2011年6月7日火曜日

長沼池の昔と今

宇那谷川流域紀行8 長沼池の昔と今

「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」によれば、「宇那谷村の南に近接する長沼新田は、18世紀中葉(宝暦年間)以降、宇那谷田地の用水源である長沼池の開墾を、再三試みてきた。1836~1836(天保5~7)年、その長沼新田と宇那谷村との間で争論が生じ、池の北半分を宇那谷用水として確保することで示談が成立している。」とのことです。
次に、開発前、開発後の長沼池の地図と、現在の長沼池跡の空中写真を示します。

            長沼新田による開発前の長沼池
 宇那谷村・長沼新田用水争論絵図 部分(1834〔天保5〕年ごろか 宇那谷町内会所蔵) 「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」より転載

            開発後に宇那谷村の水源として残った長沼池
 迅速図「千葉県下総国千葉郡長沼新田印旛郡宇那谷村」図幅 部分(1882〔明治15〕年)


            現在の長沼池跡
 グーグルアースより

            長沼池跡の住宅地(2011.3.29撮影)

 明治の迅速図に示される長沼池は戦後まで存続していたのですが、私はその写真(風景写真)を見つけることが出来ませんでした。
 長沼池は地盤変動で生まれ(2011.5.22記事「長沼池の成因」参照)、狩猟民(縄文人)の定住地にもなり、その時代人の土地精霊に対する気持ちが三社神社の存在という形式で現在まで伝わってきています(2011.5.23記事「長沼池と縄文遺跡」参照)。さらに池そのものが農耕社会で重要な意義をもち、争論の場ともなりました。今は平穏な市街地となっています。そうした長沼池の歴史を考えるとき、長沼池の風景写真を是非とも見つけて池の姿を知り、思考におけるイメージを豊かにしたいと願っています。

 なお、3月11日の東日本大震災で花見川流域も埋立地や化灯土の分布地域で被災しました。その被災状況の観察結果は以前記事にしました。(2011.3.24記事「緊急報告1」、「緊急報告2」、2011.3.24記事「花見川の出自と被災箇所の対応」など)
 この観察の後、長沼池埋立地はどうだろうかと思い、3月29日に出かけて観察しました。しかし、噴砂など地層液状化現象やモノの倒壊等の被害は見つかりませんでした。

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