2020年8月9日日曜日

山形土偶の解釈

 縄文土器学習 445

千葉市埋蔵文化財調査センターに展示されている加曽利B2式山形土偶の3Dモデルを作成観察し、その解釈をしました。

1 加曽利B2式山形土偶(千葉市内野第1遺跡) 観察記録3Dモデル

加曽利B2式山形土偶(千葉市内野第1遺跡) 観察記録3Dモデル

撮影場所:千葉市埋蔵文化財センター

撮影月日:2020.08.04

ガラス面越し撮影

3Dモデル写真測量ソフト 3DF Zephyr で生成 v5.003 processing 48 images

展示の様子

展示の様子

展示の様子(特殊モード撮影写真)

動画

2 山形土偶の解釈

山形土偶の解釈

山形土偶には地母神殺害再生神話の様子が表現されています。

この土偶を実際にバラバラにして(模擬殺人・死体バラバラ)、各所にばらまき(模擬バラバラ死体ばらまき)、各所での幸発生を祈願したものと想像します。

神話本来の意義は農耕社会における農産物豊作祈願祭祀であったと言われています。縄文社会に導入されたこの神話がどの程度農耕と関係していたのか、詳しく知りたいところです。バラバラに壊されてばら撒かれた土偶の詳しい分布図ができれば、土偶祭祀で何を祈願していたのか判る可能性があります。


ハマグリ製貝刃 3Dモデル

 縄文貝製品学習 2

加曽利貝塚博物館常設展に展示されているハマグリ製貝刃の観察記録3Dモデルを作成しました。

1 縄文時代ハマグリ製貝刃(千葉市加曽利貝塚) 観察記録3Dモデル

縄文時代ハマグリ製貝刃(千葉市加曽利貝塚) 観察記録3Dモデル

撮影場所:加曽利貝塚博物館 常設展

撮影日時:2020.07.30

ガラス面越し撮影

3Dモデル写真測量ソフト 3DF Zephyr で生成 v5.003 processing 94 images

展示の様子

展示の様子

展示の様子(特殊モード撮影写真)

動画

動画(画像なしバージョン)

2 メモ

・貝刃の刃部様子がよくわかる3Dモデルとなりました。

・外殻を削り、刃部を形成しています。

・展示説明では用途は不明な点があるが、使ってみると魚のうろこ取りに重宝して使えると書いてあります。

・石器のように素材入手に苦労することのない、いくらでもいつでもつくることのできる包丁であったと、現状では考えておきます。


2020年8月8日土曜日

縄文中期前半の土偶 3Dモデル

 縄文土器学習 444

千葉市埋蔵文化財調査センターに展示されている縄文中期前半土偶の3Dモデルを作成しました。千葉では縄文中期土偶は中部高地や東京(三多摩)と比べてその出土数が少なく、大変珍しいものです。

1 縄文中期前半土偶(千葉市柳沢遺跡) 観察記録3Dモデル

縄文中期前半土偶(千葉市柳沢遺跡) 観察記録3Dモデル

撮影場所:千葉市埋蔵文化財調査センター 

撮影月日:2020.08.04 

ガラス面越し撮影 

3Dモデル写真測量ソフト 3DF Zephyr で生成 v5.003 processing 60 images

展示の様子

展示の様子 拡大

展示の様子(特殊モード写真)

展示の様子(特殊モード写真) 拡大

展示説明写真

動画

動画(画像なしバージョン)

2 メモ

・3Dモデルを作るまで、二つの乳房の存在を認識できませんでした。ガラス面越しで、限られた光線量とはいえ、いかに自分の現物観察力が虚弱であるか思い知らされました。

・同時に3Dモデル作成が学習上きわめて有力な活動であることの再認識もしました。

・中期千葉・東京(区部)は土偶祭祀を拒否していた地域であり、出土する土偶数は極少数です。今後出土土偶の分布や、なぜ限られた土偶が出土するのか、考察を深めたいと思います。

