2015年4月12日日曜日

八千代市小字地名データベース完成

小字地名データベース作成活用プロジェクト 5

1 八千代市小字地名データベースの作成
千葉県地名大辞典(角川書店)附録小字一覧のうち八千代市分の大字・小字の文字表記とルビを電子化してExcelに流し込みデータベースを作成しました。

これで、千葉市と八千代市分の小字データベースが完成しました。

小字地名データベース作成市町村(2015.04.12)

2 八千代市小字地名データベースの諸元と試用
2-1 八千代市小字地名の諸元
・大字数 28
・小字数 565

2-2 試用その1 地名の層序年表との対応
「地名の語源」(鏡味完二・鏡味明克、昭和52年、角川書店)掲載の「地名の層序年表」(※)との対応を調べると、21の語根型のうち、次の3つの語根型が出現しました。
※ 2015.04.10記事「千葉市小字地名の層序学」参照
……………………………………………………………………
八千代市小字地名データベースから抽出した語根型別地名

●~屋敷
大和田 古屋敷

●~宿
大和田 上宿
米本 内宿北、内宿南、上宿西、上宿東、下宿東

●~新田
大和田新田
高津新田
佐山 新田
麦丸 新田、新田台西、新田台、新田台東
……………………………………………………………………
ある一定地域(自治体域等)の小字データベースを地名の層序表と対応させれば、その対応状況から地域の歴史特性が判るかもしれないと考えて、上記作業をしてみました。

八千代市の古墳時代、奈良・平安時代の濃厚な歴史が、この作業ではほとんど表現されていないと思います。

古代の標準化石地名としては「~屋敷」一つが抽出されたのみです。

「地名の語源」(鏡味完二・鏡味明克、昭和52年、角川書店)掲載の「地名の層序年表」はあくまで全日本、全時代、汎用問題意識の下につくられているので、自治体単位の詳細分析には、満足する結果を求めるのは難しいと思います。

しかし、下総地域とか房総を対象にした「地名の層序年表」似の古代を対象とした自前評価検討基準表をつくるまでは、この「地名の層序年表」を機械的に対応させて、それなりの情報を得ていくことにします。

2-3 試用その2 金(カナ・カネ)地名の抽出
データベースの試用として、カナ(カネ)地名について調べてみました。

次の5地名が抽出されました。

大和田新田 津金向(ツガネムカイ)
麦丸 金塚(カネヅカ)、金塚向(カネヅカムカイ)
吉橋 津金(ツガネ)
桑橋 金堀境(カネホリサカイ)

抽出結果と近くの精錬関連遺跡を地図にプロットしてみました。

八千代市小字地名データベースから金(カナ・カネ)地名を抽出した結果
基図は八千代市小字図(「八千代市の歴史 資料編 近代・現代Ⅲ石造文化財」(八千代市発行)附録)
大和田新田芝山遺跡の精錬関連遺跡は10世紀前半頃の時期のようです。(「房総半島における古代精錬遺跡」(神野信)

精錬関連遺跡下流の谷津に「津金」その付近の台地に「津金向」の地名があります。

「津金」とはその上流域に精錬や鍛冶などの施設がある谷津の意味であると推察できました。

分布図から、人名にもよくある「津金」とは金谷津(カナヤツ・カネヤツ)を隠語風に逆にして(ヤツカネ)、それが縮まった言葉であることがわかりました。

千葉市杉葉見遺跡(古墳時代鍛冶遺跡)の下流の谷津に神場(カンバ)(=カナ(金)場=鍛冶場)という小字があるのと同じで、精錬遺跡の場所を下流で知ることができるように谷津に名前がついたのだと思います。

また、精錬活動の影響が谷津の下流まで及んでいたので、呼ばれた地名かもしれません。

桑橋に金堀境という地名があります。
この地名は桑納川南の台地に精錬遺跡があるので、桑納川北の台地からみて、桑納川を境と見立てたのだと思います。
(この南直ぐの船橋市域に地名「金堀(カネホリ)」谷津名「金堀川」がありますから、金堀境の由来は桑納川南岸の地物とは関係のないことがわかりました。船橋市域に古代鍛冶遺構があるのかもしれません。2015.04.15追記)

それだけ精錬関連遺跡が(見つかっている遺跡以上に)台地全体に拡がっていた可能性を感じさせられます。

奈良・平安時代になると、古墳時代には空白であった桑納川南側台地に遺跡が密に分布するようになることと精錬関連活動が対応するのだと思います。

金塚(八千代市小字図では金城)と金塚向は情報をもっていませんが、麦丸付近にその地名の由来となる精錬や鍛冶遺跡があるのかもしれません。調査意欲が掻き立てられます。

データベース検索(試用)により、精錬関連遺跡の影響が広域に及んでいることや、精錬関連遺跡の分布がかなり広いかもしれないというヒントを得ることができました。

八千代市には小字分布図があるのですが、以上の検討を分布図だけを頼りに行うことは、私の気力、集中力では実際上はできません。

小字地名データベースの効用は自分が想像していた以上に大であると感じました。

2015年4月11日土曜日

八千代市白幡前遺跡の発掘情報分析に着手する

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.108 八千代市白幡前遺跡の発掘情報分析に取り組みだす

このブログでは、東海道水運支路(仮説)の検討のために花見川-平戸川(現在の新川)筋の古代遺跡発掘調査報告書悉皆閲覧活動を行い、興味ある情報を記事にしてきています。

これまで、花見川流域では上ノ台遺跡、直道遺跡・居寒台遺跡などの発掘調査報告書掲載情報を自分なりに分析検討して、興味ある事柄を記事にしてきました。

平戸川筋に入ると、平戸川西岸には権現後遺跡、北海道遺跡、井戸向遺跡、白幡前遺跡が存在し、情報量がきわめて多量の発掘報告書が刊行されています。また遺構・遺物の充実した研究成果も論文等の形式で多数公表されています。

