2020年8月2日日曜日

ヒスイ製丸玉

縄文石器学習 23

加曽利貝塚博物館の装飾品コーナーの手前右下に径1㎝ほどのヒスイ製丸玉が展示されています。それを見つけた時、展示に説明はありませんが、即座に112号住居跡(大型住居[以前は特殊遺構と呼ばれる]、後期、東斜面)出土物であるとわかりました。
いつか現物を閲覧したいと思っていた出土物が目の前にあり、この小さな遺物の3Dモデル作成を目指して夢中で3Dモデル作成をしました。その結果とヒスイ製丸玉に関する感想をメモします。
なお、加曽利貝塚出土のヒスイ製丸玉は2つだけですから、展示物は下記実測図の5であると特定できます。

1 ヒスイ製丸玉の3Dモデル作成

3Dモデル作成画面(3DF Zephyr Lite画面)
54枚撮影した写真のうち21枚しかソフトに採用されず、出来上がった3Dモデルは写真よりも情報が劣悪で使い物になりませんでした。
3Dモデル作成の失敗は次のような要因があると推定しています。
・対象物が小さすぎるために、望遠撮影をしても対象物が小さすぎること。(もっと近寄り撮影する必要がある。)
・対象物にピントが合わないとか、手振れがあるとか、カメラ手持ち撮影の限界的要因が重なっています。
・対象物がつるつる磨かれていて、3Dモデル作成に適したものではありません。(表面がざらざらしたり、刻み等があれば状況は変わると思います。)
・対象物の置かれた床面マットに模様が無く3Dモデル作成に適していないので、それに引っ張られて撮影写真の多くが不採用になった可能性がある。(マスカレード機能を利用して再度3Dモデル作成作業をすれば、改善効果があるかもしれません。)

このままオメオメと諦めるのもこの作業がもったいなくなりますので、再作業(マスカレード機能利用)と再撮影を行い、3Dモデル作成に引き続きチャレンジします。1㎝×1㎝の展示物までは何としてでも3Dモデル作成ができるようになりたいものです。

2 ヒスイ製丸玉の拡大写真による観察

撮影写真1

撮影写真1(拡大)

撮影写真2

撮影写真2(拡大)

特殊モード撮影写真

特殊モード撮影写真(拡大)

実測図
「史跡加曽利貝塚総括報告書」(2017、千葉市教育委員会)から引用
展示物は実測図5番です。

実測図による形状計測
直径1.33㎝、高さ0.95㎝

・球体ではなく、両側が平になっている腹が膨らんだ円柱形のような形状をしていて、複数の丸玉を連ねて使う研磨仕様で作られています。ヒスイ製丸玉を数珠のように連ねた装身具として使われたものと想像します。
・表面はライトにテカテカと光り、よく磨かれています。素材の不規則形状の緑斑文模様などがよく浮かび上がっています。

3 感想
・展示ヒスイ製丸玉は大型住居である112号住居跡から複数の石棒、異形台付土器、土偶等と一緒に出土しています。この出土状況からヒスイ製丸玉を着装したのは祭祀執行者である可能性を想像したことがあります。ブログ「芋づる式読書のメモ」2020.07.28記事「多様な祭祀の展開

加曽利貝塚特殊遺構(112号住居跡)
「史跡加曽利貝塚総括報告書」(2017、千葉市教育委員会)から引用・塗色・追記

・ヒスイ製丸玉はその完成品が糸魚川付近の原産地で作られ、長野、山梨、東京経由でもたらされたものと考えます。そのルートは土偶祭祀伝播ルートと同じだと考えます。
・中期加曽利貝塚の人々(北貝塚の人々)は土偶祭祀を拒否していました。その後、後期になると加曽利貝塚には土偶祭祀を行う人々(南貝塚の人々)が住みつきました。その土偶祭祀を行う人々は長野、山梨、東京から移動してきた人々です。
・ヒスイ原産地を抑えた同偶祭祀集団が長野、山梨、東京経由で千葉まで移動してきているのですから、ヒスイ入手は太い同族ルートを通じて比較的容易だったと推定します。
・逆に、土偶祭祀集団が最初にヒスイ原産地を押さえたからこそ、その勢力が東日本全体に及んだと考えることができます。土偶祭祀集団がヒスイ交易を完全に抑えていて、ヒスイ交易をツールにして、土偶祭祀の普及(=土偶祭祀集団の勢力拡大・版図拡大)を図ったと超空想します。
・ヒスイがいつごろから珍重されたのか、どのような理由で珍重されるようになったのか、いつ頃から誰によって量産されたのか学習を深めたいとおもいます。ヒスイ交易の中枢部に政治色は全くなかったということはあり得ないと直感します。

0 件のコメント:

コメントを投稿