・出土土偶は壊されていますから、中期の中部高地や東京(三多摩)で行われていた地母神殺害再生神話にもとづく土偶祭祀の存在を指標しています。

2020年8月7日金曜日

ヒスイ製勾玉の用途・使い方

 縄文石器学習 26

「ヒスイ製勾玉(千葉市加曽利貝塚) 観察記録3Dモデル」の画像を繰り返しみていると、新たに気が付いた事柄がありますので、メモします。

1 古墳時代勾玉イメージと加曽利貝塚出土縄文時代勾玉との違い

古墳時代勾玉のイメージ 広辞苑から引用

自分がいままで持っている勾玉イメージは古墳時代のもので、表面はつるつるしていて、磨かれた曲面からなる整った形状です。

ところが、加曽利貝塚出土ヒスイ製勾玉は頭部に模様が刻まれているだけでなく、全体に小さな孔や溝が沢山あり、「美しく磨かれた装身具」としては強い違和感を覚えます。その違和感を梃にしてこの勾玉の用途と使い方について思考してみました。

2 ヒスイ製勾玉に観察される多様な彫刻

ヒスイ製勾玉(千葉市加曽利貝塚)に観察される多様な彫刻

ヒスイ製勾玉(千葉市加曽利貝塚)には次の3種の彫刻がなされています。

ア 頭部にみられる段刻み部

凸部と凹部を3回繰り返し配置して段刻みを彫刻しています。

イ 浅いえぐり部

段刻み部とは反対の頭部が浅くえぐられています。

ウ 多数の小孔・小溝

勾玉全体に多数の小孔・小溝が刻まれています。勾玉という製品が出来上がった後、これらの小孔・小溝が作られたことは確実です。小孔・小溝にはデザイン上の意味が見出し難く感じます。一度製品としてつくられた勾玉をデザイン上の観点から刻みなおしたとは感じられません。しかし、小孔・小溝は確かに刻まれています。

3 彫刻の様子から仮説するヒスイ製勾玉の用途・使い方

ア 仮説 段刻み部と浅いえぐり部は手で持つときの機能である

右手親指を浅いえぐり部に置き、人差し指をコの字にして段刻み部を押さえれば、勾玉をしっかりと握ることができます。

浅いえぐり部と段刻み部は勾玉を握るための機能を担った彫刻であると考えます。

このように勾玉を握ると、尾の部分が握った人の前方に突き出すようになります。もし相手がいれば、尾は相手に向きます。

イ 仮説 多数の小孔・小溝はヒスイ石から粉末や微細なかけらを削り取った跡である

多数の小孔・小溝は何らかの方法で製品としてのヒスイ勾玉から粉末や微細なかけらを削り取った跡であると仮説します。このヒスイ製勾玉を使うたびに極少量の粉末やかけらを削りとり、使ったものと仮説します。もしこの仮説が正しければ、見えている部分だけでも数十回以上の勾玉利用(削り取り)があり、展示背面も観察すれば100回以上の勾玉利用が想定できます。

ウ 仮説 ヒスイ製勾玉は医療道具であり、薬である

ウ-1 使い方

ヒスイ製勾玉を手で握って曲がった尾の部分で患部邪気をひっかけて取り出すようなイメージ的動作をするとか、尾を患部に当ててハンドパワー的な効果を狙うとかの活動が行われたと想像します。ヒスイ製勾玉という医療道具(ハード)を使いこなすための病気別快癒呪文(ソフト)も発達していたに違いありません。

ウ-2 薬としてのヒスイ製勾玉

ヒスイ製勾玉を使った呪術的医療活動の最後に、勾玉の一部を削り取り、粉末やかけらを患者に食べさせた(投薬した)と想像します。ヒスイ粉末は特効的効果があったものと想像します。

このヒスイ製勾玉が濃い緑色をしていて特段に上等品であることから、最初から医療道具兼薬として加曽利貝塚に届いたものであると想像します。たまたまこの製品が加曽利貝塚に届いたのではなく、加曽利貝塚集落が中部高地経由で糸魚川産地に特別注文し(事前に多量の魚介製品やイボキサゴ製固形調味料を中部高地に届け)、その特注に対応する配達があったものと考えます。中部高地に加曽利貝塚とヒスイ製品原産地の交易を介在するセンター機能が存在していたと仮想します。