また、平戸川東岸の村上込ノ遺跡、名主山遺跡も隣接していて情報量の多い遺跡です。
さらに高津川沿いには高津新山遺跡もあります。

これらの遺跡発掘調査報告書等をざっと閲覧してみてみると、その情報量が膨大であり、かつ興味のある充実情報ばかりであることがわかりました。

平戸川筋の遺跡分布状況
WEBサイト「ふさの国ナビゲーション」(千葉県教育委員会)から遺跡分布図を取得して編集作成

そして、白幡遺跡における出土遺構・遺物が群を抜いていて、平戸川筋の奈良・平安時代最大拠点であるようです。

萱田遺跡群の奈良・平安時代集落の構成
「千葉県の歴史 資料編 考古3(奈良・平安時代)」より引用

そこで、手始めに、白幡前遺跡の奈良・平安時代遺構遺物を対象に、情報を分析してみることにします。

千葉市上ノ台遺跡(古墳時代)で行ったように遺構分布図をGISに連動させつつIllustrator上で作成し、遺構属性や遺物の各種情報を遺構単位にプロットして情報を可視化してみます。

この検討方法を権現後遺跡、北海道遺跡、井戸向遺跡、村上込の遺跡などで行い、地域的な連担性を考慮した考察も射程に入れたいと思います。

さらに、同じ遺跡群について古墳時代についても検討し、比較して奈良・平安時代の特性を見てみます。

恐らくこうした検討を行えば、この地域で活動した奈良・平安時代の集団属性やその集団が取り組んでいたプロジェクトをあぶり出すことができると考えます。(蝦夷戦争の軍事兵站基地として創起された集落と想定しています。)

また、花見川-平戸川筋に想定する東海道水運支路の開設とこの奈良・平安時代集落(=軍事兵站基地)創起が切っても切れない密接な関係にあることもあぶり出すことができると思います。

白幡前遺跡遺構配置図
「八千代市白幡前遺跡-萱田地区埋蔵文化財調査報告書Ⅴ-本文編」附録(1991、住宅都市整備公団首都圏都市開発本部・財団法人千葉県文化財センター)より引用

参考 白幡前遺跡の概要
・奈良・平安時代の竪穴住居跡は279軒、掘立柱建物は150棟をはじめ、同時期の土壙・溝状遺構が検出されている。

・集落は9つの建物群から構成され、
1A群は竪穴住居跡21軒、掘立柱建物跡9棟
1B群は竪穴住居跡56軒、掘立柱建物跡32棟
2A群は竪穴住居跡37軒、掘立柱建物跡19棟
2B群は竪穴住居跡30軒、掘立柱建物跡7棟
2C群は竪穴住居跡43軒、掘立柱建物跡11棟
2D群は竪穴住居跡18軒、掘立柱建物跡8棟
2E群は竪穴住居跡23軒、掘立柱建物跡13棟
2F群は竪穴住居跡21軒、掘立柱建物跡11棟
3群は竪穴住居跡30軒、掘立柱建物跡39棟
で構成されている。

・墨書土器の出土点数が他の遺跡をしのいでいる。

・村落内寺院が出土している。

・人面墨書土器、奈良三彩陶器小壺、和銅開珎、瓦塔が出土している。

参考 白幡前遺跡出土人面墨書土器の説明
「八千代市の歴史 資料編 原始・古代・中世」(八千代市発行)より引用

2015年4月10日金曜日

千葉市小字地名の層序学

小字地名データベース作成活用プロジェクト 4

以前WEB古書店から購入した「地名の語源」(鏡味完二・鏡味明克、昭和52年、角川書店)をペラペラめくっていたら、興味深い地名検討技法に関する概念を見つけました。

「地名の語源」(鏡味完二・鏡味明克、昭和52年、角川書店)

興味深い概念とは地名層序という概念です。

地名語根型の中にはその発生年代がほぼ確定されているものも少なくなく、それらを標準化石地名として、他の地名型を順次決めてゆく基本形にするという考え方です。

層位学のアナロジーで地名を捉えようという一種の地名検討技法です。

次に、この概念で作られた地名の層序年表とその解説資料(地名型(「地名の層序年表」の中の)解説)を掲載します。

地名の層序年表
「地名の語源」(鏡味完二・鏡味明克、昭和52年、角川書店)より引用

地名型(「地名の層序年表」の中の)解説
「地名の語源」(鏡味完二・鏡味明克、昭和52年、角川書店)より引用

私は、地名が出土遺構・遺物と似た貴重な考古歴史情報であると考えていますので、とても興味が湧く、刺激を受ける概念です。

なにはともあれ、最近作った千葉市小字データベースで、上記地名語根型を抽出してみました。

上記「地名の層序年表」掲載21の語根型のうち次の5つの語根型の地名が出現しました。

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千葉市小字データベースから抽出した語根型別地名

●~部(~ベ)
中央区 葛城町 宮名部(ミヤナベ)
中央区 南生実町 小曾部(コソベ)
花見川区 犢橋町 莚部(ムシロベ)
花見川区 長作町 諏訪部(スワベ)
稲毛区 作草部町(サクサベチョウ)
緑区 平山町 長谷部(ハソベ)

●堀之内
若葉区 谷当町 堀之内
緑区 板倉町 堀之内

●~屋敷
中央区 蘇我二丁目 堂屋敷
中央区 大巌寺町 寺屋敷
中央区 浜野町 猿屋敷
中央区 村田町 蔵屋敷
稲毛区 園生町 古屋敷
稲毛区 小中台町 屋敷
稲毛区 長沼町 屋敷
若葉区 貝塚町 荒屋敷
若葉区 大宮町 坊屋敷
若葉区 富田町 屋敷上
若葉区 富田町 古屋敷
緑区 土気町 古屋敷
緑区 小食土町 屋敷ノ内
緑区 板倉町 鍛冶屋敷

