サイドバーに次のテキストガジェットをずっと掲載してきていて、対応していなくて、気になっていました。
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2015.01.23記事「花見川-平戸川筋の遺跡分布分析 その4 古墳をつくらない人々」に重要な追記をしました。
この記事を近々全面書き換えする予定です。(2015.01.24)
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2015.01.23記事を書いた後、感じた最大の違和感は、古墳空白域みたいな空間が存在し、それはその空間に居住する住民が社会的に劣位であった(被支配環境下にあった)ので古墳をつくれなかったと考えたことです。
そのような説明は根拠がないという直接理由だけでなく、他の多様な関連知識と照合して、間違っていると無意識が判断したので違和感が生じたのだと思います。
この記事を書いた後、古代遺跡発掘報告書悉皆閲覧活動も進み、知識の量も増え、直感レベルですが古墳空白域の意味について自分なりにイメージできるようになりましたので、それをメモして、記事の全面書き換えに替えます。
1 古墳時代花見川流域の古墳空白地帯
次の図で示すような範囲を、2015.01.23時点では古墳空白域と考えました。
古墳から離れているように見える古墳時代遺跡
古墳時代遺跡(集落遺跡)と古墳がどの程度の距離離れれば、相互関係が無いといえるのか情報が無いにも関わらず、分布図上のイメージから、このように考えてしまったのです。
2 古墳から見た社会階層イメージ
古墳空白地帯の検討をする上で、重要な基礎情報となる「古墳から見た社会階層秩序をイメージ」を、2015.01.23記事作成後に作成しましたので、次に示します。
古墳から見た社会階層秩序をイメージ
この図に示すような枠組みの中で古墳空白地帯の意義の検討をすればよいことになります。
3 古墳と集落遺跡との関係
古墳と集落遺跡の対応関係を直接検証する方法はまだ知りません。
しかし、上ノ台遺跡・直道遺跡・居寒台遺跡を始め花見川流域の古代遺跡に関する発掘調査報告書の悉皆閲覧をあらかた行いました。
また、必要に応じて報告書内容を自分なりに分析してみて、素人ながら古代人の生業とか活動範囲とか統治方法等について多少の知識をもつことができました。
そうした知識をベースに古墳と集落遺跡の関係について検討図を作成しました。
集落遺跡と古墳との対応関係検討図
この図に従って古墳と集落遺跡との関係を検討説明します。
A地域…花見川・浜田川流域の唯一の前方後円墳(東鉄砲塚古墳群)がこの地域に存在します。この古墳の主一族は上ノ台遺跡を本拠地として、花見川・浜田川流域全体を支配していたと考えます。
そして東浜田川源頭部までを含むA地域を直接統治していたと考えます。
B地域…砂州の上に愛宕山古墳が存在します。砂州の上という特異な立地と方墳であることから、流域首長クラスに従属する牛牧技術集団リーダーの墳墓であると想像しています。
また、砂州の上に牛牧技術集団の集落遺跡や牛牧の遺跡が存在するはずですが、砂州という条件のため考古学的な調査対象地域となってこなかった、さらに砂丘が被っているため遺跡が見つからなかったと考えます。
C地域…数基の古墳が存在すると考えますが、砂丘が被っていて、これまで発見されなかったと考えます。
D地域、E地域…古墳と集落遺跡の対応が観察できます。
F地域…A地域、D地域、E地域と比較すると、古墳空白地帯と考えてよいと思います。社会統治という面ではA地域(上ノ台遺跡)の統治下にあったと考えます。
G地域…集落遺跡1つに古墳1基が対応しているように見えます。集落遺跡:古墳の比率が異常です。
【考察】
この集落遺跡と古墳の対応関係検討図からつぎのようなイメージを持ちました。
花見川・浜田川流域圏で古墳をつくれるほどの経済的・人的パワーが存在していた地域は東京湾岸のA~E地域であったと考えます。
その地域は海と陸の双方の環境を生業面で利用できるとともに、東京湾を通じて交易・交流面で有利だったと思います。
そこには実際に古墳があります。C地域は未発見なだけで砂丘の下に存在している(いた)と考えます。
F地域・G地域はA~E地域と異なり、生業面で海の環境を利用できないので不利であったと考えます。
水田は極めて狭小な面積だけしか開発できない時代です。
ですから、谷津源頭部に存在する集落は水田耕作をしていたにも関わらず、流域社会の中では大きな経済的・人的パワーを保有することはできなかったと考えます。
F地域に古墳が存在しない理由はこのような理由です。
一方G地域には古墳が存在します。
生業面で不利な環境にあるにもかかわらず古墳が存在する理由は、交通・交流上の理由と地政学的理由の2つがあるからだと思います。
G地域は交通の要衝(花見川-平戸川筋水運路の船越[水運路をつなぐ陸路部])に位置します。
ですから交易・交流面で有利であったと考えます。
また、G地域が平戸川流域圏との境に位置しているという地政学的特性を有してます。
G地域に古墳をつくることにより、花見川・浜田川流域圏サイド(つまりA地域…上ノ台遺跡集落)が平戸川流域との領域界を確定し、交通の要衝の半分を押さえることができます。
つまり、G地域はA地域からサポートを受けることができるポジションにあったと考えられます。
(上図をみていると、いつの間にか、古墳記号が碁盤の碁石に見えてきます。)
F地域は地勢上の環境(海を利用できない)から経済的集積が遅れた地域、つまり人が少なかった地域であると考えます。
しかし同時に、F地域の最奥部の子和清水遺跡には水田耕作に関わる祭祀空間が存在し、水源地文化的に重要な地域を含んでいます。単に経済的開発が遅れた地域というイメージだけでなく、精神文化的に重要な地域であったというイメージを持つこともできます。
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