参考 玉を食べる習慣

「古く玉を食べる習慣もあり,《周礼〘しゆらい〙》王府職に,王が斎〘ものいみ〙の儀式にあたって玉を食べる記事が見えるし,《楚辞》にも玉を食餌とする辞句が散見する。のちに神仙家の間では,玉を粒や粉にして水薬,丸薬,粘薬とした〈玉漿〘ぎよくしよう〙〉〈玉屑〘ぎよくせつ〙〉〈玉膏〘ぎよくこう〙〉などの仙薬が服用されたらしい。この食玉の風習も玉の呪力を体内にとりこみ止めるという呪術に由来し,その後に長寿延命を保つ法として受け継がれたと見られる。また,死者の口に含ませる〈含玉〉や手に握らせる〈握〉など副葬の玉器〈葬玉〉,玉片を金糸銀糸で綴って死者に着せた〈金縷〘きんる〙玉衣〉〈銀縷玉衣〉なども,もとはやはり玉に生成力,再生力をみとめ死者の復活を願ったのが起源であろう。葬玉の風習は六朝以降廃れるが,南中国の一部の地方では近年まで死者の口に翡翠〘ひすい〙(硬玉)をはませていた。(鈴木 健之)」平凡社 改訂新版 世界大百科事典』 日立ソリューションズから引用


2020年8月6日木曜日

ヒスイ製勾玉 3Dモデル

縄文石器学習 25

加曽利貝塚博物館に展示されているヒスイ製勾玉について3Dモデルを作成して観察しました。

1 ヒスイ製勾玉(千葉市加曽利貝塚) 観察記録3Dモデル

ヒスイ製勾玉(千葉市加曽利貝塚) 観察記録3Dモデル
撮影場所:加曽利貝塚博物館
撮影月日:2020.08.04 
ガラス面越し撮影
3DF Zephyr で生成 v5.002 processing 31 images

展示の様子

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実測図
「史跡加曽利貝塚総括報告書」(2017、千葉市教育委員会)から引用

特殊モード写真


特殊モード写真 拡大

動画

2 観察と感想

観察
・全体の形状が勾玉になっています。勾玉という玉の在り方は縄文時代から古代へと引き継がれていきます。縄文時代に作られた勾玉の意味、効果、使い方の基本が古代へと引き継がれたと考えます。このことは、縄文祭祀が弥生時代にほとんど廃絶した中で、特筆すべき事柄です。
・頭の部分に凸部と凹部の繰り返しが施されていて、特徴ある勾玉となっています。
・勾玉は霊(タマ)にアクセスするためのインターフェイスであると空想しておきます。「勾玉を振りながら呪文を唱えれば、死んだ霊(タマ)も息をふき返す。(死人も蘇る。)」というようなイメージを出発点にして、情報収集しながら、勾玉の意義について考察していくことにします。折口信夫学習などが効果的であるような直観がします。

2020年8月5日水曜日

赤彩ハマグリ 3Dモデル

縄文貝製品学習 1

加曽利貝塚博物館の装飾品コーナーに展示されている赤彩ハマグリの観察記録3Dモデルを作成しました。

1 赤彩ハマグリ(千葉市加曽利貝塚) 観察記録3Dモデル

赤彩ハマグリ(千葉市加曽利貝塚) 観察記録3Dモデル
赤色顔料で内外面につながる文様を描いている
撮影場所:加曽利貝塚博物館 
撮影月日:2020.07.30 
ガラス面越し撮影
3Dモデル写真測量ソフト 3DF Zephyr で生成 v5.002 processing 101 images

展示の様子

展示説明

特殊モード撮影写真

動画

2 感想
・貝製品の3Dモデルを初めてつくりました。赤彩の様子はよく表現できているのですが、縁が貝刃のようにギザギザになってしまい正確に結像していないことは残念です。貝製品3Dモデル作成は最初からガラス面越し撮影の限界に直面しているようです。
・赤彩される貝はほとんどが二枚貝であるようです。
・なぜ赤彩されるのか。赤彩されたハマグリはどのように使われたのか急いで学習を深めたいと思います。
・「忍澤成視(2000):縄文時代における貝製装身具の実際(貝塚博物館紀要、第27号)」では市原市西広貝塚の事例から赤彩貝が葬送儀礼に関係する道具である可能性を指摘しています。

縄文早期前半の土偶 3Dモデル

縄文土器学習 443

千葉市埋蔵文化財調査センターに展示されている縄文早期前半土偶の3Dモデルを作成しました。以前3Dモデルを作成したのですが及第点以下のレベルでしたので、今回撮影し直して作り直しました。

1 縄文早期前半の土偶(千葉市中鹿子第2遺跡) 観察記録3Dモデル

縄文早期前半の土偶(千葉市中鹿子第2遺跡) 観察記録3Dモデル
花輪台式期
撮影場所:千葉市埋蔵文化財調査センター 
撮影月日:2020.08.04 
ガラス面越し撮影
3Dモデル写真測量ソフト 3DF Zephyr で生成 v5.002 processing 75 images

