祀地区(馬骨出土祭祀跡井戸付近)

鳴神山遺跡牧遺構ゾーン区分推定

2 鳴神山遺跡牧が国家的戦略的重要性を帯びている様子
牧と東北進出用行軍道路がセットで建設されていることから、このセットには律令国家東北進出の国家的戦略性が備わっていたと考えます。
2017.11.01記事「鳴神山遺跡直線道路が行軍用一方通行道路であった可能性」参照

2017年11月7日火曜日

花見川流域ファミリーの記事数3000通過に感謝

ブログ「花見川流域を歩く」とそのファミリーブログのトータル記事数が3000を通過しました。
「花見川流域を歩く」ブログファミリーを多くの方に読んでいただいているおかげここまで到達することができました。
皆様に感謝申し上げます。
今後もよろしくお願い申し上げます。

ブログの開設、記事数、ページビュー数(2017.11.07)
花見川流域を歩く 開設2011.01.15 記事数2132 ページビュー数313940
花見川流域を歩く番外編 開設2015.04.16 記事数449 ページビュー数30024
花見川流域を歩く自然・風景編 開設2016.09.03 記事数273 ページビュー数9396
世界の風景を楽しむ 開設2016.10.05 記事数110 ページビュー数4868
学習幸福否定 開設2016.06.24 終了2017.03.19 記事数71 ページビュー数5609

5ブログの合計 記事数3035 ページビュー数363837

花見川近くの畑の夜明け

2017年11月6日月曜日

8・9世紀下総開発集落学習用年表の作成

2017.10.26記事「泥縄式学習」でメモしたように幾つかの図書を読んで、私家版の古代開発集落理解用年表を作成しました。

8・9世紀下総開発集落学習用年表

年表を作成してみると、いままで頭の中で結びついていなかった事柄が同時代の事柄として理解でき、錯誤していた事柄も整序され、時代を総合的に観察できるようになりました。

例えば、8世紀前半から中頃に武蔵国からつながる東海道駅路、下総国府・国分寺、5つの諸国牧、下総国内の幹線陸路・水運路、各地の開発集落が総合的連携的に建設されたことを理解しました。現代の大規模総合開発にも勝る総合開発です。
律令国家が下総国を東北進出の一大兵站基地とするためです。
このような時代感覚を持てたことにより自分の歴史理解がさらに深まります。

また次のような錯誤も正すことができました。
延喜式諸国牧は通常の歴史書では延喜式完成(927年)の平安時代のページで説明されます。それは文書としての延喜式完成が平安時代であるからです。
しかし諸国牧(高津馬牧、大結馬牧…)の実体を平安時代のものとして理解するとすれば、それは錯誤になることを知りました。
平安時代(10世紀)の下総は俘囚の反乱や僦馬の党を経て国家権力が空白に近い状態です。牧を担った台地上の開発集落はほとんど全て衰滅してしまっています。
秩序だった牧の存在はあり得ません。国家中央の文書の記載の中だけの話です。

私家版年表を今後さらに充実させることにします。

2017年11月5日日曜日

短期集中学習「奈良平安時代7開発集落の生業と消長」のおもしろさ

2017.10.12記事「短期集中学習 「奈良平安7開発集落の生業と消長」の開始」でスタートした学習が想像以上に面白いので、途中経過として自分が特段に興味を持った点をランダムメモしておきます。

1 鳴神山遺跡が大結馬牧であるという仮説がいわば「向こうからやってきて」生まれました。
千葉県公式歴史書(「千葉県の歴史」)の記述(大結馬牧船橋説)と真っ向から異なるので、興味がとても深いものになります。
機会が生れれば、その筋の専門家に教えを請い、大結馬牧印西説の蓋然性を高めたいと考えます。

2 過去検討をふりかえり反芻することにより、遺跡毎の特徴が鮮明に理解できるようになりました。
例えば鳴神山遺跡の漆は馬牛の皮を素材とし、隣の船尾白幡遺跡の漆は麻を素材とした乾漆であったこと。

3 古代遺跡GIS学習は鳴神山遺跡ではじめ船尾白幡遺跡、上谷遺跡で行いましたが、白幡前遺跡をはじめとする萱田遺跡群では本格GIS学習は行いませんでした。今からふりかえると鳴神山遺跡、船尾白幡遺跡、上谷遺跡より萱田遺跡群の方がよりドラマチックな考古事象があり、もしGIS学習をすればより大きな学習成果を得られそうです。いつの日か萱田遺跡群についてGISをツールにして学習再チャレンジしたいと思います。

