2015年4月8日水曜日

千葉市内野第1遺跡古墳時代集落の消長について

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高台向遺跡から平戸川(勝田川)を3㎞ほと上流に遡った左岸に内野第1遺跡があります。

このブログの暫定作業領域からたまたま外れているのですが、古墳時代の大きな集落があるので、その消長について検討します。

1 内野第1遺跡古墳時代集落の概要
内野第1遺跡の位置は次の通りです。

内野第1遺跡の位置

古墳時代集落の概要
「遺跡の大部分を占めるのは古墳時代前・中期の集落である。調査された竪穴住居跡311軒、内4世紀代のもの281軒、5世紀代の竪穴住居跡30軒であり、16基の前期古墳、土壙20基が検出された。」
「集落存続時期については、弥生時代の遺物・遺構は全くみとめられておらず、…4世紀の早い時期に集落の造営が始まったものと思われる。…5世紀にかかる集落は…が調査されており、以後の時代は空白期となる。集落の盛期は4世紀の中葉から後半期として大過なかろう。」
「…内野第1遺跡のように弥生期には全く痕跡がなく、古墳時代前期に突然創起し、100余年を経過して消滅し、その間300余軒もの住居が営まれた集落遺跡は例をみない。」(「千葉市内野第1遺跡発掘調査報告書 第Ⅲ分冊」(2001.3、株式会社野村不動産・財団法人千葉市文化財調査協会)より抜粋引用)

内野第1遺跡遺構配置図
「千葉県の歴史 資料編考古2(弥生・古墳時代)」(千葉県発行)より引用

2 古墳時代集落の消長について
発掘調査報告書には遺構について詳細なデータが掲載されていますが、遺物は未整理のため掲載されていません。従って遺物からの検討はできません。

なぜ短期間だけこの古代集落が存在したのか、現在自分が考えられる条件をリストアップしておきます。
将来自分の知識が増えてより的確な推定をする時に使う資料とするためです。

(1) 集落創起の原因
●集落が創起された原因の背景
・弥生時代の痕跡がなく、突然古墳時代遺構が見つかるのですから、古墳時代に集団が移動してきて、ここに定住したことが考えられます。
・この場所は明らかに交通の便が悪く、恐らく古墳時代の土地感覚でいえば「奥地」の場所です。
・下総台地の類似の環境(谷津と台地の織り成す環境)はまだほとんど手つかずで集落の存在は極めて少なかったと考えられます。

●このような条件から次のような集落創起原因が考えられます。
1 近隣集落(例 高台向遺跡の集落)から派生した集団がより上流の未開発地に入植して、自分達の活動領域を拡大して新集落を形成した。
2 元々定住地を持たない集団が放浪の末、この地にたどりつき、その場所で放浪を止めて定住し集落を形成した。
3 別の場所で土地争い(戦争)に敗れ、敗走してこの地に逃げ込み、定住し、集落を形成した。

●検討
・規模の大きな計画的地域開発は古墳時代には行われていなかったと考えています。計画的に土地を開拓して、更地から300軒の竪穴住居をつくるという行為があったことはないと思います。ですから1の可能性は低いのでないかと考えます。
・更地から300軒の竪穴住居をつくり、古墳も16基残すのですから集団としての生活意欲・技術力・文化程度は高かったと考えます。そうであれば、放浪集団というよりもすでに技術力や高い文化をもった集団つまり定住地を奪われた集団がこの集落をつくったと考えたほうが合理的であるように感じます。

(2) 集落発展の原因
地図で谷津と台地の分布を見る限り、内野第1遺跡が立地したような環境はいくらでもあるように見えます。
ですから、内野第1遺跡(集落)が短期間ですが、繁栄した原因を突き止めることができません。

ここでは、もしかしたら内野第1遺跡(集落)繁栄の原因の1つであったかもしれない条件として、湖沼(長沼)の存在をピックアップしておきます。

・内野第1遺跡(集落)が現在の勝田川谷底や宇那谷川谷底で水田を営んでいた可能性は濃厚です。
・そして宇那谷川の上流には現在は干拓されて消失した大きな湖沼(長沼)がありました。
・上流に湖沼があるのですから、宇那谷川谷底はもとよりその合流部下流の勝田川谷底の水田も干天に強かったはずです。
・近世に長沼は堰がつくられ宇那谷川や勝田川の用水源として利用されました。
・古墳時代にあっても干天時に湖沼のはけ口から水を流す程度の工夫(はけ口を拡げる程度の土木的工夫)はできた可能性があります。
・そうした土木技術がなくても、ただ湖が存在するだけで下流に滲みだす水があり、水利が安定しているという有利な条件があったことは考えられます。
・他の谷津田では干天と水害のために、谷津源頭部でしか水田をつくれなかった時代に、干天の被害を考えなくてよいという条件に恵まれれば、水害はあるものの、それだけでとても有利な水田耕作ができます。

近世湖沼(長沼)の復元
基図は旧版1万分の1地形図

湖沼(長沼)は台地面上にあり、地史時代の断層崖に起因して谷津が湛水した断層湖です。2013.10.09記事「長沼池と古長沼」等記事多数

(3) 集落終焉の原因
集落が100余年の繁栄の後忽然と終焉してしまう原因を考えてみました。

根拠ある思考はできませんが、現在自分がイメージしている事柄をメモしておきます。

内野第1遺跡(集落)は何と言っても交通僻地に存在してます。花見川-平戸川筋の交通路から外れています。
交通路から外れた集落には情報や文化・技術が届きにくくなります。鉄製品や土木技術、耕作技術や優良作物の種などが届きにくくなると思います。
内野第1遺跡(集落)に特段の産物があれば、その流通のために交通が生れますが、そうした特段の産物がなければいつまでも交通は行止りになっています。
そうした劣悪な交通条件が続き、一方社会全体の技術力や文化が進歩すれば、いつの間にか内野第1遺跡(集落)は遅れた存在になります。生産性が相対的に低下し、住民の生活満足感も低くなり、リーダーの求心力も低下します。
もともと、たまたまの偶然でこの場所に住みついたのですから、集落社会崩壊を食い止める条件が虚弱だったのだと思います。

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