花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.107 内野第1遺跡出土古墳時代ハマグリについて
「千葉市内野第1遺跡発掘調査報告書 第Ⅲ分冊」(2001.3、株式会社野村不動産・財団法人千葉市文化財調査協会)には古墳時代遺構(竪穴住居跡、土壙)記述はありますが、出土遺物は未整理のため一切の記述がありません。
しかし、動物遺体、貝層やその他自然環境について理化学的分析が縄文時代及び古墳時代以降をふくめて対象とし、検討されています。
この検討の中で貝層分析については出土時代を縄文時代と古墳時代に分けて記述していますので、次に古墳時代だけを抜書きして、その内容を考察します。
(1)遺構別
H-27及びH-32は古墳時代前期の住居内貝層であるハマグリ主体の貝層でシオフキを一定量含む。炭化物・焼貝を少量含むが、獣骨・魚骨は無い。
(2)時期別
古墳時代を見てみると主体貝類はオキアサリではなく、ハマグリ・シオフキであり、イボキサゴはほとんどふくまれない。また、炭化物・焼貝を少量含むものの獣骨・魚骨はない。
(3)殻長組成
古墳時代はオキアサリが含まれないため、ハマグリのみ計測を行なった。H-27とH-32の殻長組成はやはり異なる2つのパターンが認められる。H-27が小形(2.5~5.0)のハマグリのみで構成されるのに対してH-32は小形の大形(5.0~10.0)を加えた組成を成している。H-32も殻長組成の異なる複数の廃棄単位から成るものであると考えられる。
まとめ
古墳時代の貝層はハマグリ・シオフキを主体としており、東京湾か古鬼怒湾から搬入されたものと考えられる。特にH-32の大形のハマグリは九十九里沿岸など太平洋側から搬入された可能性が高い。
「千葉市内野第1遺跡発掘調査報告書 第Ⅲ分冊」(2001.3、株式会社野村不動産・財団法人千葉市文化財調査協会)から抜書き引用
考察
古墳時代前期集落である内野第1遺跡出土ハマグリについて、東京湾か古鬼怒湾から搬入され、大形のものは太平洋側から搬入された可能性が高いとしています。
この検討結果を図にすると次のようになります。
「千葉市内野第1遺跡発掘調査報告書 第Ⅲ分冊」(2001.3、株式会社野村不動産・財団法人千葉市文化財調査協会)で検討されている内野第1遺跡出土古墳時代ハマグリの産地
古墳時代には近くの印旛浦ではすでにハマグリは採れなかったと理解しています。また印旛浦河口より海側の古鬼怒湾本湾でも交易に使えるような大量のハマグリが採れたとは考えづらいことです。
もし交易用のハマグリが採れたとすると、古鬼怒湾本湾から内野第1遺跡(集落)まで直線距離にして約20km、実際の運搬距離は印旛浦が複雑な形態をしているので、その倍以上つまり40km程になります。
干し貝ならまだしも、貝殻のついた生きた貝を腐らせる前に運ぶことは古墳時代に不可能とは言えないまでも、大きな困難を伴うものであったと考えます。
大形ハマグリが太平洋岸産(九十九里産)という検討ですが、直線距離にして約30Kmの活貝の運搬をしたことになります。実際の移動距離は恐らく1.5倍~2倍近くになったと思います。ほとんど全部陸送(人力運搬)になります。
それだけの困難を全部克服して内野第1遺跡(集落)に大形ハマグリを届けるという社会的意義は全く存在しないと考えます。
従って、太平洋岸産のハマグリを内野第1遺跡(集落)で食ったということはありえないと思います。
(古墳時代後期の東京湾ではハマグリに対する捕獲圧が見られない(「千葉・上ノ台遺跡」(千葉市教育委員会))という情報もあり、大型ハマグリも東京湾産であると考えることが合理的であるように思います。)
生鮮食料品であるハマグリの産地は、一番近い海である東京湾岸産であると考えることが順当で合理的思考であるように考えます。
内野第1遺跡のハマグリが東京湾岸産であると考えた場合の運搬ルートを次に想像してみました。
東京湾岸産ハマグリの内野第1遺跡への運搬ルート(想像)
内野第1遺跡と干潟の間の直線距離は約9km、実際の移動距離は約10kmになります。
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