4 下総国台地上の古代開発集落は蝦夷戦争後大発展して9世紀第3四半頃ピークを迎え10世紀初頭頃にはほとんど衰滅します。この10世紀初頭頃の台地上開発集落消滅の理由がいままで皆目見当が付きませんでした。
ところが、7遺跡学習をふりかえると、おぼろげながらその理由がわかるような気になってきました。
9世紀末頃から10世紀にかけて律令国家の統治が弱まったのですが、その統治弱体化(現場から見れば権力空白の生起)に開発集落現場(体制、人)が対応できなかったという「対応力」の欠如が開発集落消滅の主因であると直観できるようになりました。
同じ社会情勢の変化、環境の変化があっても、ある社会はそれに対応して困難を克服して発展します。別の社会はそれに対応できないで破滅します。
開発集落現場が現代人の感覚をもっていたなら律令国家の統治が弱まってもその困難を乗り越えて平将門独立国家のようなものを形成して発展したと考えますが、当時の開発集落現場には対応力がなく、現場構成員が地道な生業を捨て逆にことごとく自由な盗賊集団に変身してしまったということです。
同じ時代水田耕作する集落は破滅せず、逆に発展していますから、牧をはじめとする台地集落構成員と水田耕作を行う低地集落構成員の気風や文化が大きく異なっていたと推定します。台地集落には強制された時だけ組織活動を行える気風の人々が多かったということです。
台地開発集落の一斉消滅の主因についてその仮説をイメージできましたので、今後検討を深めたいと思います。

風景 

2017年11月1日水曜日

鳴神山遺跡直線道路が行軍用一方通行道路であった可能性

鳴神山遺跡直線道路が陸奥国へ向かう将兵の行軍用一方通行道路であった可能性が濃厚となりましたので、メモしておきます。
2017.10.31記事「大塚前遺跡出土大溝が道路であることについて(野馬堀説の間違い訂正)」の関連情報になります。

1 鳴神山遺跡直線道路の構造
鳴神山遺跡直線道路の断面形状を詳しく観察すると次の3パターンに分類できます。

鳴神山遺跡直線道路 断面形状による区分
断面図は道路西方向を向いたときの断面

台地側道付複線区間は複線区間が3箇所ある区間です。正確には単線区間と複線区間が繰り返される区間です。この単線・複線が繰り返される区間の台地北側に側道が連続して付いています。
この区間は馬の前後の入れ替えを複線の繰り返しで行い、人の前後の入れ替えを台地側道で行える区間です。
単線区間はその巾の狭さから人馬の追い抜きが困難な区間です。
堀込が浅い単線区間は総柱建物の前だけですから、その建物のある宅地面に上がり、降りるための区間であると考えることができます。

参考 鳴神山遺跡 直線道路近くの総柱掘立柱建物

総柱掘立柱建物(2間×3間)はその長軸方向と道路走行が完全に一致し、かつ道路から7-8mのところにあります。また総柱掘立柱建物は鳴神山遺跡ではここだけです。この建物は床がある施設であり、道路機能と密接に結びついた行政機関に関連するものと考えることが可能です。

この建物前だけで道路深さが浅くなり、宅地面に上りやすくなっています。
その前後は単線区間であり、西に複線区間があります。

2 道路利用の推定
総柱掘立柱建物の主要機能はこの道路を行軍してきた将兵に対する補給を行いチェックする機関であったことが考えられます。
複線区間は補給チェックの運営がスムーズに行えるようにするためのグループ集合施設、順番待ち施設であったと想定できます。

西から行軍してきた将兵の一団は前を進む一団の補給とチェックが済むまで複線区間で待たされたのではないかと想像します。複線区間は対面交通の退避所ではなく、一団がそろって補給とチェックを受けることができるように遅れた人馬を待ち、前後の入れ替えを行う集合順番整序場所であったと考えます。
下総国府方面から移動してくる間に各集団が入り混じったり、将校と兵の順番が狂ったりするので、この場所で一団が秩序だった人馬順番を形成したのだと考えます。そろった一団から補給チェック施設に向かい、そこで宅地面に上り補給とチェックを受け、再び道路に降りて東の香取の海のミナトに向かって行軍したと想像します。

鳴神山遺跡直線道路機能の想像

3 鳴神山遺跡直線道路の性格と廃絶
このように考えると直線道路は完全な一方通行路です。西から東へ行軍するためだけの軍事専用一方通行道路です。

律令国家が将兵を東へ向かって行軍させることが無くなれば、この道路は無用の長物になります。
実際に、9世紀始め頃(蝦夷戦争が終了した頃)この道路は埋め立てられました。蝦夷戦争終了後鳴神山遺跡は大発展するのですが、その経済発展にこの道路は全く関わっていません。

大塚前遺跡の大溝道路も蝦夷戦争終結まで機能した軍事専用一方通行道路であったと考えられます。

なお、下総国府付近の東海道本路になったと考えられる道路は複線区間になっていて両方向通行道路であったことが判っています。

参考 新山遺跡出土道路
「千葉県の歴史 資料編 考古3(奈良・平安時代)」(千葉県発行)から引用