●~宿(~ジュク)
30地名抽出(略)

●~新田
22地名抽出(略)

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抽出作業をしてみて、下記【メモ】に書いたような予期しない重要な情報が実際に生まれましたので、この概念はとても有用であると感じました。

しかし、昭和52年作成の上記層序年表のコンテンツそのものは日本全体を対象としています。
また全時代対応の汎用的利用を考えています。
さらに5万分の1地形図掲載地名(大字レベル)を対象としています。

ですから、花見川流域とか下総台地とか千葉県とかの小字レベルでの考察に、上記コンテンツは大いに参考になりますが、あまりに一般論であり、分析を深めるツールとしては満足できるものであはありません。

にもかかわらず、この概念は使えると思います。いただきです。

すでに、このブログではハナ地名、戸(ト、ド)地名、ハタ地名、マク(マキ)地名などを検討してきています。あるいはカナ(カネ)地名、ヒョウ地名、コテ、ナラ、クマ、アマ、ケミ、ゲンバショ、イサム、タケシなどに興味を持ってきています。古代に関する地名材料のプールが既にある程度できてきています。

今後自分の知識量をもっと増やしていけば、自分なりの古代を中心とした下総地名層序表をつくることは不可能ではないと直感します。

また、このような概念を活かして有用な情報を引き出すためには、小字データベースの作成領域を拡大して小字母集団を大きくすることが大切であると感じました。

【メモ】
語根型「~部(~ベ)」で抽出された小字は古代の地名である可能性が高く、地域を考える際のヒントになると思います。

さて、花見川区 犢橋町 莚部(ムシロベ)と花見川区 長作町 諏訪部(スワベ)の例が気になります。

この地名が部民(ベミン)の村(上代貴族の隷属民の村)を表現しているとすれば、その地域はヤマト王権の直轄領みたいな地域であったことになります。在地首長の支配が及ばない地域であったことになります。

そうだとすると、その場所に古墳が存在しないことと整合します。

2015.04.06記事「花見川流域古墳空白地帯の検討」と関わってくる情報です。

いったん取り下げた仮説(古墳空白地帯の住民が被支配環境下にあった)が装いを新たにして、復活する可能性が出てきました。

予期しない展開となりそうです。

もし部民の村が古墳時代花見川流域にあるとすれば、花見川流域の社会階層秩序イメージも変更することになり、地域認識が大いに深まることになります。


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【お知らせ】

小字地名データベース作成活用プロジェクト シリーズを始めます。

現在継続しているシリーズ(花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討)と同時並行で進めます。

このシリーズでは、小字地名データベースの市町村別作成を順次報告し、その活用策について検討して行きます。

なお、過去記事に遡って次の連番を付けます。

2015.02.09記事「Illustratorによる千葉県全域小字(10万件)の簡易データベース完成」 シリーズ1
2015.03.25記事「予報 千葉市小字データの電子化」 シリーズ2
2015.04.05記事「千葉市小字データベースのプロトタイプ完成」 シリーズ3

2015年4月9日木曜日

内野第1遺跡出土古墳時代ハマグリについて

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.107 内野第1遺跡出土古墳時代ハマグリについて

「千葉市内野第1遺跡発掘調査報告書 第Ⅲ分冊」(2001.3、株式会社野村不動産・財団法人千葉市文化財調査協会)には古墳時代遺構(竪穴住居跡、土壙)記述はありますが、出土遺物は未整理のため一切の記述がありません。

しかし、動物遺体、貝層やその他自然環境について理化学的分析が縄文時代及び古墳時代以降をふくめて対象とし、検討されています。

この検討の中で貝層分析については出土時代を縄文時代と古墳時代に分けて記述していますので、次に古墳時代だけを抜書きして、その内容を考察します。

(1)遺構別
H-27及びH-32は古墳時代前期の住居内貝層であるハマグリ主体の貝層でシオフキを一定量含む。炭化物・焼貝を少量含むが、獣骨・魚骨は無い。
(2)時期別
古墳時代を見てみると主体貝類はオキアサリではなく、ハマグリ・シオフキであり、イボキサゴはほとんどふくまれない。また、炭化物・焼貝を少量含むものの獣骨・魚骨はない。
(3)殻長組成
古墳時代はオキアサリが含まれないため、ハマグリのみ計測を行なった。H-27とH-32の殻長組成はやはり異なる2つのパターンが認められる。H-27が小形(2.5~5.0)のハマグリのみで構成されるのに対してH-32は小形の大形(5.0~10.0)を加えた組成を成している。H-32も殻長組成の異なる複数の廃棄単位から成るものであると考えられる。
まとめ
古墳時代の貝層はハマグリ・シオフキを主体としており、東京湾か古鬼怒湾から搬入されたものと考えられる。特にH-32の大形のハマグリは九十九里沿岸など太平洋側から搬入された可能性が高い。
「千葉市内野第1遺跡発掘調査報告書 第Ⅲ分冊」(2001.3、株式会社野村不動産・財団法人千葉市文化財調査協会)から抜書き引用

考察
古墳時代前期集落である内野第1遺跡出土ハマグリについて、東京湾か古鬼怒湾から搬入され、大形のものは太平洋側から搬入された可能性が高いとしています。
この検討結果を図にすると次のようになります。

「千葉市内野第1遺跡発掘調査報告書 第Ⅲ分冊」(2001.3、株式会社野村不動産・財団法人千葉市文化財調査協会)で検討されている内野第1遺跡出土古墳時代ハマグリの産地

古墳時代には近くの印旛浦ではすでにハマグリは採れなかったと理解しています。また印旛浦河口より海側の古鬼怒湾本湾でも交易に使えるような大量のハマグリが採れたとは考えづらいことです。
もし交易用のハマグリが採れたとすると、古鬼怒湾本湾から内野第1遺跡(集落)まで直線距離にして約20km、実際の運搬距離は印旛浦が複雑な形態をしているので、その倍以上つまり40km程になります。
干し貝ならまだしも、貝殻のついた生きた貝を腐らせる前に運ぶことは古墳時代に不可能とは言えないまでも、大きな困難を伴うものであったと考えます。