高さ約3.0㎝、最大幅約2.3㎝、脚部付近の厚さ約0.7㎝

展示の様子

展示の様子 拡大

展示の様子 特殊モード撮影

展示の様子 特殊モード撮影 拡大

動画

2 感想
・向かって左の乳房は欠落しています。
・後晩期の山形土偶とかミミズク土偶は地母神殺害再生神話にもとづく土偶祭祀で使われました。そこでは、壊す(地母神を殺し、死体をバラバラにする模擬行為)、ばらまく(バラバラ死体を幸を期待する場所にばらまく模擬行為)活動が伴います。
・一方早期土偶は地母神殺害再生神話がまだ伝来する前の土偶祭祀で使われたものです。土偶を壊すことは使い方に含まれていないと考えられます。
・安産のお守りなどで使われたと考えます。上黒岩岩陰遺跡の石偶の例では産小屋として使われた遺跡(上黒岩岩陰遺跡)にその石偶が置かれ伝世して使われたと考えられています。この土偶も個人がつくり、個人が使い、廃棄されるのではないと思います。産小屋として使われる住居に置かれ、それを利用する産婦が代々使ったのかもしれません。

「記念墓」に関する想像的考察メモ

縄文社会消長分析学習 43

ブログ芋づる式読書のメモ2020.07.31記事「墓制と祖霊祭祀の発達」で「記念墓」概念を知り、強い知的刺激を受けメモを書きました。その後そのメモを追補したくなりましたので、文字通りの空想ですが、忘れないようにメモとして定着させます。埋葬に関する具体的な情報を多く知れば、この感想も大いに変わるに違いありません。

1 「記念墓」概念
「さらに、関東地方で多数合葬・複葬例が行われたのは、縄文時代後期前葉の時期にほぼ限定されることもわかっている。ちょうどこの頃は、それまでの大型集落が気候変動などにより一度分解し、少人数ごとに散らばって小規模な集落を営んだ後、再度、人々が新規に結合し大型の集落が形成されるようになった時期にあたっている。また、このような多数合葬・複葬例の墓坑内部もしくは、墓坑にごく近接した地点には柱穴が確認されていることから、上屋などの上部構造が存在したことが確実視されている。集落内においても目立つ存在だったようなのだ。
 これらの点から、私は多数合葬・複葬例を、集落が新規に開設される際に、伝統的な血縁関係者同士の墓をいったん棄却し、異なる血縁の人々と同じ墓に再埋葬することによって、生前の関係を撤廃し、新規に関係を再構築するもので、集団構造を直接的な血縁関係を主とするもの(たとえばリネージ)から地縁的な関係や擬似的な血縁関係に基づくもの(たとえばクラン)へと再構成させるための行為であったと考えている。
 リネージとは、直接的な血縁関係をたどることができる共通の先祖を持つ人々の出自集団であり、一方クランは血縁関係の有無は不問とするが、先祖は共通であると考えている人々の出自集団である。集落の新規統合が行われた時に、集団統合の儀礼として人骨の集積が行われ、多数合葬・複葬例となった。上屋のある多数合葬・複葬例は、集団統合のモニュメントとされたのだろう。このような墓のことを、私は最近になり「記念墓」と呼ぶようにしている。」山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

次のように要約できます。
・「記念墓」とは、後期前葉頃、異血縁2集団が同じ墓に再葬された現象である。
・「記念墓」活動により新集団が形成されたと推定される。
・新集団統合モニュメント(上屋・柱等)が「記念墓」に設置されたと推定される。

2 「記念墓」に関する感想
ア 外来集団と在来集団の統合
千葉では中期末から後期前半にかけて集団の入れ替えがあったと学習仮説しています。その「集団入れ替え」に対応する事象が記念墓による2集団の合同であったと学習仮説します。
外来集団…中部高地・東京(三多摩)から土偶祭祀を引っ提げてやってきた人々。中期土偶文化を担った人々。
在来集団…千葉・東京(区部)で土偶祭祀を拒否していた人々。中期貝塚文化を担った人々。
もともと同郷の人々が訳があってバラバラに居住し、その人々が再び結集したからといって、「記念墓」をつくるようなことは無いと考えます。

