2013年7月14日日曜日

千葉市柏井の由来は船着場(仮説)

花見川地峡の自然史と交通の記憶 29

千葉市柏井町の「柏井」地名の由来は船着場から来ていると考えましたので報告します。

1 地名辞典等の説明
1-1 角川日本地名大辞典
角川日本地名大辞典では柏井の地名由来について次のように説明しています。

「地名の由来は、花見川の谷壁の傾斜地(カシワ)という地形によるものか。」

無理矢理由来を考えて、とにかく原稿用紙を埋めておこうという印象の説明であり、到底実感が湧くものではありません。

1-2 千葉市の町名考
「千葉市の町名考」(和田茂右衛門、千葉市加曾利貝塚博物館)では、支配関係の情報や文献に出てくる柏井村の詳しい歴史状況等の説明の後で、次のように説明しています。

「町名の起原については伝承も資料もみつかっていない。」

和田茂右衛門先生は「史料の虫となられた」(「社寺よりみた千葉市の歴史」あとがき)方で、千葉市史編纂の基礎となる史料調査をなされた方です。和田先生が作成した「千葉市小字図(タイプ印刷)」閲覧については2013.07.08記事「千葉市小字図(タイプ印刷)を実見する」で報告したところです。

その和田茂右衛門先生が「柏井の町名の起源については伝承も資料も見つかっていない」というのですから、残された道は、資料がないから降参して思考停止するか、自分で合理的な思考をして由来について検討するか、どちらかです。

2 柏井の由来
カシワイは「カシ」+「ワイ」と考えます。

「カシ」は次の世界大百科事典が説明するカシだと思います
「古代~中世には船をつなぐために水中に立てる杭・棹を<かし>をいい、牫牱または杵と表記した。船に用意しておき、停泊地で水中に突き立てて用いた(≪万葉集≫1190)。
<かし>はもと船具を意味したが、船着場に固定された舫杭(もやいくい)も<かし>といわれ(<建久7年造大輪田泊太政官符>≪東大寺文書≫)、そこから船の荷揚場を<かし>というようになったのである。<かし>を河岸と表記するようになったのは近世に属する。」(世界大百科事典「河岸」の項)

「ワイ」は次の国語大辞典(小学館)が説明する字音語素「ワイ(隈)」だと考えます。
「【隈】いりこんだところ。ものかげ。すみ。/隈隈、界隈/岸隈、厳隈、江隈、山隈、四隈、城隈、水隈、林隈/隈澳」
「にぎわい」の「ワイ」も同じだと思います。

「カシ」+「ワイ」は漢字で書けば「杵隈」であり「舟を留めている杭がいりこんでいるところ」とか「モヤイクイがいりこんだところ」という意味です。
結局は船着場という意味になると思います。もっと言えば港です。

私は3つの谷津が合流するあたりに少し開けた水面があり、幾艘かの舟が停泊し、出入りする舟のUターンもままならないような風景を想像します。そのような手狭な船着場の情景を「杵隈」として表現したのではないでしょうか。

カシワイ(杵隈)の意味が忘れられてしまったため、当て字「柏井」になったということです。

柏井付近まで縄文海進の海面が拡がっていたことから、奈良時代にあっても水運が可能な花見川の環境があったことは確実です。

3 柏井近くまで縄文海進の海面がフィヨルドのように広がっていた証拠
2011.12.20記事「GROBEさんコメントの感想」で縄文海進の海が花見川では花島を越えて柏井付近まで到達していたことを説明しました。
その時に作成した地質柱状図と説明を再掲します。

花見川谷底の地質柱状図

地質柱状図の位置

柱状図の位置は下流(左)から花見川大橋付近、花島付近、柏井橋付近を示しており、距離間隔はそれぞれ900m程度です。

この柱状図を私は次のように解釈しました。
A層とB層はN値が1程度であり、C層はN値が50程度で全く異なり、AB層は沖積層、C層は洪積層(木下層+上岩橋層)と考えました。
つまり、C層の上面が縄文海進のあった時の谷底で、B層が縄文海進が進んでいった時の堆積物と考えます。
縄文海進の最盛期の海面高度は標高2mから3mと言われています。
柏井橋付近のB層は高度的には縄文海進の影響の範囲内です。
細長い内湾奥での海と川の微妙な関係をリアルに想像できませんが、B層下部が海成であってもおかしくないと思います。
川の流域はいたって小さいので、川の影響は少ないと考え、海進最盛期には柏井まで海が来ていたと考えています。
後谷津、前谷津まで海が入っていたと考えます。

A層はいわゆる化灯土で、海が引いて行った時の湿地にできた植物の腐植層であると考えます。

つまり、花島を例にとれば、谷底の標高は次のように変化したと考えます。
最終氷期には谷底の標高は-3m程度であった。
縄文海進の最盛期が終わって、海が引いていった頃の谷底の標高は2m程度であった。
その後谷底の湿地の腐食層の堆積が進み、標高は4m以上になった。
その後花見川の洪水堆積や盛土等により谷底の標高は現在の約7mになった。

私は現在の谷底標高から、縄文海進の海がどこまで入っていたかを厳密に知ることはできないと思っています。
しかし、花見川付近では、貝塚の分布等から、標高10mの等高線のあたりまで縄文海進最盛期の海が入っていたと、便宜的に平面位置を捉えると、いろいろな問題を整合的に解釈できることが多いと考えています。

地質柱状図からの結論は、花島付近は縄文海進の際に海面が拡がったことは100%確実であり、柏井付近もその可能性は高いということです。

従って、奈良時代にあっても、水運が可能な花見川環境が存在していたことはほぼ確実であり、柏井が船着場の意味であるという説を支持します。

4 柏井の地名由来が忘れられた理由
印旛沼堀割普請が3回行われ、3回目の天保期印旛沼堀割普請では国家的規模の大土木事業となり、地形も大きくかわり、地域社会も大きな影響を受けました。

この体験が強烈な印象を地域に残し、それまでの地域の歴史をリセットしてしまったものと考えます。

印旛沼堀割普請で深い堀割を掘って、風景が一変してしまった後まで、奈良時代の水運の歴史の記憶を、地域が保持できなかったのです。

しかし、地名(の音)だけは語り継がれたのです。

5 これで3仮説が出揃った
次の3つの花見川地峡の古代交通に係る仮説が揃いました。

ア 高津が古代港湾であるとする仮説
イ 柏井と横戸の直線状境界が古代官道であるとする仮説
ウ 柏井の由来が古代の船着場であるとする仮説

何れも、花見川地峡の奈良時代の交通に関する仮説です。
これら3つの仮説の確からしさを高める努力をしていきたいと思っています。


同時に、奈良時代以前の交通についても、遺跡等の情報から検討を深めたいと思っています。

つづく

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