大形ハマグリが太平洋岸産(九十九里産)という検討ですが、直線距離にして約30Kmの活貝の運搬をしたことになります。実際の移動距離は恐らく1.5倍~2倍近くになったと思います。ほとんど全部陸送(人力運搬)になります。
それだけの困難を全部克服して内野第1遺跡(集落)に大形ハマグリを届けるという社会的意義は全く存在しないと考えます。

従って、太平洋岸産のハマグリを内野第1遺跡(集落)で食ったということはありえないと思います。
(古墳時代後期の東京湾ではハマグリに対する捕獲圧が見られない(「千葉・上ノ台遺跡」(千葉市教育委員会))という情報もあり、大型ハマグリも東京湾産であると考えることが合理的であるように思います。)

生鮮食料品であるハマグリの産地は、一番近い海である東京湾岸産であると考えることが順当で合理的思考であるように考えます。

内野第1遺跡のハマグリが東京湾岸産であると考えた場合の運搬ルートを次に想像してみました。

東京湾岸産ハマグリの内野第1遺跡への運搬ルート(想像)

内野第1遺跡と干潟の間の直線距離は約9km、実際の移動距離は約10kmになります。

2015年4月8日水曜日

千葉市内野第1遺跡古墳時代集落の消長について

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.106 千葉市内野第1遺跡古墳時代集落の消長について

高台向遺跡から平戸川(勝田川)を3㎞ほと上流に遡った左岸に内野第1遺跡があります。

このブログの暫定作業領域からたまたま外れているのですが、古墳時代の大きな集落があるので、その消長について検討します。

1 内野第1遺跡古墳時代集落の概要
内野第1遺跡の位置は次の通りです。

内野第1遺跡の位置

古墳時代集落の概要
「遺跡の大部分を占めるのは古墳時代前・中期の集落である。調査された竪穴住居跡311軒、内4世紀代のもの281軒、5世紀代の竪穴住居跡30軒であり、16基の前期古墳、土壙20基が検出された。」
「集落存続時期については、弥生時代の遺物・遺構は全くみとめられておらず、…4世紀の早い時期に集落の造営が始まったものと思われる。…5世紀にかかる集落は…が調査されており、以後の時代は空白期となる。集落の盛期は4世紀の中葉から後半期として大過なかろう。」
「…内野第1遺跡のように弥生期には全く痕跡がなく、古墳時代前期に突然創起し、100余年を経過して消滅し、その間300余軒もの住居が営まれた集落遺跡は例をみない。」(「千葉市内野第1遺跡発掘調査報告書 第Ⅲ分冊」(2001.3、株式会社野村不動産・財団法人千葉市文化財調査協会)より抜粋引用)

内野第1遺跡遺構配置図
「千葉県の歴史 資料編考古2(弥生・古墳時代)」(千葉県発行)より引用

2 古墳時代集落の消長について
発掘調査報告書には遺構について詳細なデータが掲載されていますが、遺物は未整理のため掲載されていません。従って遺物からの検討はできません。

なぜ短期間だけこの古代集落が存在したのか、現在自分が考えられる条件をリストアップしておきます。
将来自分の知識が増えてより的確な推定をする時に使う資料とするためです。

(1) 集落創起の原因
●集落が創起された原因の背景
・弥生時代の痕跡がなく、突然古墳時代遺構が見つかるのですから、古墳時代に集団が移動してきて、ここに定住したことが考えられます。
・この場所は明らかに交通の便が悪く、恐らく古墳時代の土地感覚でいえば「奥地」の場所です。
・下総台地の類似の環境(谷津と台地の織り成す環境)はまだほとんど手つかずで集落の存在は極めて少なかったと考えられます。

●このような条件から次のような集落創起原因が考えられます。
1 近隣集落(例 高台向遺跡の集落)から派生した集団がより上流の未開発地に入植して、自分達の活動領域を拡大して新集落を形成した。
2 元々定住地を持たない集団が放浪の末、この地にたどりつき、その場所で放浪を止めて定住し集落を形成した。
3 別の場所で土地争い(戦争)に敗れ、敗走してこの地に逃げ込み、定住し、集落を形成した。

●検討
・規模の大きな計画的地域開発は古墳時代には行われていなかったと考えています。計画的に土地を開拓して、更地から300軒の竪穴住居をつくるという行為があったことはないと思います。ですから1の可能性は低いのでないかと考えます。
・更地から300軒の竪穴住居をつくり、古墳も16基残すのですから集団としての生活意欲・技術力・文化程度は高かったと考えます。そうであれば、放浪集団というよりもすでに技術力や高い文化をもった集団つまり定住地を奪われた集団がこの集落をつくったと考えたほうが合理的であるように感じます。

(2) 集落発展の原因
地図で谷津と台地の分布を見る限り、内野第1遺跡が立地したような環境はいくらでもあるように見えます。
ですから、内野第1遺跡(集落)が短期間ですが、繁栄した原因を突き止めることができません。

ここでは、もしかしたら内野第1遺跡(集落)繁栄の原因の1つであったかもしれない条件として、湖沼(長沼)の存在をピックアップしておきます。

・内野第1遺跡(集落)が現在の勝田川谷底や宇那谷川谷底で水田を営んでいた可能性は濃厚です。
・そして宇那谷川の上流には現在は干拓されて消失した大きな湖沼(長沼)がありました。
・上流に湖沼があるのですから、宇那谷川谷底はもとよりその合流部下流の勝田川谷底の水田も干天に強かったはずです。
・近世に長沼は堰がつくられ宇那谷川や勝田川の用水源として利用されました。
・古墳時代にあっても干天時に湖沼のはけ口から水を流す程度の工夫(はけ口を拡げる程度の土木的工夫)はできた可能性があります。
・そうした土木技術がなくても、ただ湖が存在するだけで下流に滲みだす水があり、水利が安定しているという有利な条件があったことは考えられます。
・他の谷津田では干天と水害のために、谷津源頭部でしか水田をつくれなかった時代に、干天の被害を考えなくてよいという条件に恵まれれば、水害はあるものの、それだけでとても有利な水田耕作ができます。