イ 解決しがたい対立・葛藤の究極の解決策「記念墓」
2集団がそれぞれ一度埋葬(最終埋葬)した人骨を墓から掘り出し、同じ場所に埋葬し直すという活動は尋常な心情ではないと思います。強い対立・葛藤があり、争いがある現実を終息させる究極の知恵が「記念墓」活動であったと想像します。
つまり「記念墓」があるということは、その背景にそれほどのことをしなければ現実の争いは収まらないということを表明しているのだと思います。

ウ 「記念墓」は多数事例の中の成功事例?
2集団の争いが支配-服属、征服-追放・奴隷化という形で解決した地域もあったかもしれないと想像します。「記念墓」の分布がどうなっているのか、詳しく知りたいです。
「記念墓」が作られても、その実態は外来進駐集団とそれに同調する在来集団一部の活動であり、在来集団の一部は排除されていたかもしれません。

エ 「記念墓」は外来進駐集団が在来集団を併合した記念碑?
「記念墓」は形の上では2集団が同じ墓にはいる同族化の美しい儀式です。しかし、現実生活では外来進駐集団による在来集団併合であり、実体は外来進駐集団の諸権利(漁業権・採集権・狩猟権)完全獲得の儀式であると考えることもできます。(形式は対等合併、実質は強者による弱者併合)
外来集団が実体として諸権利を奪っていて、その「法的根拠」づくりが「記念墓」活動という見立てもありうると思います。

オ 受傷人骨の意味
加曽利貝塚南貝塚(後期)で受傷人骨が出土しているようですが、在来集団の末裔が使役される階層になり、そのメンバーが処刑されたのではないかと疑念が浮かびます。価値ある検討対象です。
階層化の姿が受傷人骨から浮かび上がるかもしれません。

茨城県中妻貝塚の多数合葬・複葬例
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)から引用

2020年8月4日火曜日

ヒスイ製丸玉(加曽利貝塚) 観察記録3Dモデル

縄文石器学習 24

2020.08.02記事「ヒスイ製丸玉」及びブログ花見川流域を歩く番外編2020.08.04記事「ヒスイ製丸玉の3Dモデル作成ならず」で話題にしたヒスイ製丸玉の再撮影を行い、最低及第点の3Dモデルが出来ましたので、記録しておきます。

1 ヒスイ製丸玉(加曽利貝塚) 観察記録3Dモデル

ヒスイ製丸玉(加曽利貝塚) 観察記録3Dモデル
加曽利貝塚東斜面112号住居跡出土
撮影場所:加曽利貝塚博物館
撮影月日:2020.08.04
ガラス面越し撮影
3Dモデル写真測量ソフト3DFZephyrで生成v5.002processing28images

動画

2 感想
・与えられた条件(ショーケース内展示物のガラス面越し撮影)での3Dモデル作成としては、当面はこれ以上のものは出来ないと感じました。対象物を机の上に乗せてカメラを近づけることができれば、状況は大いに改善できると過去の体験から推察できます。
・二度目の撮影ですからピンボケや手振れを最大限避ける努力をしましたが、その過程で自分を観察すると、望遠画面が手で揺れていました。手持ちカメラ撮影の限界体験でした。

・2020.08.02記事「ヒスイ製丸玉」で次のようなメモを書きました。
「・逆に、土偶祭祀集団が最初にヒスイ原産地を押さえたからこそ、その勢力が東日本全体に及んだと考えることができます。土偶祭祀集団がヒスイ交易を完全に抑えていて、ヒスイ交易をツールにして、土偶祭祀の普及(=土偶祭祀集団の勢力拡大・版図拡大)を図ったと超空想します。」
・一方、山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)の階層化説明に次の記述があり、ヒスイを誰が押さえていたかということを知る(推察する)ことが重要であるこを再認識しました。
「先に、漆塗製品やヒスイなどの奢侈品に触れたが、後晩期にこれらのモノの流通が特定の人々によって押さえられていた可能性は想定してみてもよいだろう。」