近世湖沼(長沼)の復元
基図は旧版1万分の1地形図

湖沼(長沼)は台地面上にあり、地史時代の断層崖に起因して谷津が湛水した断層湖です。2013.10.09記事「長沼池と古長沼」等記事多数

(3) 集落終焉の原因
集落が100余年の繁栄の後忽然と終焉してしまう原因を考えてみました。

根拠ある思考はできませんが、現在自分がイメージしている事柄をメモしておきます。

内野第1遺跡(集落)は何と言っても交通僻地に存在してます。花見川-平戸川筋の交通路から外れています。
交通路から外れた集落には情報や文化・技術が届きにくくなります。鉄製品や土木技術、耕作技術や優良作物の種などが届きにくくなると思います。
内野第1遺跡(集落)に特段の産物があれば、その流通のために交通が生れますが、そうした特段の産物がなければいつまでも交通は行止りになっています。
そうした劣悪な交通条件が続き、一方社会全体の技術力や文化が進歩すれば、いつの間にか内野第1遺跡(集落)は遅れた存在になります。生産性が相対的に低下し、住民の生活満足感も低くなり、リーダーの求心力も低下します。
もともと、たまたまの偶然でこの場所に住みついたのですから、集落社会崩壊を食い止める条件が虚弱だったのだと思います。

2015年4月7日火曜日

高台向遺跡の古墳時代土壙からカキ・ハマグリ出土を知る

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.105 高台向遺跡の古墳時代土壙からカキ・ハマグリ出土を知る

花見川・浜田川流域圏の古代の様子の検討から、平戸川・印旛浦南岸流域圏の古代の様子の検討に移ります

この記事では古墳時代高台向遺跡について検討します。

1 高台向遺跡の位置及び遺跡概要
最初に、近世印旛沼堀割普請以前の古代自然流域の様子と高台向遺跡等の位置を示します。

古代の自然流域と高台向遺跡等

高台向遺跡の概要(古墳時代)
「高台向遺跡からは今回の調査を含めて古墳時代後期の竪穴住居跡7軒と平安時代の竪穴住居跡4軒が検出されている。当遺跡の台地南側には前方後円墳の高台南古墳がある他、鷹の台ゴルフ場内にもさらに数基の古墳が存在する可能性もあり、これらの古墳との関係が問題となっていくる。」(「千葉市高台向遺跡・猪鼻城跡」(2007、千葉市教育委員会・財団法人千葉市教育振興財団)より引用)

高台向遺跡調査地点図
「千葉市高台向遺跡・猪鼻城跡」(2007、千葉市教育委員会・財団法人千葉市教育振興財団)より引用

2 古墳時代土壙から焼カキ殻層やアサリ・ハマグリ貝層が出土
高台向遺跡の10号土壙は覆土内より多量の貝と焼土を出土しており、共伴した遺物から古墳時代中期の頃と思われています。

土壙発掘の状況は次の通りです。

「表土層除去時に覆土上層で貝と焼土が検出された。規模1.5×1.3m、深さ0.6m。不正円形を呈し、底部は平坦で壁は垂直ぎみに立ち上がっている。覆土は1層で二枚貝を主体とする貝層。
4層が焼土と焼土ブロックの混層。6層は焼土・炭化物と貝の混層で、貝は火を受けておりカキを主体としアサリとシジミを若干含んでいた。1層の貝はアサリとハマグリで90%を占め、他にシオフキ・シジミ・ウミニナなどである。取り上げた貝の総量は、8.14kgを測る。遺物は貝の他に土師器の坏・甕・壺が出土した。」(「千葉市高台向遺跡」(1989、株式会社大研・財団法人千葉市文化財調査協会)より引用)

10号土壙の様子
「千葉市高台向遺跡」(1989、株式会社大研・財団法人千葉市文化財調査協会)より引用

10号土壙の写真
「千葉市高台向遺跡」(1989、株式会社大研・財団法人千葉市文化財調査協会)より引用

3 カキやアサリ・ハマグリ出土の意義
近隣の平戸川筋の官人居住奈良時代遺跡(村上込の内遺跡、権現後遺跡、北海道遺跡、白幡前遺跡)からハマグリが出土しています。

それについては、律令国家が官人を働かせるための一種のサービスとして行った可能性を以前の記事で論じました。2015.03.23記事「ハマグリを食ったのは誰か」参照

古墳時代にはこのような事情はなかったでしょうから、高台向遺跡(集落)と花見川・浜田川流域圏との間での交易が存在していたと考えられます。

花見川河口付近の干潟に存在したであろうカキ礁(※)から採れた新鮮なカキや、同じ干潟から採れたアサリ・ハマグリなどが活貝として高台向遺跡(集落)に急送されたのだと思います。

※ 現在の東京湾干潟にもカキ礁が存在します。

そして、高台向遺跡(集落)の円形土坑で火を焚いて、その周りを人々が取り囲んで、貝を焼いて食ったのだと思います。

カキやアサリ・ハマグリを採った漁労集落はおそらく直道遺跡や居寒台遺跡の近くのより海岸に近い場所にあったと考えます。
しかし、歴史時代の砂丘発達によりその遺跡は発見されていないものと考えます。

その未発見漁労集落は直道遺跡や居寒台遺跡の場所にあった集落の統治下にあり、引いては上ノ台遺跡(集落)の支配下にあったと考えます。

ですから、古墳時代の平戸川流域の高台向遺跡(集落)と花見川・浜田川流域の上ノ台遺跡(集落)はお互いに古墳を陣取り合戦のように配置しています(※※)が、それは一種の社会的ポーズであり、実際は緊密な交流があったと考えることがふさわしいと思います。

※※ 2015.04.06記事「花見川流域古墳空白地帯の検討」参照

カキやアサリ・ハマグリが運搬されたルートは水運で花見川を遡り、柏井付近で陸送となり、台地の上に出てそのまま高台向に運ばれたものと考えます。

古墳時代に東京湾干潟産貝を高台向遺跡(集落)に運んだルート推定

このブログで考えている古代東海道水運支路(仮説)のルートそのものが東京湾干潟産貝を高台向遺跡(集落)に運ぶ最短・最適ルートとなります。

奈良時代の東海道水運支路ルートが、古墳時代にすでに存在していたことになります。

このことから、奈良時代東海道水運支路は、古墳時代にすでに交通が存在していたルートを利用して改修、高規格化したものであることが推定できます。

カキやアサリ・ハマグリの急送はその運搬に多大な労力が必要であることから、集落の一般住民というよりリーダー層がそれを食ったものと考えます。
また日常的に食っていたというよりも、特定のイベントの際のごちそうとして食っていたものと考えます。

魚介類輸入の決済を漁労民や運搬集団に対してどのような産物(サービス)で行ったのか、とても興味があります。
しかし、現在の自分の知識レベルではイメージできませんので、今後の課題とします。

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参考
高台向遺跡の平安時代竪穴住居址から羽口が出土しています。従って平安時代には高台向遺跡に鍛冶施設があったと考えられます。

2015年4月6日月曜日

花見川流域古墳空白地帯の検討

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.104 花見川流域古墳空白地帯の検討

サイドバーに次のテキストガジェットをずっと掲載してきていて、対応していなくて、気になっていました。

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重要な追記をしました。
2015.01.23記事「花見川-平戸川筋の遺跡分布分析 その4 古墳をつくらない人々」に重要な追記をしました。
この記事を近々全面書き換えする予定です。(2015.01.24)
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2015.01.23記事を書いた後、感じた最大の違和感は、古墳空白域みたいな空間が存在し、それはその空間に居住する住民が社会的に劣位であった(被支配環境下にあった)ので古墳をつくれなかったと考えたことです。

そのような説明は根拠がないという直接理由だけでなく、他の多様な関連知識と照合して、間違っていると無意識が判断したので違和感が生じたのだと思います。

この記事を書いた後、古代遺跡発掘報告書悉皆閲覧活動も進み、知識の量も増え、直感レベルですが古墳空白域の意味について自分なりにイメージできるようになりましたので、それをメモして、記事の全面書き換えに替えます。

1 古墳時代花見川流域の古墳空白地帯

次の図で示すような範囲を、2015.01.23時点では古墳空白域と考えました。

古墳から離れているように見える古墳時代遺跡

古墳時代遺跡(集落遺跡)と古墳がどの程度の距離離れれば、相互関係が無いといえるのか情報が無いにも関わらず、分布図上のイメージから、このように考えてしまったのです。

2 古墳から見た社会階層イメージ
古墳空白地帯の検討をする上で、重要な基礎情報となる「古墳から見た社会階層秩序をイメージ」を、2015.01.23記事作成後に作成しましたので、次に示します。

古墳から見た社会階層秩序をイメージ

この図に示すような枠組みの中で古墳空白地帯の意義の検討をすればよいことになります。

3 古墳と集落遺跡との関係
古墳と集落遺跡の対応関係を直接検証する方法はまだ知りません。

しかし、上ノ台遺跡・直道遺跡・居寒台遺跡を始め花見川流域の古代遺跡に関する発掘調査報告書の悉皆閲覧をあらかた行いました。

また、必要に応じて報告書内容を自分なりに分析してみて、素人ながら古代人の生業とか活動範囲とか統治方法等について多少の知識をもつことができました。

そうした知識をベースに古墳と集落遺跡の関係について検討図を作成しました。

集落遺跡と古墳との対応関係検討図

この図に従って古墳と集落遺跡との関係を検討説明します。

A地域…花見川・浜田川流域の唯一の前方後円墳(東鉄砲塚古墳群)がこの地域に存在します。この古墳の主一族は上ノ台遺跡を本拠地として、花見川・浜田川流域全体を支配していたと考えます。
そして東浜田川源頭部までを含むA地域を直接統治していたと考えます。

B地域…砂州の上に愛宕山古墳が存在します。砂州の上という特異な立地と方墳であることから、流域首長クラスに従属する牛牧技術集団リーダーの墳墓であると想像しています。
また、砂州の上に牛牧技術集団の集落遺跡や牛牧の遺跡が存在するはずですが、砂州という条件のため考古学的な調査対象地域となってこなかった、さらに砂丘が被っているため遺跡が見つからなかったと考えます。

C地域…数基の古墳が存在すると考えますが、砂丘が被っていて、これまで発見されなかったと考えます。

D地域、E地域…古墳と集落遺跡の対応が観察できます。

F地域…A地域、D地域、E地域と比較すると、古墳空白地帯と考えてよいと思います。社会統治という面ではA地域(上ノ台遺跡)の統治下にあったと考えます。

G地域…集落遺跡1つに古墳1基が対応しているように見えます。集落遺跡:古墳の比率が異常です。

【考察】
この集落遺跡と古墳の対応関係検討図からつぎのようなイメージを持ちました。

花見川・浜田川流域圏で古墳をつくれるほどの経済的・人的パワーが存在していた地域は東京湾岸のA~E地域であったと考えます。

その地域は海と陸の双方の環境を生業面で利用できるとともに、東京湾を通じて交易・交流面で有利だったと思います。

そこには実際に古墳があります。C地域は未発見なだけで砂丘の下に存在している(いた)と考えます。

F地域・G地域はA~E地域と異なり、生業面で海の環境を利用できないので不利であったと考えます。

水田は極めて狭小な面積だけしか開発できない時代です。
ですから、谷津源頭部に存在する集落は水田耕作をしていたにも関わらず、流域社会の中では大きな経済的・人的パワーを保有することはできなかったと考えます。