2020年8月2日日曜日

ヒスイ製丸玉

縄文石器学習 23

加曽利貝塚博物館の装飾品コーナーの手前右下に径1㎝ほどのヒスイ製丸玉が展示されています。それを見つけた時、展示に説明はありませんが、即座に112号住居跡(大型住居[以前は特殊遺構と呼ばれる]、後期、東斜面)出土物であるとわかりました。
いつか現物を閲覧したいと思っていた出土物が目の前にあり、この小さな遺物の3Dモデル作成を目指して夢中で3Dモデル作成をしました。その結果とヒスイ製丸玉に関する感想をメモします。
なお、加曽利貝塚出土のヒスイ製丸玉は2つだけですから、展示物は下記実測図の5であると特定できます。

1 ヒスイ製丸玉の3Dモデル作成

3Dモデル作成画面(3DF Zephyr Lite画面)
54枚撮影した写真のうち21枚しかソフトに採用されず、出来上がった3Dモデルは写真よりも情報が劣悪で使い物になりませんでした。
3Dモデル作成の失敗は次のような要因があると推定しています。
・対象物が小さすぎるために、望遠撮影をしても対象物が小さすぎること。(もっと近寄り撮影する必要がある。)
・対象物にピントが合わないとか、手振れがあるとか、カメラ手持ち撮影の限界的要因が重なっています。
・対象物がつるつる磨かれていて、3Dモデル作成に適したものではありません。(表面がざらざらしたり、刻み等があれば状況は変わると思います。)
・対象物の置かれた床面マットに模様が無く3Dモデル作成に適していないので、それに引っ張られて撮影写真の多くが不採用になった可能性がある。(マスカレード機能を利用して再度3Dモデル作成作業をすれば、改善効果があるかもしれません。)

このままオメオメと諦めるのもこの作業がもったいなくなりますので、再作業(マスカレード機能利用)と再撮影を行い、3Dモデル作成に引き続きチャレンジします。1㎝×1㎝の展示物までは何としてでも3Dモデル作成ができるようになりたいものです。

2 ヒスイ製丸玉の拡大写真による観察

撮影写真1

撮影写真1(拡大)

撮影写真2

撮影写真2(拡大)

特殊モード撮影写真

特殊モード撮影写真(拡大)

実測図
「史跡加曽利貝塚総括報告書」(2017、千葉市教育委員会)から引用
展示物は実測図5番です。

実測図による形状計測
直径1.33㎝、高さ0.95㎝

・球体ではなく、両側が平になっている腹が膨らんだ円柱形のような形状をしていて、複数の丸玉を連ねて使う研磨仕様で作られています。ヒスイ製丸玉を数珠のように連ねた装身具として使われたものと想像します。
・表面はライトにテカテカと光り、よく磨かれています。素材の不規則形状の緑斑文模様などがよく浮かび上がっています。

3 感想
・展示ヒスイ製丸玉は大型住居である112号住居跡から複数の石棒、異形台付土器、土偶等と一緒に出土しています。この出土状況からヒスイ製丸玉を着装したのは祭祀執行者である可能性を想像したことがあります。ブログ「芋づる式読書のメモ」2020.07.28記事「多様な祭祀の展開

加曽利貝塚特殊遺構(112号住居跡)
「史跡加曽利貝塚総括報告書」(2017、千葉市教育委員会)から引用・塗色・追記

・ヒスイ製丸玉はその完成品が糸魚川付近の原産地で作られ、長野、山梨、東京経由でもたらされたものと考えます。そのルートは土偶祭祀伝播ルートと同じだと考えます。
・中期加曽利貝塚の人々(北貝塚の人々)は土偶祭祀を拒否していました。その後、後期になると加曽利貝塚には土偶祭祀を行う人々(南貝塚の人々)が住みつきました。その土偶祭祀を行う人々は長野、山梨、東京から移動してきた人々です。
・ヒスイ原産地を抑えた同偶祭祀集団が長野、山梨、東京経由で千葉まで移動してきているのですから、ヒスイ入手は太い同族ルートを通じて比較的容易だったと推定します。
・逆に、土偶祭祀集団が最初にヒスイ原産地を押さえたからこそ、その勢力が東日本全体に及んだと考えることができます。土偶祭祀集団がヒスイ交易を完全に抑えていて、ヒスイ交易をツールにして、土偶祭祀の普及(=土偶祭祀集団の勢力拡大・版図拡大)を図ったと超空想します。
・ヒスイがいつごろから珍重されたのか、どのような理由で珍重されるようになったのか、いつ頃から誰によって量産されたのか学習を深めたいとおもいます。ヒスイ交易の中枢部に政治色は全くなかったということはあり得ないと直感します。