F地域に古墳が存在しない理由はこのような理由です。

一方G地域には古墳が存在します。

生業面で不利な環境にあるにもかかわらず古墳が存在する理由は、交通・交流上の理由と地政学的理由の2つがあるからだと思います。

G地域は交通の要衝(花見川-平戸川筋水運路の船越[水運路をつなぐ陸路部])に位置します。
ですから交易・交流面で有利であったと考えます。

また、G地域が平戸川流域圏との境に位置しているという地政学的特性を有してます。

G地域に古墳をつくることにより、花見川・浜田川流域圏サイド(つまりA地域…上ノ台遺跡集落)が平戸川流域との領域界を確定し、交通の要衝の半分を押さえることができます。

つまり、G地域はA地域からサポートを受けることができるポジションにあったと考えられます。
(上図をみていると、いつの間にか、古墳記号が碁盤の碁石に見えてきます。)

F地域は地勢上の環境(海を利用できない)から経済的集積が遅れた地域、つまり人が少なかった地域であると考えます。

しかし同時に、F地域の最奥部の子和清水遺跡には水田耕作に関わる祭祀空間が存在し、水源地文化的に重要な地域を含んでいます。単に経済的開発が遅れた地域というイメージだけでなく、精神文化的に重要な地域であったというイメージを持つこともできます。


2015年4月5日日曜日

千葉市小字データベースのプロトタイプ完成

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.103 千葉市小字データベースのプロトタイプ完成

2015.03.25記事「予報 千葉市小字データの電子化」で紹介した千葉市小字データの電子化が終わり、その情報をExcelに流し込んでデータベースのプロトタイプをつくりましたので報告します。

1 千葉市小字データベースの姿
千葉県地名大辞典(1984、角川書店)附録の小字一覧の千葉市分を電子化して、ルビも含めてほぼそのままExcelに流し込んだファイルです。

出典と違う点は区別にデータを揃えた(集め直した)だけです。区内の大字(町丁目)の順番は現行行政使用のものではなく、出典記載順になっています。

(なお最近干拓された土地である美浜区には小字情報は存在しません。)

千葉市小字データベース画面
ルビに●をつけた地名は大字(町丁目)、それ以外の地名が小字

このデータベースからカウントして、出典記載(1984年時点)の大字(町丁目)は170、小字は3656であることがわかりました。

2 千葉市小字データベースの使用感
千葉市小字データベースは検索(ピックアップ)することを主目的に作成したデータベースです。

2-1 検索の使用感 1
例えば、「古墳時代の鍛冶遺跡-妙見信仰-秦氏」(2015.02.08記事)という問題意識から、「ハタ地名検討の重大な意義に気がつく」(2015.02.12記事)ことになり、「Illustratorによる千葉県全域小字(10万件)の簡易データベース完成」(2015.02.09記事)によりハタ地名を抽出したことがあります。

ハタ地名の抽出作業は次の図でおこない、チェックした小字(赤塗色)を手持ちカウンターでカチャカチャ数えて、その数を数えました。

小字リストにハタ地名をチェックした様子

見落としを最小限にするために、リストを見ながら多様な条件を絶えず考えるという、神経を緊張させた解読作業を膨大な時間にわたって行う必要があります。非効率的作業を強要されてしまい、あまりしたくない作業です。

ところが、千葉市小字データベースをExcelの機能で検索すれば、読み「ハタ」「バタ」「ワダ」「ワタ」なり、漢字「旗」「畑」「秦」「和田」なりが含まれる小字を一瞬のうちに検索できます。

Excelによるハタ地名検索例

検索されたものから不適切な例を除去して重複等を整理すれば、ハタ地名の基礎資料をつくることができます。

データベース作成により、千葉市小字3656を逐一検討する作業から解放されました。

「ハタ」15+「バタ」57+「畑」55+「幡」16+…=多くても200弱くらい の地名を検討すればハタ地名の基礎資料をつくることができます。

地名検討で大効率化、大時間節約が実現できる条件が生れました。

2-2 検索の使用感
例えば、古代鍛冶遺跡に関係すると考えられる「カナクソ」などのカネ(カナ)地名があります。この地名がどの程度あるのか、正確にはわかりませんでした。

しかし、データベースを検索すると、「カネ」16、「カナ」16、「金」23の地名がピックアップできます。これらの地名から不適切なものを除き、重複を整理すれば、カネ(カナ)地名の基礎資料をつくることが出来ます。

これまで興味を持ってきた地名を検索すると次のような地名がヒットします。
ハナ地名…「ハナ」40、「バナ」7、「花」39、「鼻」9、「端」6、「塙」2

戸地名…「戸」144

マク(マキ)地名…「マク」1、「マキ」8

ブログ記事で話題にした地名…犢橋の「コテ」3、検見川の「ケミ」7、奈良熊の「ナラ」5

これまで「この地名はもしかしたら他の場所にもあるのではないか?」と調べたくなったことが何度もありましたが、よほど強い動機がある場合以外はその調査はいつも断念していました。
しかし、千葉市という限られた範囲ですが、それが可能となりました。

3 千葉市小字データベースの活用可能性
データベース検索により作成したリストの分布図は、手作業により時間がかかりますが、「絵にみる図でよむ千葉市図誌 上下巻」(千葉市発行)等の資料を利用して正確なものが出来ます。

短時間で分布概要を知りたいなら、GIS機能を使ったアドレスマッチングという手法があります。(近々、検索した地名のアドレスマッチング結果を紹介します。)

小字データベースが考古歴史を考える際の貴重なヒント源として使えるという活用可能性が、自分の前に大きく浮かび上がってきました。

自分の興味に合わせて、小字地名基礎資料を必要に応じていくらでも作れるということは、古代に関する発想力を強化するうえで重要な役割を果たすことになりそうです。

小字データベースを活用すれば、古代社会の様子に関する土地勘を豊かにすることができると思います。

原始社会に興味を移動させれば、縄文語起源地名(例 ハナ地名)を検索検討することにより、原始社会の様子に関する土地勘を豊かにすることができると思います。

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【お知らせ】

現在取り組んでいるテーマ(花見川-平戸川筋=古代東海道水運支路)とともに、今後、小字データベース作成領域を千葉市以外に拡げて、その活用方法を高度化させるプロジェクトに取り組みます。
その経過は逐一記事にしていきます。
その記事(データベース作成関連記事)は、今後は「花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討」シリーズとは別立ての新たなシリーズ記事とします。

2015年4月4日土曜日

2015.04.04 今朝の花見川

曇天の早朝でした。風が強く倒れている枯れ木もありました。

花見川の水面には飛んできた桜の花びらが浮いていました。数日後には水面が真っ白になるとおもいます。

花見川の水面

昨日の早朝散歩ではトーチカ付近で、久しぶりにフクロウのゆったりした飛翔を見ました。
残念でしたがとっさの撮影は間に合いませんでした。アクションカメラが必要となる季節になりました。

昨朝フクロウの飛翔を見た付近(トーチカ付近)

弁天橋から下流

弁天橋から上流

弁天橋から上流
鳥居は横戸弁天、背景の住宅は八千代市勝田台の住宅

散歩道の桃の花

散歩道に桃の木が2本あり、桃の花が満開で咲いています。毎年桃の実がなり、野生動物が食べます。

散歩道の桃の花

この路傍の桃は桜より数日遅れて満開となります。

2015年4月2日木曜日

奈良時代花見川河口拠点集落の機能検討

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.102 奈良時代花見川河口拠点集落の機能検討

これまでのブログ記事作成で、自分の中に形成されてきた奈良時代花見川河口拠点集落の機能イメージをまとめておきます。

1 東海道駅路管理機能
・浮島駅家運営集団の統治
・駅家施設建設、管理、運営
・馬の飼養
・河曲駅及び井上駅との間の道路施設管理、輸送通信業務運営

2 東海道水運支路管理機能
・花見川河口津運営集団の統治
・花見川河口津施設建設、管理、運営
・船修繕管理
・東京湾沿岸津との間における水運路確保、輸送通信業務運営
・杵隈水駅(船着場)建設、管理、運営
・杵隈水駅間との間における水運路確保、輸送通信業務運営

3 軍需産業としての浮島牛牧経営機能
・牛牧運営技術集団の統治
・牛牧施設の建設、管理
・牛の飼養
・陸奥国等への出荷

4 軍事機能
・軍事兵站組織の統治
・武器、食料等の備蓄
・馬、牛の臨機使用のための飼養
・武器の補修(鍛冶機能)
・通過将兵の宿泊、物資補給、輸送支援

5 外交機能
・玄蕃所要員の統治
・玄蕃所(俘囚収容所)の管理、運営
・俘囚の収容監視、検見、異なる目的地への輸送手配

6 漁業生産機能
・漁労集団の統治
・新鮮魚介類の必要量収穫
・魚介類輸送集団の統治
・平戸川筋拠点官人への魚介類臨機輸送、供給

7 農業生産機能
・水田開発集団の統治
・奈良熊-実籾田地域の開拓、米生産、国家への供出
・雑穀栽培、麻栽培、機織り集団の統治
・雑穀生産、麻生産-機織物生産、国家への供出

8 生業集団への鉄製品支給機能
・鍛冶集団の統治
・鍛冶機能による刀子、鍬、鉈、鎌、釣針、銛、釘等の生産、各生業集団に対する供給、リサイクル体制構築

奈良時代花見川河口拠点集落に関連する地物

【感想】
古墳時代には上ノ台遺跡集落がいわば首都であったミニ国家みたいな統治体制があったものと考えています。
ですから、その統治体制のリーダーは曲がりなりにも統治地域(花見川・浜田川流域)の発展を考えていたものと想定します。
しかし、地域開発という視点からの計画的発想力は虚弱であったと考えます。

一方、奈良時代の律令国家体制になると、蝦夷戦争の成功的遂行という目的の下に、計画的に戦略的機能を下総国の各地域に張り付けていくというゾーニングが行われ、そのゾーニング趣旨に基づいて各地域の具体的開発がおこなわれたという印象を受けます。

奈良時代の花見川・浜田川流域は国家の直轄領と同じであったと思います。花見川・浜田川流域だけでなく下総国全体が国家の直轄領と同じであったのではないかと考えます。(鉸帯が下総国で沢山出土することはこうした事情と対応するのだと思います。)

奈良時代の花見川河口拠点集落のリーダー(官僚)は国家(下総国)が計画するプロジェクトを実施することによって自らの役割を果たそうとして、邁進していたと考えます。

計画道路(東海道)、計画水運路(東海道水運支路)、計画港湾(花見川河口津)、計画平坦基地(花見川河口拠点そのもの)、計画的漁業活動(ハマグリ収穫等)、計画水田開拓(奈良熊-実籾田地域)などのプロジェクトです。

しかし、花見川・浜田川流域のまとまりある地域としての円満な発展を図る、あるいは流域住民の福祉をいかに向上させるかというような視点はほとんど無いか、虚弱であったと思います。

律令国家は全ては蝦夷戦争の成功的遂行のために、下総国で、最適な場所で最も効率的な開発プロジェクトの実施に総力をあげていたのだと思います。